生命の科学

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課逐次解説を終えて

 当シリーズは直接、一同に会しての学習会というものが出来ていない今日、「生命の科学」を日々の生活で実践しようとする学習者に少しでもお役に立てればと思い、書き留めて来た私のメモを掲載しています。
 アダムスキーが残した「生命の科学」には他惑星の文明から地球の民に贈られた貴重な教えが随所に織り込まれていると聞いています。その一句一句を自分のものとし、日々の生活に活用する為には、その内容を率直にしかも真摯に受け入れ応用することが必要です。その為にも、各々の内容をどのように受け止めるべきかを考える際の参考用に、各段落を読んで受けた私の感想(印象)をそのまま掲載しました。内容的にもダブっているものもあり、至らない部分も多いかと思いますが、これも現在の私の時間的制約と認識レベルによるものとご容赦下さい。
 なお、目下、本シリーズに対する皆様のご意見を募集中です。ご質問やご意見について各コメント欄に記入するか、メールでお寄せ下さい(宛先はganetjpn@cream.plala.or.jp)。その際には原則として氏名と連絡先メールアドレスの明記をお願い致します。
 いずれ、本シリーズを出版する際には、これら皆様のご意見についても紹介させていただくつもりです。
 次回は第2課に進みます。準備が出来次第、本ブログに再び掲載を始めますので、ご期待下さい。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落045

045 Just reading this lesson will be of very little value but daily and momentary practice will bring results. When you have questions pertaining to any of the lessons you should write them down. And if you do not find the answer in the forth coming lessons after receiving three, you may send them to me.
045 ただ、この教科を読むだけでは何らの価値にもなりませんが、日々のそして一瞬の実践が結果をもたらすことでしょう。この教科のどの部分についてであれ、疑問がある時は、それらを書きとめて下さい。そしてもし、3課を受取った後もあなたが次ぎに来る教科までに回答を見つけられなければ、それらの疑問を私に送って戴いても構いません。


【解説】
 第1課を終えるに当って、アダムスキーは学習者にこの教科をただ読むだけでは効果がないこと、日々刻々の実践こそが重要であると説いています。問題は私達の心というある意味、掴み所の無い対象を取扱う以上、知識として蓄積したとしても、実際の私達の精神活動を訓練するには、その活動を捉えた上で試行錯誤を繰り返しながら進める必要があるということです。
 本書で度々自動車の運転の例えが出て来ました。もちろん、自動車の運転に先立って自動車の仕組みやハンドル、アクセルやブレーキの操作方法、更には交通ルール等の事前学習が必要です。しかし、それだけでは運転できるようにはなれません。実際に自動車を動かして様々な実践体験を積んで初めて自在に自動車をコントロールできるようになり、また自動車がもたらす本来の便益を享受することができるようになります。
 同様に、私達は私達自身の心や意識の作用についてここで一通りの基礎知識を学んだからには、今度は実際の生活の場、自らの精神活動の実践の場において、少しずつ操縦の訓練を続け、技量を高めることが必要だということです。
 また、アダムスキーはこの講座を単なるテキストの配布ではなく、通信教育の形で運営しようとしていました。元来は教師(先導者)が学習者の疑問に答える丁寧なシステムを目指していたことがこの一節からよくわかります。それほどにこの「生命の科学」には、私達地球人の進歩に必要な教科が詰まっているということです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落044

044 So the first thing a student of life should do is to cultivate the ever present awareness of Cause and Effect. Where not only the mind will see the form as it has in the past, but also it will permit the consciousness to reveal the invisible supporter of the form. It will be like driving a car with full awareness of all of its working parts which produces the power, that the sight does not see.
044 ですから、生命の探究者は原因と結果に関する常時の警戒感を養うことを最初にしなければなりません。心がこれまでそうであったように形を見る他に、意識が形有るものの目に見えない後ろだてを明かすことを容認させることです。それは自動車を視覚では見えないその動力をつくり出す作動部品の全てを完全に意識しながら運転することに似ています。


【解説】
 ここ(第1課)でのポイントは、私達学習者が最初に取組むべきことは、因なるものと結果なるものに対する同時的でかつ、不断の気付き(警戒)であると言っています。そのような心の状態を養う("cultivate",耕す)ことによって、これまで通り心が姿形を見ると同時に、意識はその形を支えている内実を印象によって心に伝えます。その結果、私達は因なるものと結果なるものを同時に認識することが出来ると言うのです。
 一つのものを見てもそれを支える目に見えない存在に気付くことは、物事の本質を見抜くことであり、身の回りの出来事や事物が実は、壮大な宇宙意識の作用で成り立っている現実に気付くことでもあります。
 長い時代を通じて、私達は何度となく文明を破滅させて来ており、現在の文明も多くの戦いや苦難の積み重ねが続いています。しかし、大自然、大宇宙を見るとそこには生命のstruggle(戦い)はあるにせよ、細部にわたり調和した姿があります。その違いは意識なる各々の存在の拠り所を不断に認識し、自らの価値をその意識に向けているかどうかにかかっていると言えるかも知れません。
 確かに滅びに至る道は数多いと言わざるを得ません。物欲に走ることばかりが誤った脇道とは限りません。私達の認識力、知覚力には限界がある以上、心の探究、創造主へ求道の道程にあっても、自身の心の発達段階を越えて余りに先を急ぐと、神秘主義や教条主義に陥り、道を外すことにもなりかねません。そこで地に足をつけて身の回りの自然観察、事物の背景分析を通じて、結果と原因を一体として観察することが大切になります。こうすれば、事物に対する理解力も少しずつ深まり、着実な学習を続けられることになります。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落043

043 It may take ages to do this, but through patience and determination a humancan express this beauty in ever increasing fineness. And thus become The Christ in God's Kingdom.
043 このことを成すには年月を要するかも知れません。しかし、忍耐と決心を通じて、人間は永遠に高まる繊細さの中、この美しさを表現することができます。そして、このようにすれば、人間は神の王国におけるキリストになるのです。


