「宇宙哲学」 第10章

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落118

118 It behooves us then to study Principle instead of focusing all of our attention upon the effects of Principle (source of origin). When we direct our attention towards that inner guiding force we become fully awake and feel the inter-relationship of all life. There has never been a time when one released the personal ego to this inner force that he has not seen some immediate result of action; so as one becomes more fully aware of his oneness with the All-Intelligence his faith is increased and consequently his fear is decreased. Faith is the result of one's unity with the Whole, and such unity cannot take place until every thought of selfishness with its whole category of resultant fears steps aside and leaves the highway of understanding free of barriers. So we may see that absolute faith is not of easy attainment - it must come through a gradual growth just as all things change by degrees. Faith is actually an expansion of conscious awareness to include more knowledge and certainty of action.
118 ですから私達がその注意をすべて法則(源泉)の結果物に集める代わりに、法則を学ぶべきということは当然なのです。私達がその内なる導きの力に向かって注意を向ける時、私達は完全に覚醒し、全生命の相互関係を感じ取るようなります。人が個人的エゴをこの内なる力に解き放つ時、行動の直ちに起こる結果を見ないままで終わることはありません。ですから、人が自身が全英知と一体になっていることに、より完全に気付くようになるにつれて、その者の信仰は増し、その結果、その者の恐怖は低減します。信仰とはその者が全体と一体になった結果であり、このような一体化は全ての結果に及ぶ利己的なあらゆる想念が脇にどいて、理解の王道から障害が無くなるまでは有りえません。ですから、私達は絶対的な信仰というものは容易には達成できるものではないことは分かると思います。それは、丁度、全ての物事が少しずつ変化するのと同じように、なだらかな成長を通じて実現する筈です。信仰とは実際には、行動に対するより大いなる知識と確かさを含む意識的知覚力の拡張であるのです。



【解説】
 私達の日常の生活の中で、そのような探究の姿勢が大事なのかを第10章の最後に著者は説いています。
 要点は即ち、個別の物質、更には(私の意見としては)個別の事象に囚われるのでははく、もっとその奥に流れる法則を学ぶことに徹することだと思われます。
 私達は良きにつけ悪きにつけて様々な体験を得て生きています。その中でとかく私達はその得た結果に固執するあまり、その体験で得た法則性についての考察、研究が不足しがちです。その結果、再び同様の失敗を起こすことも多いのです。
 重要なのは、その結果がどのような法則の下で起こったかを学ぶことだと考えます。当然、私達は良い結果を求める訳ですから、何故今回はうまく行ったのか、何故前回はうまく行かなかったのかを考察することが重要です。その中で、当時の自分の心境、心構えが事態の進展に大きく影響していたことも分かりますし、更に進んで行動の際に自分がインスピレーションにどのように対処していたかもポイントになります。
 ひとたび良い結果が得られた時に、当時自分が”因”に対して素直であり、想念・印象に対して受容的であったことが分かれば、今後はその心境を維持すればよく、支えて呉れる因への信頼("faith")も高まり、恐れというものが次第に消失して行くものと考えます。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落117

117 Our lack of fear is not due to our confidence in matter but our inherent faith in the principle supporting and controlling matter. I say inherent because Cosmic Cause which produces faith is within every one. It is closer than hands and feet and whether or not we as mortals openly admit its existence we do realize it or we would not be conscious, living beings.
117 私達に恐怖が無いのは私達が物事に確信があるからではなく、物事を支配し、統制している原理に対する生まれながらに存在する信仰がある為です。私は信仰を作り出す宇宙的因は誰もの中にある為、生まれながらに存在すると言っているのです。それは貴方の手や足よりも近くにあり、死すべき私達が外に向かってその存在を認めるかどうかによりません。何故なら、そうでなければ私達は意識があり、生き物にはならないからです。



【解説】
 私達が日常、何ら不安を持たず安心しているのは、個々の物質に信頼を置いているからではなく、宇宙を貫く法則に信頼を置いているからだと著者は説いています。即ち、個別の物体、結果物に信頼を寄せていては、一つ一つ毎回のチェック確認が必要となる訳で、私達はそのようなことは行いません。前項(116)の例で言えば、重力の法則を理解し、その普遍性に信頼を置いているから安心しているのです。
 更に著者はその法則、即ち宇宙的因は、実は私達が生まれながらに継承していると説いています。私達自身の内側、手や足よりも、もっと私自身の近くに持っているのだということです。”私”だとしている自分の心を直接包み込むようなイメージかと思われます。それほどに私達個々人は恵まれた存在だということです。私達が学ぶべき事柄は全て、自分に用意され、私達がその気になればいつでも取り出し学べる環境にあるという訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落116

116 Do we worry that the rivers will start flowing up hill, or drop a weight and hold our breath that it might rise again, or throw a ball into the air and doubt that it will return to earth? No, for again we know the principle governing such action.
116 私達は川が丘を遡って流れるかも知れないとかを心配し、或いは重りを落として再び昇って来るかも知れない、或いは空中にボールを投げて再び地面に戻って来ないかと息を凝らすことがあるでしょうか。いいえ、ありません。何故なら、この場合もやはり私達はこのような行動を支配している原理を知っているからです。



【解説】
 本項では恐怖の原因は法則への理解の不足であると説いています。
 重力はあらゆるものに作用し、その法則によって惑星全体が成り立っている訳で、その作用は到底人間の及ぶところではありません。本項で示される川の流下や重りの自由落下等、私達の目にするものは、この重力法則の現れであるのです。
 同様にもし、私達が自然界に流れる真の生命波動のことや、想念・印象の持つ強力な創造作用の法則を知れば、それら法則を理解することで、未来に対する不安も解消するように思います。現在、心に抱く想念・印象がそのまま自分の未来を形作ることを理解すれば、重要なのは現在の自らの姿勢、心境であることが分かり、未来の状況を心配する必要はなくなるからです。
 極端に言えば、恐怖や不安を抱くのは地(球)上の人間だけだということでしょう。他の創造物はたとえどのような未来が待っているとしても、それを快く受け入れる覚悟があり、現実を享受し、生命を謳歌しているように思うからです。因への信頼の程度の差がそのことに大きく現れているという訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落115