【解説】
 岩が転がりながら、時々の課題にぶつかり、身を削ってもなお、歩みを止めずに遂にはその穏やかな形と内部に秘めた美しい地模様を体現するまでには長年月を要します。ですから、成し遂げる為には何よりも忍耐強く、確信を持ち続けることが必要だと言っています。
 しかし、これを宇宙を流れる永劫の時間軸から見れば、その進化の歩みは目覚ましいものであるかも知れません。ひと粒の種子が荒野に落ちた後、芽を出し、根を伸ばす過程で、その新芽を青虫に食べられ、伸ばしたばかりの枝が大風に折られても、諦めず陽の光を求めて背を伸ばして行けば、やがて周囲に木陰を与え、様々な生き物のすみかを提供する大樹に成長できるでしょう。その美しさは荒野(地球)を緑豊かな楽園に変える源となるかも知れません。創造主の王国にとっての救世主(キリスト)に成り得ると言っているのです。それほどに、この「生命の科学」を学ぶ者に託された思いは重く大きいと言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落042

042 The real beauty of man's finer abilities has become covered with moss and lost to his vision. For all that he can see is the moss which is a parasite that lives on the body of another form. This is equivalent to human habits that cover the real man. While the rolling rock may come up against many problems and rocks twice its size and endure pain while bumping against them and losing parts of itself, it keeps on rolling. And finally it is polished to a high degree and shows the colors and minerals of which it is made. And in some rocks beautiful designs are formed when the minerals by the law of affinity adhere to one another.
042 人間の繊細な能力に関する真の美しさは苔に被われ、見失われています。人が見ることができるもの全てはその肉体あるいはその他の形有るものにとりついて生きている寄生生物である苔なのです。これは真実の人間を被う人間の習慣に相当しています。転がる岩は多くの問題やその大きさの2倍もある岩に出くわして、衝突して痛みを堪え、自らの一部を失いながら、それは転がり続けます。そして、最後にはそれは高度に磨き抜かれ、それを造り上げている様々な色彩や鉱物を示すようになるのです。そして岩の中には鉱物が親和の法則によって互いにくっつきあうことにより美しい模様を形作られているのです。


【解説】
 人間は習慣の奴隷であり、習慣こそ人間に寄生し人間本来の持つ繊細な才能を覆い尽くしている存在だと言っています。私達個人個人には元来、芸術家と同じ鋭敏な感性や表現力が備わっているのですが、この寄生する苔のため、私達の才能は埋もれています。それを取り去るには、転がる岩が象徴するように、行動(努力)することだと言っているのです。様々な経験を続け、遂には本来の持つ美しさを体現することが出来ると諭しています。
 各人に与えられた時間を価値ある内容とするためにも、毎日毎日、一刻一刻をその人間本来の道に向かって精一杯歩みを続けるならば、例えその過程で苦しい体験をすることがあっても、遂には各々の美しさを体現させ、他者の手本となることが出来ることでしょう。つまりは、次の瞬間、自分はどのような想念を受け入れようとしているのか、どのような行動をとろうとするのか等、一瞬一瞬の積み重ねの総和が人生を創り出すことになるのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落041

041 It has been said that a rolling stone gathers no moss. But moss used in reference to man's accumulation of things has deterred his growth in cosmic intelligence. But the rolling one becomes polished by striking problems or other rocks and thus the debris is removed.
041 転がる石には苔が付かないと言われています。しかし、人による物事の蓄積に関連して用いられる苔は人の宇宙的知性における成長を遅らせて来ました。しかし、転がる石は諸問題や他の石とぶつかることによって、不要なものが取り除かれるのです。

【解説】
 活動(行動)によってのみ、自分が磨かれるということでしょう。何事も新しい体験を通じて学ぶということです。もちろん、多くの場合、その当時の自分自身の限界や運不運も重なって、思い通りの結果にならないことも多いものです。しかし、少なくともその時期の努力によって、様々な出合いがあり、自分自身の成長があります。逆に、従前の環境に安住していては、やがて苔むす石のように、習慣(悪弊)が自身本来の美しさを覆ってしまうと言っています。
 元来、山の頂きに置かれたゴツゴツの石も、斜面を転げ落ち、川の流れに乗って下流に流された末、遂には広々とした河口の河原に到達します。多くの急流を越え、大雨がもたらす濁流の最中にも耐えた後に辿り着いた河口では、石は皆、角張っていた鼻先が削り取られ、丸みを帯びたものばかりとなっています。そしてその表面には石を構成する鉱物組織本来の地模様が美しく出現しています。多くの苦痛に逢いながらも、またどんなに長年月かかろうとも、諦めずに精進して来た石たちの到達した姿がそこにあります。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落040

040 Our habits of thinking in relation to past and present teachings in all fields of life are the rough spots that must be removed. Some will be harder to remove than others, but determination of purpose will bring the desired results. Then will come the polishing or establishing of new habits which perhaps will not be easy or pleasant at first. But when all of this is accomplished the Glory of God will manifest through the form once known as man.
040 生命の全ての分野についての私達の思考習慣は取り除かなければならない荒削りな汚点なのです。ある部分は他より取り除くのがより困難かも知れませんが、目標に向けた決意は望む結果をもたらすでしょう。その後、研摩即ち、最初は容易でも快適でもない新しい習慣が来ることになるのです。しかし、この全てが達成される時、神の栄光が人として知られる形有る者を通じて現われるでしょう。


【解説】
 ここでは、取り除かなければならないものは、私達の長年の思考習慣であると述べています。こびりついた古い習慣を取り除いて、本来の意識の指導を受け入れる態勢を構築し、それを新しい習慣とせよと言っています。
 ポイントは継続の力であると思われます。何事もそうですが、物事を始める時、最初は苦労するのですが、回を重ねるにつれ、次第にうまく出来るようになるものです。また、継続することによって、良くも悪くも大きな影響を及ぼすことは言うまでもありません。ブランコの揺れと同じように、少しずつの振れでも、回を重ねるにつれて大きな振幅(影響)となる訳です。
 まして日常の思考パターンのように時々刻々の場合は、なおさらその影響は顕著なものになる筈です。私達がこれまで続けて来た自我(エゴ)を中心とした世界観は、何千年もの間、地上で受け継がれて来た訳ですから、これを一朝一夕に改めることは容易ではありません。しかし、ここではむしろ、新しい思考習慣を開始することの大切さを述べ、一度、各自の思考パターンがその方向に転換し始めれば、やがて人間本来の輝きが現れることを確認しています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落039