115 Why do we have perfect confidence that the sun will rise each day? Have you ever known a man rising each morning, hours before dawn, to sit wringing his hands in tense anxiety over the prospect of eternal darkness? No, we have no such fear, and the primal reason that we do not doubt in this case is because the action of the suns and planets is greater than our mortal mind can conceive and therefore we leave such actions entirely in the hands of the All-Knowing Principle which understands and perpetrates all action. In this case we realize our personal insufficiency and so do not concern ourselves by exerting mortal effort in regard to it. We simply allow it to take place.
115 何故、私達は毎日太陽が昇って来ると完璧に確信して来ているのでしょうか。貴方はこれまで毎朝起きては夜明け前に永久に闇が続くことを恐れる余り、両手を握り締めて座すような人を知っていますか。いいえ、私達にそのような恐れはありません。また、このような場合に私達が疑いを持たない主な理由は、諸太陽や諸惑星の行動は私達の死すべき心が計り知りえるより偉大であり、それ故、私達はこれらの行動を全ての活動を理解し、それを為す全知の法則の手に完全に委ねているからです。この場合、私達は個人的な力量不足を自覚し、その為、それに対して死すべき者の努力を行使して自分自身を係らせようとはしないのです。私達は素直に起こるに任せているのです。


【解説】
 前項(114)でゾロアスターの言葉で"faith"(信仰)の度合いが表現されていた訳ですが、実際、私達自身、どのような者でも持っている"faith"の例を本項は示しています。毎日昇る太陽への信頼です。
 毎朝夜明け前、鳥達はじっと東の水平線に向かって日が昇るのを待っていますが、それは全ての生命活動の源として太陽を来迎する姿勢、一日の始まりを待つ姿勢かと思われます。また、決して太陽の出現有無を心配する姿ではない筈です。
 一方、私達の日常はこれら太陽の動き等、あまり関心を持つことなく、当たり前の自然現象として感謝の気持ちすらありません。それはそれで大いに問題とすべきでしょう。本文では毎朝の日昇に対するこれら私達の姿勢について、もちろん良しとしている訳ではなく、これら太陽や惑星の運行が私達の心など影響されない強大な宇宙の活動であることを説いています。また私達自身もそのような事項に対して自分ではどうすることも出来ない為、全てを宇宙に委ねているとしています。
 これら私達が宇宙に委ねると表現する訳ですが、その背景には単に無頓着な状況と私達生命を支えて呉れる日常的な惑星運行に感謝する中で、”因”に自らも含め委ねることの間には、大きなひらきがあることに気付く必要があると言わなければなりません。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落114

114 There is no such thing as absolute unbelief; there is only a growth from the lesser faith to the greater faith. As the teacher Zoroaster explained, "Evil is but unripened good." Likewise, fear is but undeveloped faith. Man has come from Cause Intelligence to the world of effects; his mortal sense mind lost the memory of Cosmic Cause and he is now in the process of reestablishing himself; he is on his way back to oneness with the Principle where selfishness with all of its innumerable effects is dissolved. It is through the recognition and realization of Cause that faith is stabilized.
114 絶対的な不信心というようなものは存在しません。より少ない信仰から、より大きな信仰への成長があるだけです。教師ゾロアスターが「悪とは未成熟の善である」と言ったようにです。同様に恐怖は未発達の信仰なのです。人は因なる英知から結果の世界に生まれ来たり、その死すべき感覚心は宇宙的因の記憶を失い、今や自分自身を再構築する過程にあります。人は利己心がその無数の結果物と溶け合う一大原理と一つに戻れる道の途中に居ます。信仰の安定化は因の認識と実感を通じてなされるのです。




【解説】
 本項は私達全てが長い進化の道を歩んでいる者であることを説いています。人間一人一人はその理解の度合いは異なりますし、本講座でいう"faith"(信仰)の状況も異なる訳ですが、それは一人一人の道程の違い、到達点の違いに過ぎません。基本的には私達は進化の道を登り続けるべきで、急ぐ必要はないとも言えるでしょう。
 実は本文を読んで分かることは、この内容は決して人の一生で終わる話ではないということです。そもそも因と一体になる認識に至ることは、生涯を掛けて容易に成し遂げられるようには思われないのです。それほどに私達の訓練対象である自我は強力な殻となって私達を支配しているのです。
 その意味でも著者アダムスキー氏は本文の表現を通じて、暗に私達が地球での今生涯を終えた後においても、再び何処かの星に転生し、継続した精進の道を歩むことになっていることを示唆しているように思われるのです。私にはこれら転生問題については、当時の米国等、キリスト教国では認められていない教義とされていたことも関連しているように思われます。本書も含め、アダムスキー哲学は地上の宗教の枠を超えて、自由な立場から宇宙的真理を説いていることに改めて注目すべきでしょう。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落113

113 The development of faith in man is the growth out of the personality into the impersonal expansion of awareness; from effect to the cause back of all effects.
113 人における信仰の発達は、個としての自分から非個性的な知覚の表現への成長、結果から全ての結果物の背後の因への成長のことなのです。



【解説】
 これまでご覧になっていてお分かりのように、”因”を知覚することは、印象(想念)という大変精緻な波動が心の中を通過することに気付くことでもあるのです。それには自らの内部を常に整え、上辺の空騒ぎを無くして、いつでもインスピレーション(瞬時的な想念波動の衝突)や表現すべき印象が通貨するのに気付かなければなりません。
 このことは同時に”因への信頼”、即ち本文で言う"faith"(信仰)がその基礎となっています。つまりは先ず、発信元を信頼した上で指導を受けることになる訳です。実はこうする中で、種自体を長年守って来た殻のような私達各自の自我というものは次第に薄くなり、やがては因の世界までも拡大、生長するということでしょう。
 硬い殻で守られて来た種が芽を出し本来望まれる大木にまで生長する上で、因の指導に従って自らの殻を破っての発芽、いわば殻を包む因の世界に自身を拡大することが飛躍の一歩になる訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落112

112 At this point you will, of course, say, "But the seed could not grow without the support of the earth, air, water and sun." This is true, but as the seed obeys the command of the Cosmic or Cause intelligence all necessary elements unite to bring it forth. The seed is not commanded to push through the ground in the cold winter months nor does it seek to grow without that urge from within. It waits patiently till it feels that the time for growth has come. What would happen if the seed questioned the urge to grow as man questions new ideas of a broader conception of life that try to impress themselves upon his mind? As the seed by not resisting the urge grows into a beautiful bush, so man, likewise, may be assured that if an idea or desire arises that is impersonal, it is there for a purpose and if acted upon will produce beneficial results. A desire can be kept from manifesting only through the effort of the personal will in resisting action. For the thought or desire is the actual Cause which fathers the outward conditions.
112 この時点で貴方はもちろん、こう言うでしょう。「しかし、種は土や空気、水や太陽の支援無くしては成長出来ない。」このことは真実ですが、種は宇宙の、或いは因の英知の指令に従うため、全ての必要な要素が種の発芽を実現するため、結束するのです。種は寒い冬の月日に地面を貫いて突き進むよう命ぜられることはありませんし、そのような内部からの衝動無くしては成長しようとはしません。それは成長の為の時期が来たと感じるまで忍耐強く待っています。もし種が人間が自分の心に印象付けようとしているより広い生命の新しい概念を疑問視するように、成長への衝動に対して疑問に思ったら、どうなることでしょう。種がその衝動に抵抗することなく、美しい茂みに成長するように、人間も、もし非個人的なアイデアや願望が起こった場合には、それ(訳注:アイデアや願望)は一つの目的の為にそこにあるのであり、もしそれに応じて行動すれば恩恵のある結果を作り出すことでしょう。願望は抵抗的行動をとる個人的意志の影響によってのみ現象化から遠ざけられるのです。何故なら、想念や願望は外側に向けての状況を生み出す実際の因であるからです。



【解説】
 本文を読んで気付くことは、植物の種も私自身も基本は同じ存在だということではないでしょうか。じっと内部に湧き起る因からの印象を待って、その印象が示唆する絶好の機会を逃さず、自らの使命を発現する為、結果の良否に頓着することなく、行動するということです。果たして従来の小さな自分の殻を破って芽の出た後の結果については不確かなことは否めませんが、それは次のステップの話であり、種にとっての当面の問題ではないのです。
 植物の種の中には何千年も生き続けるものが居ます。古代ハス(大賀ハス)として知られるハスの種は2000年以上も前のハスが今日花を咲かせた事例です。2000年もの時間が経過しても種は忍耐を続け、希望を断念することはなく、遂には条件が整い芽を出して多くの人々に祝福されたという訳です。
 この講座を続けていて分かることは、この因から来る印象というものは、実に精緻なもので、余程、心を鎮めて置かないと気付かずやり過ごしてしまうことです。それ程、私達の感性が鈍いということでしょう。私達も印象を待つ以上は心を穏やかにして印象を待つ心境も必要です。止水明鏡と表現されているように、心の中をかすかな波が通過しても明らかになる状況を造り上げる必要があるようです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落111

111 How often quoted is the expression of the Christ, "If ye have faith as a grain of mustard seed ye shall say to this mountain, remove hence to yonder place, and it shall remove; and nothing shall be impossible to you." (Matthew 17:20) This statement has been used to show how little faith is necessary to bring forth manifestation. Notice, however, that the words are not "faith as great as a grain of mustard seed" but "faith as a grain of mustard seed." Not the quantity of faith but the quality of faith is called to note in this statement. Let us study the consciousness of the mustard seed. Is it ever overcome with fear in regard to its personal existence? What causes it to grow? Is it not the conscious impulse force within it which promotes it into action? The seed knows nothing but this urge within itself which causes it to expand, burst its shell and proceed upward into the light. It does not seek to resist this force of natural growth nor does it wonder if it is right to act in this manner. It acts unquestioningly according to the law or principle of its purpose. It does not look to effects - neither to man, to earth, water, or sun. It expands into a mature bush because the forces within it command it into such growth.
111 これまで何回、キリストのこの表現が引用されたことでしょう。「もし、汝に一粒のカラシ種ほどの信仰があれば、この山に対し、ここからあそこの場所に移れと言えば、その山は移るであろう。貴方に不可能だというものはない。」(マタイ17:20)。この表現は創造作用をもたらすのに、如何に小さな信仰が必要なだけであるかを示すため、用いられて来ました。しかし、それらの言葉は「カラシ種一粒の大きさの信仰」ではなく、「一粒のカラシ種ほどの信仰」としているのです。信仰の量ではなく信仰の質がこの声明の中で求められていることに注意して欲しいのです。カラシの種の意識を研究して見ましょう。それはその個人的な存在に関して恐怖に打ち負かされているということはないのです。何がそれを成長させるのでしょうか。それを行動に突き動かすのはその種の中の意識的衝動ではないでしょうか。種は自分の中にあるこの衝動しか知っておらず、それが膨張し、殻を弾けさせ、光に向かって上方に進み出します。それは成長のこの力に抵抗しようとはせず、またこのように行動することが正しいかどうか迷うことはありません。それは法則あるいはその目的の為の原理に沿って、疑問を持つことなく行動します。それは人間、地面、水や太陽に対する影響を見てはいません。内部の諸々の力がそのような成長を命じる故に、成長した茂みになるのです。