039 A perfect diamond will reflect pure light from each facet that is cut upon it, and there can be no imperfections if the cosmic frequencies are to manifest in full.
039 完璧なダイヤモンドはカットされた一つ一つの面から純粋な光を反射するでしょうし、宇宙の諸振動が溢れるほどに現わされるなら、欠点などというものはあり得ない筈です。


【解説】
 多くの苦痛を経て到達する私達自身は、最終的にカットされた宝石のダイヤモンドに例えられています。ここでは、ダイヤの輝きについて述べていますが、注意したいのは輝くダイヤはそれ自体から光を作り出しているのではないということでしょう。外からもたらされた光を自らの多才な表現分野を通じて余す所無く100%反射し、周囲にその美しい輝きを無償で与えていることに気付きたいものです。
 言い換えれば、私達自身は自ら輝くようなものではなく、意識からもたらされる光のパワーに対し、何らの変更も加えることなく、個々人の方法や分野で外部に向けて多面的に反射し表現する中で、私達自身が無垢の光輝く存在になると言っているのです。真に美しい存在とはこのようなものと言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落038

038 This is not a pleasant process for each removal, in most cases, will cause a pain of one kind or another. But the more pain he is able to endure -- the finer the stone will be.
038 これは多くの場合、心地よい過程ではありません。ひとつひとつの取り除き作業にあれやこれやの痛みをもたらすだろうからです。しかし、その者がより多く痛みに耐えられればそれだけ、よりすばらしい宝石になることでしょう。


【解説】
 自身の純粋さを発現する上で妨げになる要素は進んで取り去らねばならないのですが、これは、快・不快に分ければ、実は不快なものになると言っています。つまり、私達の心にとっては、当初は決して心地よい体験ではないのです。しかし、ある意味(心にとって)辛い体験でも、それに耐えれば、次なる世界が開けると言っています。丁度、筋力トレーニングにおいて自分の限界近くまでのウェイトをかけて訓練することが、必要なことと似ています。このようなジムでの訓練は、やがて自分の筋力アップに繋がることが分かっている為、皆、自ら進んで訓練に励むことができる訳ですが、自身の心についてはどのような事柄を指すのでしょうか。
 まず、その前にそもそも自分が取り去るべき所は何処かを探し出すことが必要になります。例えば他人が素晴らしい才能を発揮している時、或いは人格的に優れた人物の足跡に触れた時、正直に自分自身と比較すれば、自身の欠点にも気付くことが出来ます。また、逆に他人が地上の習慣に陥って惰性の思考パターンに埋没して行くのを見て、自分自身にある同様の要素に気付く必要もあるでしょう。
 しかし、病気の場合と同様に、治療や苦痛に耐えられる体力も考慮して一度に全ての患部を治療することは得策ではありません。時々の状況に応じて、一つ一つ取組んで行くことが必要だということです。もちろん、そのような辛い体験にも向き合って行けるのは、前節まで述べて来たように、宇宙を貫く創造主の力が現存していることに気付き、例え一時、苦痛を味わおうともその暖かい指導の御手に自我を委ねることが出来るからに他なりません。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落037

037 You see we are like a diamond in the rough. When man first found the substance that turned out to be a diamond, he saw a rock through his physical sense of sight but something inside of him told him that this rock was different from others. It was his consciousness and not his mind that alerted him to the fact that if he would cut and polish it, it would be the most beautiful thing that he had ever seen. Radiating every color conceivable. But this result would require patience and a lot of hard work, even pain at times when cut by the sharp edges. Every man is a diamond in the rough and there are many rough edges that must be removed before he can see the purity of himself.
037 私達は未加工のダイヤモンドのような物です。人が後でダイヤモンドと判明する物を最初に発見した時、人は自分の肉体の視覚を通じては一つの岩を見たに過ぎないのですが、自分の内部の何かが彼にこの岩はその他とは違うと知らせたのです。彼にもしそれをカットとして磨けばありとあらゆる色彩を放ち、これまで見たことのないような最も美しいものになるという事実を警告したのは彼の意識であり、彼の心ではありません。しかし、このような結果に至るには忍耐と努力、更には鋭い刃先でカットされる時の痛みさえ必要とされることでしょう。すべての人間は未加工のダイヤモンドであり、自分自身の純粋さを見い出す為にはそれ以前に多くの粗い角を取り除かなければなりません。


【解説】
 この節では私達自身をダイヤの原石に例えています。確かに私達人間は他の創造物に無い優れた要素を有しています。しかし、実際にはその本来の輝く部分は、もっぱら人間社会の塵垢に覆われています。事実、毎日の通勤の電車で見る人々の顔に、喜びを見い出すことはありません。電車の窓から夜明けの空に輝く太陽が昇る光景を見て、宇宙を感じる人も少ないようです。このように、この惑星における長年の社会システムの支配と各個人が背負っている環境その他の影響から、私達地球の人間は、その元来の輝きを蝕まれ、各自がようやっと生きている状態が続いています。
 この状況を打開するには、私達が私達自身の本質を知ろうと努力し、ある場合にはこれまでの自尊心を打ち砕き、自己(エゴ)を見つめ直して、不要な習慣を打破することが必要です。
 自身(原石)から不要なものを取り去って、本来の輝く美しい要素を現すには、それなりの苦痛が伴います。しかし、それを躊躇し尻込みしていては、何事も達成されません。
 ここで、自らの純粋さを現すために不要なものを取り去ることに関係して、ジェームズ・アレン(James Allen 1864-1912)が"As a Man Thinketh"の中で「進歩に必要な自己犠牲」について述べている部分を参考までに引用しましょう。(出典は"As a Man Thinketh"in "The Wisdom of James Allen Five Classic Works", Laurel Creek Press, San Diego, California 2004, p.27.)
"Men are anxious to improve their circumstances, but are unwilling to improve themselves; they therefore remain bound. The man who does not shrink from self-crucifixion can never fail to accomplish the object upon which his heart is set. This is as true of earthly as a of heavenly things. Even the man whose sole object is to acquire wealth must be prepared to make great personal sacrifices before he can accomplish his object; and how much more so he who would achieve a strong and well-poised life? "
"人は自分達の環境を改善しようとやっきになっていますが、自分達自身を改善しようとはしないものです。だから束縛されたままなのです。自己犠牲から尻込みしない者に自らの心が望む目的が達成できないことはありません。このことは地上でも、天上でも同じく真実なのです。富を獲得しようとすることが唯一の目的である人でさえ、その目的を達成できるためには、その前にいつでも大いなる個人的な犠牲を成すよう備えがなければなりません。それを考えても強く、落ち着いた生活を達成するには、それだけ多くの犠牲が必要と言えるのでは無いでしょうか。"
 人の進歩にとって、不必要なもの、不都合なものを自ら進んで取り除く(喜捨の)覚悟が必要だと言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落036