【解説】
 イエスの「一粒のカラシ種の信仰」の言葉を通じて、"faith"(信仰)の持つ力とカラシ種が持つ"faith"(信仰)について、本項は明瞭に示しています。
 アダムスキー氏は多くの著作の中でイエスの言葉を引用し、これまでに無い解説を加える事例が多いのですが、それにはかつてイエスの弟子の一人であった彼の実体験、即ちイエスがその言葉を発した場面に居た体験があるように、最近、私は思うようになりました。
 さて、植物の種という結果を見れば、特にカラシの種等は大変小さく、その中身に何が秘められているのかは、私達の目では捉え切れません。同様に人間の卵子その他も同様にミクロの大きさではありますが、実はその内部に持つ遺伝情報は膨大なものがあり、適切な環境が維持されれば、各々立派な創造物になることは、皆様お分かりの事実です。
 本項で、著者が解説するイエスのカラシ種の話は、種の中にある"faith"(信仰)が如何に力のあるものかを表現したものと思われます。ひとたび環境が整えば、何ら躊躇することなく、殻を破って芽を出し、成長する種の発芽には力強さがあります。今日、スプラウト野菜が人気なのは、その「生命力の発現」を私達にも取り込みたいということにあります。
 日常の私達がどれほどその生命力に近づけるかは不明ですが、植物の種一粒から私達は多くの事柄を学ぶことが出来ます。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落110

110 If we analyze fear we will find it to be produced by a state of wondering in regard to our support and safety. In most every case fear is focalized about one's personal being or self-interest. Most men look upon the activities of life in the light of the effect that they will have upon themselves and those dear to them. They are living in the consciousness of the effective world, depending upon outer things for their support, and the recognition of the instability of outer effects produces a condition of uncertainty within their own minds. We may say then, that fear is the self-centered state and faith is living the impersonal state of being. Fear is based on effects; faith is based on Principle or Cause.
110 もし私達が恐怖を分析すれば、私達はそれが私達への支持と安全に関する不安状態によって作り出されることを発見するでしょう。ほとんどの場合、恐怖は自分の個人的な存在か自身の関心に焦点が当てられています。ほとんどの人達は、それらが自分自身や自分達にとって大切なものに与える影響という光で人生の活動を見ています。彼らは結果の世界の意識で生きており、自分達の支えを外側の物事に頼り、外側の結果物の不安定さの認識が心の中に不安定な状況を作り出しています。ですから私達は恐怖とは自己中心の状況であり、信仰とは非個人的な状態と言うことが出来ます。恐怖は結果に基づくものであり、信仰は法則、即ち因によっているのです。



【解説】
 そもそも何故、恐怖が私達を支配して来たのか、本項は明瞭に述べているのではないでしょうか。答えは本文の最後に示されているように"faith"が宇宙を流れる原理・原則に根拠を置いているのに対し、恐怖は現実世界、結果の世界を拠り所としている点に集約されます。
 これまで多くの仏教の教えからも、「行く川の流れは絶えずして.....」の表現にあるように、結果の世界は常に変化する過程にあり、「無常」と言わねばなりません。そのいわば不安定とも言えるものに拠り所を置くとすれば、心配事に尽きることはありません。
 そうした中で、私達は長年、この不安定な結果の世界を生きて来た訳ですから、年を重ねるにつれて、ストレスや疲労で身体は酷使され老化も早まるものと思われます。それに対して、不変原理に常に視点を置いて人生を歩むことで確実に目的地に到達出来るというものでしょう。丁度、昔の航海では北極星を目印として自身の進む方向を定めることに似ています。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落109

109 We know that all things in the manifested world are possessed of the positive and negative aspect. Faith is one of the positive aspects of man's character so what is the opposite of faith? Fear, of course! Therefore, to understand one we must understand the other; they are the two ends of one pole. Fear is the lower expression so let us begin with an analysis of it and work upward to faith.
109 私達は、創造されたこの世界の全ての物事は陽と陰の側面を有していることを知っています。信仰は人の性質の陽の側面の一つですが、それでは信仰の正反対は何でしょうか。もちろん、恐怖です。ですから、私達は一つを理解するには、もう一つも理解しなければなりません。それらは一本の棒の両端なのです。恐怖は低次な表現ですから、私達はその分析から始めて、信仰まで昇って行くことにしましょう。



【解説】
 物事を「陰陽」として観る姿勢は、東洋的感性に似るものですが、アダムスキー哲学、更には他惑星文明においてもこれに似て現象をプラスとマイナスの性質として捉えることには注目したいところです。
 この内、人間の「陽」の性質として、ここでは"faith"を取り上げ、その対極のものとして"fear"(恐怖)を挙げています。もちろんこれらの両極を善悪として裁く訳ではありませんが、”信念の度合”が両極をつなぐ軸を表現するものと言えます。
 そのように考える時、私達は自分には十分な"faith"があるかを評価することも時に必要でしょう。キリスト教の歴史の中では多くの殉教者が出ましたが、信仰の故に殺される苛酷な状況の中で死をも恐れぬ心境は、本項で言う「恐れに対極する」"faith"の象徴とも言えるものです。
 今日、幸いにも多くの私達は信仰の故に弾圧される世の中に生きるものではありませんが、むしろそれ故に私達にとって真の"faith"(信仰)とは何を指すのかについて、自ら明らかにする必要があるように思われます。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落108

10 FAITH
108 Faith is perhaps one of the most widely discussed topics in the world, yet it is the least understood. Teachers, ministers, psychologists, etc., all advise the development of faith and proclaim it as the basic quality of life but find difficulty in explaining this particular faculty.
第10章 信仰
108 信仰はおそらく世の中で最も広く議論された話題であり、また最も理解されていない話題でもあります。教師や聖職者、心理学者その他の人々は皆、信仰の発達を推奨し、それが生命の基本的な質であると宣言していますが、この特別な機能について説明することは難しいとしています。



【解説】
 以前にも述べたかと思います。"faith"という言葉の訳出については、これまで多くは「信念」と言葉を充てていました。もちろん特に異議を唱える者ではありませんが、日本語で「信念」と表現される中には、かたくなに自己の意見を押し通そうとする意志も含まれているように懸念した為、本項ではあえて「信仰」と訳出しています。「信頼」でも良いのかと思っています。
 さて、この"faith"ですが、これから学習を進める私達にとって大変重要な要素であると本文は説いています。しかし、同時にこれまで私達の多くが"faith"の真の意味を理解出来ていないとも諭しているのです。
 著者による"faith"についての解説は、次項以降も続きますが、私としては、"faith"(信仰)とは”因”への”信頼”であると考えています。目に見えない因の存在を知覚するには、印象・想念を知覚できなければなりません。印象・想念の源泉に信頼を置くことで、何らかのつながりやパイプのようなものが構築されるような気がします。つまり、信頼を置く者同士は想念・印象のやり取りがスムーズに行くということです。
 そういう意味で、因とのパイプが太くなれば、画期的な印象を容易に感受でき、人生に生かせるという訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落118

118 It behooves us then to study Principle instead of focusing all of our attention upon the effects of Principle (source of origin). When we direct our attention towards that inner guiding force we become fully awake and feel the inter-relationship of all life. There has never been a time when one released the personal ego to this inner force that he has not seen some immediate result of action; so as one becomes more fully aware of his oneness with the All-Intelligence his faith is increased and consequently his fear is decreased. Faith is the result of one's unity with the Whole, and such unity cannot take place until every thought of selfishness with its whole category of resultant fears steps aside and leaves the highway of understanding free of barriers. So we may see that absolute faith is not of easy attainment - it must come through a gradual growth just as all things change by degrees. Faith is actually an expansion of conscious awareness to include more knowledge and certainty of action.
118 ですから私達がその注意をすべて法則(源泉)の結果物に集める代わりに、法則を学ぶべきということは当然なのです。私達がその内なる導きの力に向かって注意を向ける時、私達は完全に覚醒し、全生命の相互関係を感じ取るようなります。人が個人的エゴをこの内なる力に解き放つ時、行動の直ちに起こる結果を見ないままで終わることはありません。ですから、人が自身が全英知と一体になっていることに、より完全に気付くようになるにつれて、その者の信仰は増し、その結果、その者の恐怖は低減します。信仰とはその者が全体と一体になった結果であり、このような一体化は全ての結果に及ぶ利己的なあらゆる想念が脇にどいて、理解の王道から障害が無くなるまでは有りえません。ですから、私達は絶対的な信仰というものは容易には達成できるものではないことは分かると思います。それは、丁度、全ての物事が少しずつ変化するのと同じように、なだらかな成長を通じて実現する筈です。信仰とは実際には、行動に対するより大いなる知識と確かさを含む意識的知覚力の拡張であるのです。


【解説】
 Faith(信仰)のまとめです。前項(117)でも述べられていたように、私自身の内側、即ち、自分の手足よりももっと近く、私という存在の近くに力強い導きの力があり、その力こそ万物を支配する法則を司っているという訳です。
 そのような恵まれた環境の中に私達が居る以上、外側の現象化済の世界にのみ心を奪われることなく、内なる存在に対し、敬意を払ってその導きを信じることが大切です。
 また本文にあるように、この法則は現象世界を統制している以上、そこを通じての理解は直ちに実現力のある想念波動として物質界に作用し、具体化する筈です。それ故、本文にも速やかに結果として表れると表現されているのです。
 私達の進化の道は着実に一歩一歩の歩みが必要で、毎回の成果を確認しながら、前進することになります。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落117

117 Our lack of fear is not due to our confidence in matter but our inherent faith in the principle supporting and controlling matter. I say inherent because Cosmic Cause which produces faith is within every one. It is closer than hands and feet and whether or not we as mortals openly admit its existence we do realize it or we would not be conscious, living beings.
117 私達に恐怖が無いのは私達が物事に確信があるからではなく、物事を支配し、統制している原理に対する生まれながらに存在する信仰がある為です。私は信仰を作り出す宇宙的因は誰もの中にある為、生まれながらに存在すると言っているのです。それは貴方の手や足よりも近くにあり、死すべき私達が公にその存在を認識していると認めるかどうかによりません。何故なら、そうでなければ私達は意識ある生き物とはならないからです。


【解説】
 私達はどんな不信心な者でも、自然界に流れる宇宙法則については、当然のごとく信じているという訳です。実はその法則なるものは私達に内側にも等しく流れており、その身近さは自分の手足よりも近いということがポイントです。つまりは自分というものの内側にいつも寄り添い、常に参照できる位置にあるということになります。
 それゆえに私達は「意識ある生き物」になっていると文中にあるように、この法則は私達の意識にも密接に関連したものでもあります。その意識への信頼を通じて、法則原理を学ぶこと、それを探求することが重要だと考えます。
 個々の事象を深く探求する姿勢と、その事象を下支えしている原理の意義と目的について学ぶという両面が私達が向き合う姿勢として望ましいのではと考えています。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章ー段落116

116 Do we worry that the rivers will start flowing up hill, or drop a weight and hold our breath that it might rise again, or throw a ball into the air and doubt that it will return to earth? No, for again we know the principle governing such action.
116 私達は川が丘を遡って流れるかも知れないとかを心配し、或いは重りを落として再び昇って来るかも知れない、或いは空中にボールを投げて再び地面に戻って来ないかと息を凝らすことがあるでしょうか。いいえ、ありません。何故なら、この場合もやはり私達はこのような行動を支配している原理を知っているからです。


【解説】
 私達の身の回りには私達が考える以上に、従来から当たり前に見ていた物事が数多く存在します。これらの現象に対して、私達はそれらの現象が何時変化するかも知れないと不安視することはほとんど有りません。
 しかし、これら全てを法則の手に委ね、一切を当たり前のように見ていることは、必ずしもあるべき姿ではないように思います。多少、本項の主旨からは外れますが、やはり自然環境の中に息づく法則性、即ち平等に作用し、ブレの無い働きへの畏敬とその奥にある原理の探求こそ、私達人間の役割だと思うからです。
 これらの現象に対して日常的に私達が安心して居られるのは、未熟な私達に対する創造主の贈り物なのかも知れません。さもなければ、他の諸々の心配事と相まって、私達は恐怖だけの生活を送ることとなり、すぐにも滅んでしまうと思うからです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落115