036 What is consciousness ? No one definitely knows except that it is a life force that is the creator of all forms. For without consciousness man would not be a living being. And in man the best way that we can describe it is -- a state of alertness. And a state of alertness is a state of feeling or awareness. In the animal it is known as instinct which does not have to depend upon sound. The language of consciousness is the language of the Creator that one feels when he becomes conscious of things not yet experienced. Jesus expressed it in these words -- Blessed are those who see and hear not yet believe. For they shall enter the Kingdom of Heaven. And the kingdom of heaven was used in reference to the realm of Cause, a sea of consciousness or everlasting life. For consciousness proceeds all manifestation.
036 意識とは何でしょう?誰一人、それが全ての形有るものの創造主である生命力であるということ以外、明確には知ってはいません。何故なら意識無くしては、人は生き物とはならないだろうからです。そして人間においてはそれを最も適切に表現するとすれば、それは警戒の状態ということができるでしょう。そして警戒の状態というのは印象もしくは気付きの状態です。動物においてはそれは音声に頼らない本能として知られています。意識の言語は未だ体験していない物事について意識的になる時に感じる創造主の言語なのです。イエスはそれをこのような言葉で表現しました。「見もせず、聞きもしないのに信ずる者は幸いなり。何故なら彼等は天の王国に入るだろうからである。」そしてこの天の王国とは因の領域、即ち意識の海、永続する生命について用いられたのでした。何故なら意識は全ての創造の現れに先立つからです。


【解説】
 この第一課は、意識の存在と心の関わりについて述べています。通常の論説では言葉の定義が有って、それに基づいた論理展開が行われますが、この「生命の科学」は違います。その理由は、問題となる「意識」の存在は、単に「知識」として記憶するのではダメで、自らが日常的に自覚、認識することが求められていることにあります。これは実際、難しい課題で、決して論理的な組み立てを見せればよいというものではありません。意識に関する一つ一つの要素、側面を学習者に実感させることが必要で、その積み重ねによって、やがてハメ絵パズルのように、全体のイメージが掴めるようになるよう、本文は構成されているように思われます。
 そこで、これまで述べて来たことのおさらいです。おぼろげながら、これまでの例示から私達は、目に見えない「意識」と呼ばれる存在から常にインスピレーションを受けて日々を送っていることを自覚できました。この「意識」とはどのような物か、という問いに対して、本書では「警戒の状態」であるとしています。目に見えない空間からやってくる印象に対して絶えずレーダーのパラボラを回転させるように、絶えざる警戒の状態、いつでもやって来る印象をキャッチでき、意識の指導を受け入れられるよう心を静かにしかも感度を高めて置く状況が大切だと言っています。
 そして、それらの言葉になっていない言わば原始の段階の意志(印象)を心に受け入れられることが、本講座の目的の一つであり、このことは、他の多くの宗教修行の目的と類似しています。この能力は実は自然界の生き物には本来備わっていると本文は述べています。日本には毎年、遠く南半球から或いは北極圏からも、多くの渡り鳥が飛来します。小さな身体一つで何千キロもの距離を飛行する渡り鳥の例を見ても、彼等はこの意識の指導に自らの命を託して、毎年、冒険旅行を行っていることが分ります。しかも、人間にありがちな疲れや苦痛の表情を何一つ見せず、命の危険に取り囲まれているにも関わらず、むしろ、一瞬一瞬を楽しみながら、所定の生命の営みを続けています。私達こそ、これら野生動物が備えている意識なるものへの信頼の姿勢こそ学ばなければならないと言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落035

035 Faith is the foundation of all manifestations. And one without faith is like a ship without a rudder or captain. Once your mind has trust in faith, it will trust the instructions of consciousness, thus allowing the consciousness and mind to work as one. Then the consciousness of God which is the cause, and the sense mind of man which is the effect, have been united. And the biggest Mystery of Life has been dissolved.
035 信頼は全ての創造の現れの基礎です。そして信頼の無い者は舵や船長のいない船のようなものです。ひとたびあなたの心が創造主への信頼に委ねれば、心は意識の指導を信頼するようになり、その結果、意識と心が一体として働くようにさせることになります。そうすれば因である神の意識と結果である人間の感覚の心が一体となって結びつくのです。そして生命の最大の神秘が氷解することになるのです。

【解説】
 あらゆる創造作用において、この意識への信頼というものが、基礎であり、基本です。
 そして大事なのは、私達がどのような進路を目指すにせよ、意識は時々に必要なアドバイス、指導的印象を各自に授け続けているという認識です。本文では船の進路を例えていますが、様々な行く手の困難に対しても、意識を信頼すれば必ず目的地まで導いてくれると言っています。
 ここで、ポイントとなるのは、私達の心が如何に意識が授ける指導印象を受け入れ、自らの行動に結び付けるかであると言っています。どんなに思いを込めたメッセージも、それを受け取るべき者が、それを無視したり、読もうとしなければ、本人の役に立たないのと同様です。しかし、直接会えなくとも、必要に応じて的確にアドバイスを送ってくれる師、あるいは父母のアドバイスは有り難いものです。私達は、この目に見えない存在、意識に対し、もっと感謝し、信頼を寄せる必要があると言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落034