115 Why do we have perfect confidence that the sun will rise each day? Have you ever known a man rising each morning, hours before dawn, to sit wringing his hands in tense anxiety over the prospect of eternal darkness? No, we have no such fear, and the primal reason that we do not doubt in this case is because the action of the suns and planets is greater than our mortal mind can conceive and therefore we leave such actions entirely in the hands of the All-Knowing Principle which understands and perpetrates all action. In this case we realize our personal insufficiency and so do not concern ourselves by exerting mortal effort in regard to it. We simply allow it to take place.
115 何故、私達は毎日太陽が昇って来ると完璧に確信して来ているのでしょうか。貴方はこれまで毎朝起きては夜明け前に永久に闇が続くことを恐れる余り、両手を握り締めて座すような人を知っていますか。いいえ、私達にそのような恐れはありません。また、このような場合に私達が疑いを持たない主な理由は、諸太陽や諸惑星の行動は私達の死すべき心が計り知りえるより偉大であり、それ故、私達はこれらの行動を全ての活動を理解し、それを為す全知の法則の手に完全に委ねているからです。この場合、私達は個人的な力量不足を自覚し、その為、それに対して死すべき者の努力を行使して自分自身を係らせようとはしないのです。私達は素直に起こるに任せているのです。

【解説】
 水平線の奥からオレンジ色の太陽が姿を見せる時、私達は自然と雄大で荘厳な宇宙の営みが、私達の日常として起こっていることを自覚します。また、その昇る太陽に手を合わせたくなるのは、私達日本人ばかりではないのかも知れません。同時に、また昇る太陽の速さが速いのにも驚かされます。
 私達はこのように、ダイナミックは宇宙スペクタクルの中に毎日を暮らしている訳ですが、時たま訪れる海辺の朝の風景に立ち会う時以外は、このような光景が起こっていることすら気付かずに、各々の一日を始めています。
 本項では、こうした毎日の日の出の光景に対し、私達は信頼を置いているというよりは、最初から無関心で宇宙の法則に任せているとしています。私達の力の到底及ばない法則だからとして、無関心でいるという訳です。
 しかし、これは真の信仰(Faith)とはかけ離れています。私達はもっと誠実に私達の日常を支えている宇宙的英知、宇宙の法則を探求し、感謝すべきなのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落114

114 There is no such thing as absolute unbelief; there is only a growth from the lesser faith to the greater faith. As the teacher Zoroaster explained, "Evil is but unripened good." Likewise, fear is but undeveloped faith. Man has come from Cause Intelligence to the world of effects; his mortal sense mind lost the memory of Cosmic Cause and he is now in the process of reestablishing himself; he is on his way back to oneness with the Principle where selfishness with all of its innumerable effects is dissolved. It is through the recognition and realization of Cause that faith is stabilized.
114 絶対的な不信心というようなものは存在しません。より少ない信仰から、より大きな信仰への成長があるだけです。教師ゾロアスターが「悪とは未成熟の善である」と言ったようにです。同様に恐怖は未発達の信仰なのです。人は因なる英知から結果の世界に生まれ来たり、その死すべき感覚心は宇宙的因の記憶を失い、今や自分自身を再構築する過程にあります。人は利己心がその無数の結果物と溶け合う一大原理と一つに戻れる道の途中に居ます。信仰の安定化は因の認識と実感を通じてなされるのです。


【解説】
 人間の成長とは何かについて本項は説いています。「因から生まれた私達」とは各自の由来は人の受精卵を発端とする訳ですが、その極小の存在が今日の人間一人に成長して来ることになります。その間、その実体としての存在は本来、変わるものではない筈です。つまりは私達は究極に考えれば、物質的にはゼロから生まれているということも出来ます。しかし、ご存知のように、この実体の起源は物質ではなく、因に由来します。私達は実際には因からこの世界に生まれ来たとも言うことが出来るでしょう。
 さて、実はその間に私達の心は因に関する記憶を失っており、各自の人生においては、この因への回帰が主要な目的の一つということになります。結果しか信じない心、成果しか信用しない気持を一旦捨てて、現象の奥にある因なる英知の存在に気付くことが大変重要であり、そうする中で因に対する信頼感も増して来るように思います。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落113

113 The development of faith in man is the growth out of the personality into the impersonal expansion of awareness; from effect to the cause back of all effects.
113 人における信仰の発達は、個としての自分から非個性的な知覚の表現への成長、結果から全ての結果物の背後の因への成長のことなのです。


【解説】
 従来、アダムスキー哲学で度々取り上げられていた「Faith」(注:ここでは「信仰」と訳しています)の真の意味が、この一節に良く表れています。即ち、従来は「信念」と訳されて来ましたが、この「信念」は個人的願望に対するがむしゃらな意志の強化というようなものではなく、物質の奥にある意識的な衝動に対する同調力のようなもの、知覚力だと明言していることに注意したいものです。
 私達は「自意識」と表現されるように、全て自分を中心に物事を考え、良否を判断しています。しかし、本項の短い文章の中に、「非個性的な知覚の表現」とあるように、良否や損得を超えた透明感ある姿勢の中で、因に仕えることが求められています。また、そうすることで、各自の知覚力は深まり、歩むほどに因の存在とその偉大さを確信することになるようです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落112