034 Here you may say that you do not wish to follow blind faith. Yet to accomplish what you feel down deep within yourself that you can -- you must use it. For what is blind faith? When you were planning your house you were using blind faith for the house was not present as a finished structure of concrete and plaster. Whatever you do in your life is performed with blind faith, for you never know what the results will be in any act. Whether walking or riding or whatever you are doing you hope that all will be well, but you are never sure. In fact 99 % of our life depends upon blind faith. I leave the 1 % to past experiences, but even there you are not sure the results will be the same if repeated.
034 ここにおいてあなたは、盲目的な信頼に従がおうとは思わないと言うかも知れません。しかし、あなた自身の中の奥底であなたが出来ると感じていることを達成する為には、あなたはそれを用いなければなりません。何故なら、盲目的な信頼とは何でしょうか?あなたがあなたの家を計画している時、あなたは盲目的な信頼を用いています。その家はコンクリートとしっくいの仕上げられた構造物として存在していないからです。あなたが人生の中で何を成そうと、それは盲目的な信頼とともに成されます。あなたはいかなる行動においても結果がどのようになるかはわからないからです。歩いている、或いは乗り物に乗っている時、或いはどのようなことをしているにかかわりなく、あなたはすべてはうまく行くように願いますが、確信を得ることはありません。実際には、あなたの人生の99%は盲目的な信頼に頼っているのです。私は残りの1%を過去の体験に残していますが、それでさえ、あなたは仮に繰り替えしであったとしても結果が同じになるかどうかは確かではないのです。

【解説】
 ここでのポイントは盲目的な信頼です。(従前は"faith"を"信念"と訳される例が多かったのですが、faithには信仰の意味もあり、"信念"という"やみくも的"、"断定的"なニュアンスを避ける上から創造主への信仰の意味合いも込めて、"信頼"としました。)
 これまで述べて来たように、何かを創り出す際に、私達は実際には99%、この盲目的な意識への信頼関係を活用していることに気付く必要があります。私達の心がどうさわごうとも、物事が生まれる際の一つ一つの過程を少し考えれば、私達は常に未知なる存在からの指導(印象)に従っていることを認めざるを得なくなります。
 逆に言えば、それほどに私達は日常的に意識から、その時々に必要な印象を受けているのです。心が今後、よりスムーズに宇宙の源泉から来る印象を取り入れやすくする為には、その存在に対して、信頼を寄せ、印象の流れを妨げないようにすることが重要です。それが、意識に対する全面的な信頼が求められる由縁です。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落033

033 This could be called the development of the mind in intelligence. There is really nothing that you do that does not have the consciousness behind it. Your mind may change and modify an impression either for good or bad results, depending upon the mind's intelligence or how well it accepts the instructions. To produce good results the mind must have total faith in consciousness and permit itself to be guided by it.
033 これは知性における心の発達と呼んでもよいでしょう。あなたが成すことで背後に意識の無いものはありません。あなたの心は、その心の知性に依存して、あるいは意識の示唆を如何に良く聞き入れるかによって、良い結果となるにせよ悪い結果になるにせよ、印象を変化させ或いは修正するかも知れません。しかし、良い結果をもたらす為には、心は意識に全信頼を持ち、自らが意識によって導かれることを良しとしなければなりません。


【解説】
 ポイントは、私達の日々の行動において、実は意識の助けを借りずに行われているものは無いということです。
 前項(032)の本文で述べられているように、私達の日々の活動は、印象を基としていますが、その印象(アイデア)は「意識」から来ているものだと言っています。自分自身の経験から言っても、「あのとき、最初の印象に従っていれば良かった」等、後から思い出すように、私達の心は通常、やって来る意識の指導(印象)を素直には受け入れないものです。一つ一つ、自分(心)が判断し、これまでの経験に無い場合には、その印象をねじまげ、勝手な解釈をしがちです。
 誰もが、演奏家が楽譜を見ること無く、長い曲を完璧に再現するのを見て驚嘆しますが、まさにその姿は宇宙を流れる意識という大英知に人間の心が完全に従っている光景です。
 しかし、直ちにそのような理想的レベルに到達することは出来ません。先ずは第一学年からで、各自の心を意識の指導の声に耳を傾けさせ、心を少しずつ本来の姿に純化することです。当面は指導の手を差し伸べている意識なる存在に信頼を寄せることが大切だと言っています。
 ラジオやテレビの場合と同様、いかに意識が印象を発しようとも、肝心の受像機である心がそれらを受信できる感度が無い、あるいはせっかく受信しても自分の志向に合わないからといってスイッチを切ってしまったら、役立つ内容を視聴者に伝えることが出来ないのと似ているように思われます。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落032

032 When the form is seen with the mind and the consciousness reveals the cause we then see the visible and invisible at the same time. i.e. If you start making a plan for a house by drawing it on paper, you are producing the first effect that comes to the mind by conscious impression. You are using the consciousness and the mind as one. The consciousness alerts the mind what the design is to be. After the plan is drawn you may make many changes due to the experience you have had with houses. Even then the consciousness will point out the improvements that can be made which were not present in the houses you have known.
032 形有るものが心で見られ、意識がその因を漏らす時、私達は目に見えるもとと見えないものを同時に見ることになります。即ち、もしあなたが紙に図を描くことによって家を作る計画を立て始めるならば、あなたは意識の印象によって心にやってくる最初の結果を作り上げていることになります。あなたは意識と心を一つにして用いているからです。意識は心にデザインは如何にあるべきかを注意します。計画が図面化された後、あなたは家について得たこれまでの経験に基づき多くの修正を行うかも知れません。しかしそれでも、意識はあなたがこれまで知っている家には存在しない改善点があることを指摘するでしょう。