112 At this point you will, of course, say, "But the seed could not grow without the support of the earth, air, water and sun." This is true, but as the seed obeys the command of the Cosmic or Cause intelligence all necessary elements unite to bring it forth. The seed is not commanded to push through the ground in the cold winter months nor does it seek to grow without that urge from within. It waits patiently till it feels that the time for growth has come. What would happen if the seed questioned the urge to grow as man questions new ideas of a broader conception of life that try to impress themselves upon his mind? As the seed by not resisting the urge grows into a beautiful bush, so man, likewise, may be assured that if an idea or desire arises that is impersonal, it is there for a purpose and if acted upon will produce beneficial results. A desire can be kept from manifesting only through the effort of the personal will in resisting action. For the thought or desire is the actual Cause which fathers the outward conditions.
112 この時点で貴方はもちろん、こう言うでしょう。「しかし、種は土や空気、水や太陽の支援無くしては成長出来ない。」このことは真実ですが、種は宇宙の、或いは因の英知の指令に従うため、全ての必要な要素が種の発芽を実現するため、結束するのです。種は寒い冬の月日に地面を貫いて突き進むよう命ぜられることはありませんし、そのような内部からの衝動無くしては成長しようとはしません。それは成長の為の時期が来たと感じるまで忍耐強く待っています。もし種が人間が自分の心に印象付けようとしているより広い生命の新しい概念を疑問視するように、成長への衝動に対して疑問に思ったら、どうなることでしょう。種がその衝動に抵抗することなく、美しい茂みに成長するように、人間も、もし非個人的なアイデアや願望が起こった場合には、それ(訳注:アイデアや願望)は一つの目的の為にそこにあるのであり、もしそれに応じて行動すれば恩恵のある結果を作り出すことでしょう。願望は抵抗的行動をとる個人的意志の影響によってのみ現象化から遠ざけられるのです。何故なら、想念や願望は外側に向けての状況を生み出す実際の因であるからです。


【解説】
 例えて言えば、私達自身をカラシ種に置き換えると分かり易いのかも知れません。とかく私達は自分の外側、即ち外界の影響を多く受けます。様々な環境状態の他にも、鏡に写った自分の姿、等々です。しかし、私達自身の肉体を維持しているのは外側の環境ではありません。私達自身の内側にある様々なシステムである訳です。
 実はこの自分自身の真の姿について、その実態を未だ私達は十分に把握してはいません。カラシ種になりきって、その内側を見ようとする時、私達はまだ何一つ把握できていない訳です。自分の内側の実態がどのようなものかを理解して行くかは大きな課題なのです。
 さて、この内側から私達の諸々の想念が生まれるのですが、本文の終わり近く、想念の潜在力について著者が明言している事柄は特に重要です。つまり、元来、想念は創造主のそれと同種のものである以上、大きな実現力を持っているということです。より望ましい想念のみを発し、利己的なもの、その他の有害、不要なものは断じて発することが無いようにしなければなりません。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落111

111 How often quoted is the expression of the Christ, "If ye have faith as a grain of mustard seed ye shall say to this mountain, remove hence to yonder place, and it shall remove; and nothing shall be impossible to you." (Matthew 17:20) This statement has been used to show how little faith is necessary to bring forth manifestation. Notice, however, that the words are not "faith as great as a grain of mustard seed" but "faith as a grain of mustard seed." Not the quantity of faith but the quality of faith is called to note in this statement. Let us study the consciousness of the mustard seed. Is it ever overcome with fear in regard to its personal existence? What causes it to grow? Is it not the conscious impulse force within it which promotes it into action? The seed knows nothing but this urge within itself which causes it to expand, burst its shell and proceed upward into the light. It does not seek to resist this force of natural growth nor does it wonder if it is right to act in this manner. It acts unquestioningly according to the law or principle of its purpose. It does not look to effects - neither to man, to earth, water, or sun. It expands into a mature bush because the forces within it command it into such growth.
111 これまで何回、キリストのこの表現が引用されたことでしょう。「もし、汝に一粒のカラシ種ほどの信仰があれば、この山に対し、ここからあそこの場所に移れと言えば、その山は移るであろう。貴方に不可能だというものはない。」(マタイ17:20)。この表現は創造作用をもたらすのに、如何に小さな信仰が必要なだけであるかを示すため、用いられて来ました。しかし、それらの言葉は「カラシ種一粒の大きさの信仰」ではなく、「一粒のカラシ種ほどの信仰」としているのです。信仰の量ではなく信仰の質がこの声明の中で求められていることに注意して欲しいのです。カラシの種の意識を研究して見ましょう。それはその個人的な存在に関して恐怖に打ち負かされているということはないのです。何がそれを成長させるのでしょうか。それを行動に突き動かすのはその種の中の意識的衝動ではないでしょうか。種は自分の中にあるこの衝動しか知っておらず、それが膨張し、殻を弾けさせ、光に向かって上方に進み出します。それは成長のこの力に抵抗しようとはせず、またこのように行動することが正しいかどうか迷うことはありません。それは法則あるいはその目的の為の原理に沿って、疑問を持つことなく行動します。それは人間、地面、水や太陽に対する影響を見てはいません。内部の諸々の力がそのような成長を命じる故に、成長した茂みになるのです。


【解説】
 言うなれば山をも動かす力が想念にはあるという訳です。このように想念、思い、信仰の念は大きな潜在力があるのですが、本項で著者はその潜在力の大きさを述べているのではありません。もともとイエスが伝えたかった信仰の質について解説しているのです。
 今日的に言えばカラシの種一粒の中には、将来のカラシの茂みを構築するに必要な情報と知識があり、種を発芽させ、成長させるに必要な一切の知恵が詰まっていることになります。このDNAをはじめとする情報分子と発芽のOKサインを出す意識体が種を支えていることは私達にも容易に分かります。
 しかし、カラシ種と私達自身を比較して分かることは、本文中にも述べられているように、種はその生きる全てを全て自分自身の内側にある英知に依存し、内なる意識の声を聞いているのに対し、私達人間はほとんど全てを自分自身の外側、即ち環境のせいにしていることが揚げられます。社会の情勢、経済条件等、様々な状況が私達の日常生活を支配しており、私達自身、環境の下僕と化しています。
 実はこれら環境こそ、前項で言うEffect(結果)の最たるものです。原因となる想念が作り出したものに原因を作った私達自身が支配されている訳です。
 これに対し、私達一人一人が内なる存在に対する信頼(Faith)を高め、それを頼りとすることで、本項にあるようにカラシ種と同様な生き方が出来ることになります。山が動くかどうかは別として、驚くほどの結果(Effect)がもたらされることは間違いありません。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落110