【解説】
 これまで、事物の背後にある原因を見るようにと述べて来ましたが、ここでは逆に、未だ現実世界に無いものが、原因の世界からどのように結果の世界に生まれるのかについて示しています。家の建築を例にとって印象が心に受け入れられ、図面に仕上がるまでを説明しています。この場合、当初、私達の心には家については「こうしたい」という希望はありますが、通常、それらは漠然としたものに過ぎません。それでも、家の図面を引きはじめるのですが、この時、心は因なる「意識」の助けを借りようとしていると言うのです。
 よく考えれば、この種のことは私達自身の日常においても、何か新しいことを始める時によく経験することです。このような場合、当初、私達(の心)は果たしてそれがどのようにまとまるか、全く検討もつきません。只、心を静めて「何とか良いものが出来ないものか」とアイデア(印象)が湧いて来るのを待っています。この時、私達は意識の指導に耳を傾けているのだと言っています。心が意識の指導を受け入れて(印象を受け入れて)、自分の手を使って図に表現すれば、成果(結果)が得られることになります。これは意識と各自の心の共同作業であると本文では述べています。
 実際、多くの創造的な仕事においては、既存の感覚器官では捉え切れない世界に多くの部分を依存しています。作曲家にメロディーのひらめきを与えるのも、画家にモチーフを授けるのも、この目に見えない意識です。この本文の例示を少し考えただけでも、私達は日々の生活や仕事の中で、実は多くの部分を因なる意識との共同作業によって行っていることに気がつくことでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落031

031 Now we must school ourselves to see the cause and the effect manifesting as One when we look at an effect. Form, we recognize with our physical sight as an effect to an effect. The mind must become aware of cause through consciousness. The moment that your eyes glance upon a form the consciousness will give the mind an impression of the life within the form. And you become single minded, as Jesus said man should be.
031 そこで、私達は一つの結果を見る時は、原因と結果が一体となって現れていることを見るように自分自身を訓練しなければなりません。私達は形あるものを自分の肉眼という結果に対して一つの結果として認識します。しかし、心は意識を通じて因について気付くようにならなくてはなりません。一つの形有るものをあなたの目が一瞥した瞬間、意識は形有るものの内部にある生命の印象を心に与えるでしょう。そのようにして、あなたはイエスが人はそうあるべきと言ったように二心の無い状態になるのです。

【解説】
 如何なる物を見る時も、私達はその物をもたらした原因と現れた結果を一体のものとして見るように自分自身を「訓練せよ」と言っています。この場合、「訓練」としていますが、原文では"school"(教育する、調教する、学校で学ぶように自分を成長させる)となっており、やみくもな(体力まかせの)苦行ではありません。もっと穏やかな学習課程を想定していることに注意したいと思います。
 さて、これまで再三、述べられて来たように、事物を見た際にその背後にある(因なる)要素にも同時に気付き、それらが一体となっていることを認識するようにと言っています。これを日常生活に応用し、日々の生活を学校のように見なして、個々人が自らの責任において成長して行くことが求められています。
 おそらく、その成果が最もよく現れるのは芸術の分野かも知れません。例えば写真。皆が同じものを見ていても、また、同じ道具(カメラ)を持っていても、写真家と一般の人とでは、その作品には大きな差が出るものです。この違いは何処にあるのでしょうか。写真家は、対象の中に秘められた美しさを発見し、それをカメラの視野に表現しようとします。自分が感動したものをもっと率直に他人に分かるように切り取って端的に表現しようとしているのです。人に感動を与えるのが芸術だとすれば、まず、自分が人に分かち与えるまでの感動(印象)を得ることが必要です。「心一つになる」(二心の無い)と本文にありますが、万物の背後にあってそれを支えているもの、その相手こそ、万物を創造している創造主の心であることに気付くことができれば、私達の日常生活は素晴らしいものに一変することでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落030

030 In observing the effect of forms we do not see the liquids or life blood, which we call sap in the tree, which flows through it making it a living thing. Nor do we see the roots in the depths of the earth and the work that they do in drawing energy from the earth unto themselves. Nor do we hear the molecules that make the form speak to each other in guiding it to the fulfillment of its purpose. This could be called the cause behind the effect.
030 その形ある結果物を観察する時において、私達は木の中の樹液と呼ぶ液体、生命を支える血液を見ていません。しかし、それは木の中を流れてそれを生き物と成しているのです。私達はまた、地表深くある根を見ることもありませんし、根が木々に土壌からエネルギーを引き出す為に果す仕事を見ていません。また、私達はその形有るものを構成する分子が互いにその形あるものの目的を果すために導く中で、互いに話しをする声を聞くこともありません。これは結果の背後にある因と呼べるものでしょう。

【解説】
 樹木についての観察の有り様を本文では示しています。樹木はそれほどに私達の身近な存在なのかも知れません。
 古来より、日本では巨木に対して神(生命)が宿るとして畏敬の念を持って大切にして来ました。今日残る千葉県清澄山の「千年杉」をはじめとして各地の神社や寺院に残る杉や楠の巨木はいずれも、こうした日本人の樹木に対する尊敬の証しでもあります。また、古代の日本には文化史的には「神人融合」の時代があったとされています。西田直二郎「日本文化史序説」(昭和7年発行、改造社)には以下の記述があります。「『草木ことごとくよくものをいい』。また『天地わかるの代、草木ものかたりせし時』ありとしたのは、古代の日本人が、わが住む世界について考えたこころである。われらの祖先はその四周の山川草木のことごとくから、よく生ける声を聞いたのである。このこころのうちには自然の事象と人間の生命との区分がなお明らかについていない。而してこれはまた神と人との境がいまだ大きく分けられていない状態であった。かかるこころの裡には神はつねに人とともにある。(以下、略)」
 この「自然と人間についての生命の区別が無い」ことや、「神(創造主)と人との境が無い」とする日本古代の概念は、この「生命の科学」本文の言う樹木の内部の生命を認識する観察に極めて類似しているように思われます。目に見えない(因に属する)生命活動を日常的に観察できる感性については、わが国古代の人々の方がはるかに鋭敏であったと言えるかも知れません。また、そのような感性を持てば、自分よりはるかに長年月生きて来た巨木に対し、畏敬を持って接するのは当然のことなのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落029