110 If we analyze fear we will find it to be produced by a state of wondering in regard to our support and safety. In most every case fear is focalized about one's personal being or self-interest. Most men look upon the activities of life in the light of the effect that they will have upon themselves and those dear to them. They are living in the consciousness of the effective world, depending upon outer things for their support, and the recognition of the instability of outer effects produces a condition of uncertainty within their own minds. We may say then, that fear is the self-centered state and faith is living the impersonal state of being. Fear is based on effects; faith is based on Principle or Cause.
110 もし私達が恐怖を分析すれば、私達はそれが私達への支持と安全に関する不安状態によって作り出されることを発見するでしょう。ほとんどの場合、恐怖は自分の個人的な存在か自身の関心に焦点が当てられています。ほとんどの人達は、それらが自分自身や自分達にとって大切なものに与える影響という光で人生の活動を見ています。彼らは結果の世界の意識で生きており、自分達の支えを外側の物事に頼り、外側の結果物の不安定さの認識が心の中に不安定な状況を作り出しています。ですから私達は恐怖とは自己中心の状況であり、信仰とは非個人的な状態と言うことが出来ます。恐怖は結果に基づくものであり、信仰は法則、即ち因によっているのです。


【解説】
 よくアダムスキー哲学の中では「Effect」という表現が用いられ、それに対応する日本語の訳語として「結果」という言葉が用いられて来ました。しかし、日本語のイメージとしては、本来、「結果」に対応する言葉は「Result」という語を充てるのが一般であり、原語のEffectに含まれる語彙について少し述べておきたいと思います。
 本来、Effectに当る直接的な日本語表現としては、「効果・影響」という言葉になります。もちろん、「Cause and Effect」という熟語の訳として長らく、「原因と結果」として訳されていることから、本項においてもそれに倣って「結果」と訳出している訳です。
 即ち、本来のEffectとしては、何かの原因からもたらされた直接的ないし間接的な効果・影響を指している点に注目して戴きたいのです。つまりは、物質の奥にある目に見えず、耳に聞こえない因なる要素が発する衝動想念が具体的な物質世界に作用させ、出現したもの、その衝動の影響を受けて形あるものとして創造されたものがEffect(結果)だという訳です。
 しかし、私達人間にも当てはまる訳ですが、創造され、誕生した時には元来の創造主の意向に沿った存在であったものが、時を経過するにつれ、自我を強めたり、周囲と摩擦したりして老化が進行してしまうことも多いのです。このように創造の意気込み自体は永遠に活気あるものですが、結果物は移ろい易いものだということでしょう。このような因なるものの投影や作用の末に生まれ出たものをEffect(結果)と言っている訳です。
 本題の恐怖については、自分自身や近親者の保身をこのような本来、不安定なものに拠り所を置いていることから来る訳で、損得を捨てて、より安定なる因、即ち創造主の意向が作用する中に置くことが唯一の解決策になると言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落109

109 We know that all things in the manifested world are possessed of the positive and negative aspect. Faith is one of the positive aspects of man's character so what is the opposite of faith? Fear, of course! Therefore, to understand one we must understand the other; they are the two ends of one pole. Fear is the lower expression so let us begin with an analysis of it and work upward to faith.
109 私達は、創造されたこの世界の全ての物事は陽と陰の側面を有していることを知っています。信仰は人の性質の陽の側面の一つですが、それでは信仰の正反対は何でしょうか。もちろん、恐怖です。ですから、私達は一つを理解するには、もう一つも理解しなければなりません。それらは一本の棒の両端なのです。恐怖は低次な表現ですから、私達はその分析から始めて、信仰まで昇って行くことにしましょう。


【解説】
 古来から東洋には、「陰陽」という概念があるように、物事の性質はプラスとマイナスの要素として取り扱われると本項では述べられています。どのような光でもプリズムのように分解すれば、その振動数別にスペクトルとして表現されるように、各自の到達レベルも様々な段階として評価されるのかも知れません。
 この場合、重要なことは本項で言う陰陽とは、一つの棒の両端をその最たるものとしており、バラバラな要素としては捉えていない点です。不足している状態から、満ちている状態まで連続した状況を示している訳です。
 何事においても本来、上達して行く為には、何故上達出来ないか、その原因を理解することが大切で、その為には、自らの欠点を良く知ろうとすることが必要です。決して向上したいという気持だけでは効果が薄いということでしょう。私達自身、何処に問題があるのかを理解することも大切なのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落108

10 FAITH
108 Faith is perhaps one of the most widely discussed topics in the world, yet it is the least understood. Teachers, ministers, psychologists, etc., all advise the development of faith and proclaim it as the basic quality of life but find difficulty in explaining this particular faculty.

第10章 信仰
108 信仰はおそらく世の中で最も広く議論された話題であり、また最も理解されていない話題でもあります。教師や聖職者、心理学者その他の人々は皆、信仰の発達を推奨し、それが生命の基本的な質であると宣言していますが、この特別な機能について説明することは難しいとしています。


【解説】
 前項107では、新しい分野、とりわけ因の領域への探求が推奨されました。その一歩を踏み出す際に必要なのが本章で言う「信仰」です。
 実はこの「Faith」という言葉の訳出には、従来からの「信念」とすべきかと迷うところもありました。しかし、以前にも何処かで述べた通り、日本語の「信念」には、「何か我武者羅に物事を確信する」という語感があることから、それを嫌って、本講座においては敢えて「信仰」という言葉を充てています。目に見えない創造主の存在を信じることに始まる静かなる信頼」をイメージ出来るからです。
 信仰的な信頼感は、一方で恐れを知らない安心しきった態度を示しており、それは加護を一身に受ける者が神を信じ切っていることに由来します。これは因の領域に作用して物事を実現する上で重要な要素ということになります。
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