029 As an example we will use the form of a tree and analyze its purpose. As we observe the effect we find that its services are many, both as a living tree and the products that can be made from it. For many useful things are made from the wood of its trunk and it fertilizes the earth by dropping its leaves. But we do not see the energy or life force which eminates from it and without which we would not have the pure air which is found in virgin forests. For it transmutes monoxide gas to oxygen which is essential to life. And all plant life serves in this field.
029 例として、樹木を取り上げることとし、その目的を分析しましょう。私達がその結果を観察すると、私達は生きている樹木及びにそれから作られる製品共に木がもたらす便益は多種に及ぶことを発見します。何故なら、木材からは様々な有用な物が作られますし、その葉を落すことで土壌を肥沃にするからです。しかし、私達は樹木から発せられているエネルギー、生命力は見ていません。その生命力が無ければ、処女林に見られる純粋な空気は生じないでしょう。何故なら、樹木は一酸化炭素ガスを生命に必須である酸素に変えるからです。そして全ての植物生命体はこの分野で務めを果しているのです。

【解説】
 樹木を例に具体的な分析例を示しています。私達は道端に生える街路樹を見ても、普段は余り印象を持ちません。私達は自分自身のことで常に頭がいっぱいで、地上に共生しているその他の生き物まで関心が回らないのが実状なのです。
 さて、樹木ですが、良く見ると春夏秋冬、様々な変化を見せています。春には芽吹きを、夏には生い茂った新緑で周囲を爽やかな空気にしますし、秋には落葉の舞いを見せてやがて来る冬の到来を知らます。そして冬には、枝先の芽が寒さに耐える姿を見せています。そのような樹木の変化はいうまでもなく、誰もが認める(どんな鈍感な人間でも気付く筈の)生きている証です。また、本文に書かれているように、樹木は木材として私達の日常生活に不可欠な様々な生活用品や家具等の材料としても役立っています。また、植物の呼吸作用として葉から吸収した二酸化炭素を一方では動物が必要とする酸素に変え、他方では炭水化物の養分を葉や根、茎に蓄え、動物の食糧としても提供しています。
 これら樹木は惑星上の一大家族の一員としての自らの役目を果していることは、ちょっとわずかの時間、観察すればこのように分かる筈なのです。知識としては、十分、私達は教えられています。問題は、如何に自分自身の日常的な感覚の理解力をそのレベルまで高めるかにあります。目に見えない生命力を感じること、感じようとすることが大切で、これらの感受性を高める努力は、ある意味、芸術家や宗教者の精進や修行と近いと言えるかも知れません。

 注:原文では"monoxide"(一酸化物)となっています。通常、植物は二酸化炭素("carbon dioxide")を酸素に変える「光合成」を行うとするのが定説であり、原文の"monoxide"は"carbon dioxide"、あるいは"dioxide"の誤りかと思いますが、原文に従って敢えて「一酸化炭素」と訳しています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落028

028 So we must first -- condition the mind which is made up of the senses to not accept the effects as the ultimate answer as it has been doing. But patiently analyze the reason for the effect before coming to any conclusion. It should not make any difference whether it be a personal effect related to one's self, or another person or form of life.
028 ですから、私達は最初に、過去にやって来たように結果を最終的な答として受け入れることの無いよう、諸感覚から成り立っている心を慣らさなければなりません。代わって、何らかの結論に到達する前にその結果に対する理由を忍耐強く分析することです。それには御自身の個人的な結果であろうと他の人の或いは他の生命体についてであろうと何ら違いは無いはずです。

【解説】
 前項(026)で述べられているように、私達の心は学習課程にある訳ですが、具体的にはどのような姿勢で望んだら良いのかをここでは明確にしています。つまり、当面、私達にとっては目の前にある結果の世界しか目に入らない(認識できない)のですが、その背景にある(それを支えている、或いはその原因となっている)様々な要素に気付くように努力せよと言っています。
 とかく私達は結論を急ぎがちです。私達の心は「好き嫌い」や「善し悪し」等の判断(裁き)を半ば自動的に下し、世の中全てを自分中心に見て来ました。そこで必要となるのは心の訓練です。原文では"condition"(訓練する、慣らす)となっています。自らの心を事物の原因(それに至った要因)について知ろうと仕向けるようにと言っています。これらの思考パターンを繰り返し訓練することによって、私達の知覚能力は高められることを示唆しているのです。
 また、ここで必要となるのは、心の動きを客観的に見ることではないでしょうか。自分の心の動きを見るためには、騒がしい現象世界にあっても、丁度鏡のように静かな水面がわずかな波紋にも反応するように、心が微妙な印象をも感じ取る鋭敏さを備える必要があります。こうした因に対する絶えざる探究心と感受性を日々の生活の中で育成することが必要だと言うことです。心の習慣を変えることは容易ではないのですが、浮ついた心を落ち着かせ、事物の背後を支えている因なる要素へ自らの関心を高める努力を忍耐強く続ければ、成果が出ることに間違いはありません。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落027

027 We can observe that life lends itself to all nature without divisions. And it seems that man's free will has separated him from his natural expression of life.
027 私達は生命は分け隔てなく自然全てに自らを貸し与えていることに気付きます。そして、人間の自由意思こそが人間を生命の自然な表現から分離させて来ているのです。

【解説】
 「人間とは何であるか」、「自我(エゴ)の学習課程で陥りやすい課題」を述べた上で、物質世界を根底から支えている「生命」についてコメントしています。
 端的に生命はあらゆるものに区別なく、貸し与えられていると言っています。ここでは「生命」について詳しくは述べていませんが、いずれにせよ、生命(いのち)の息吹き(活動)という共通の源泉によって、自然界のすべてが生かされていると言っています。これが自然が調和を保っている根本原因なのです。
 しかし、私達の自由意志が私達を宇宙にあまねく生命から分離させてしまっているのです。人間だけに与えられた「自由意志」については、いずれ本文で述べられることと思いますが、ここでは、自然界の生命活動に同調出来ないでいる私達自身の問題点を指摘しています。
 実は、この生命の源から離れてしまったことの問題について、おそらくほとんどの宗教や哲学が取り上げているものと思います。最近、聴いたウェイン・ダイヤーの講演記録(Dr.Wayne W. Dyer: Live Lecture 6-CD Set, "The Secrets of the Power of Intention" , 2004 Hay House Inc.)の中でも"Source"(源泉)と再び結びつくことの大切さを訴えていました。しかし、実際の問題は、どうしたらその源泉に戻れるのかという点であり、単に「生命の源と一体になる」と叫んだだけでは問題解決にはなりません。その点でもこの「生命の科学」は様々な角度からその原因や解決策につながるヒントを私達に授けているものとされています。もちろん、単に理屈が頭に入っただけでは、知識が増えたに過ぎません。自らの刻々の精神活動がそれに沿って実行され、自分が体験したことを通じてのみ、理解のレベルを上げることができることになります。この生命の源泉と一体になれれば、他の自然界にあるものと同様に、常に若々しく新鮮な人生を送ることになることは間違いありません。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落026

026 The average human is a mentalist governed by the ego which is itself an effect of the cause. And as the mind is the process of learning it seeks to guide itself by other material effects and there are many things that it does not understand. And the things that are not understood are feared and disliked. And the things that are pleasing to the senses (or ego mind) are liked. Yet oftimes the likable things become blocks that prevent the individual from progressively learning.
026 普通の人間はそれ自身は因の一つの結果でしかないエゴに支配されている心至上主義者です。そして心は学習の課程にいる為、心は他の物質的結果によって自分を導こうと探し求めますが、心が理解しない多くの事柄があります。そこで、理解されない事柄は恐れられ、嫌われます。また、感覚(或いはエゴの心)を喜ばせるものは好かれるのです。しかも、多くの場合、好まれる物事は進歩的な学習からその者を妨げる障害になるのです。

【解説】
 成長の過程にある私達は、丁度、幼児が母親に常につき従うように、その保護者を常に求めています。結果の世界に生きている私達は、その存在の拠り所を結果(現象)世界に求めがちです。目に見えるもの、明らかに手元にあるものを土台として、自らの体験を広げながら学習を続けることは、自然の成りゆきでもあります。その為、「努力」はしていても根本的な認識対象を最初から結果(現象)世界に限界を設定している為に、現状から抜け出ることが難しいのです。
 多くの場合、私達の感性は通常の感覚器官では感知できない「意識」という印象レベルに発達していない為に、その認識レベルは現象にとどまっています。その場合、問題なのはとかく受け入れ側の私達の心が心地よいものを求め、一見醜いものや耳障りなもの、まずいもの、臭いものに対して、拒絶反応を起し、受け入れようとしないことです。
 以前、ある達人から「美しい音楽を聴き、美しい風景を見て、美味しいものを食べること、またそれらを求めることには問題がある。そのようなことをしていてはダメだ。」というような主旨のお話を伺ったことがあります。当時はその意味は分りかねていましたが、本文に言う「心を喜ばせることを求めてはいけない」という意味であったことが、今日ようやく分ります。日常の自分を支配しているのは何か、自分がどのような時に喜び、どのようなことに悲しみ、また何に恐れるのかについて、分析する必要があるようです。太古の昔から繰り返されて来た人間の成長の限界を飛躍させる為にも、自分が現在、どのような要素に捕らえられているか、調べ上げることが大切です。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落025

025 First -- What is a human being ? As we see the body which is an effect, we observe that it is composed of flesh, bone and liquid. And not much different than most animal forms. But that which makes up the form is never seen with the physical sight as it is made of myriads of cells. Each cell is independent yet it blends with all of the others for the common good and maintenance of the form. Just as the three billion people of the earth make up the human family. But because they have not been taught the part which they may play in life, disorder results. This disorder is minor compared to the total order on earth. For if it were not so the planet earth would be in a chaotic state. So now we must try and learn the cause of disorder.
025 第一に、人間とは何でしょう? 人体を見ると、それは一つの結果であり、私達はそれが肉と骨、そして体液から構成されていることに気付きます。そしてそれらは大部分の動物の身体と大差が無いことがわかります。しかし、身体を作り上げているものは肉眼では決して見ることは出来ません。なぜならそれは無数の細胞から出来ているからです。一つ一つの細胞は独立していますが、同時にその形有るもの共通の目的や維持の為、他の全てのものと融合しているのです。丁度、地球の30億人の人々が人類家族を作り上げているのと同様です。しかし、人々は生命において果すべき役割を教えられて来なかった為、混乱が生じています。それでもこの混乱は地球の秩序全体と比べれば小さいものです。何故ならもし、そうでなければ、この惑星は渾沌状態になっていることでしょう。ですから、今、私達は混乱の原因を学ぼうと努力しなければならないのです。

【解説】
 人間とはどのようなものかを観察する際の視野の奥行きを深める必要性を述べています。肉眼ではどんなに目を凝らしてもほんの大まかな対象しか見えません。また、通常、私達は自分自身の物である(本当は「預かりもの」なのですが)自らの肉体ついて、実はあまり良く知りません。普段、気にかけるのは顔にシワがあるとか、ホクロがあるなど、些細なものしか目に入っておりません。しかし、真実は莫大な数の細胞があり、各々が人体という構造体を維持すべく活動しているということです。私達はこれらを「知識」として知っているに過ぎず、日常的にこれらの莫大な数の細胞の動きに気付こうとはしていません。それら微少なる存在が活発に活動しているイメージに気付く必要があると言っているのです。
 ここで、自分にとって最も身近な身体の部位を例に考えて見ます。私は「手」が最も身近な存在のように常々思っています。よく悪い意味で「手先」という言葉があります。それほどに、自分の意向に沿って動く器官が「手」なのです。この器官が如何に大事かということは指先の一つでもケガをすればすぐにわかります。それほどに私達の日々の生活はこの器官の助けを借りています。
 その器官はどのようにして作用しているのでしょうか。こうして文を書いている時も、手は私の思いを着実に文字に変換しています。また、自分の身にどのようなことがあろうとも、常に私に随行し、用事を行ってくれます。暗い中で両手を触れて見てください。右手を通じて左手に貴方の意思を感じ取ることができるでしょう。
 しかし、この部位も一つの結果であると文頭で言っています。即ち、手を動かす為、その部位が本来の活動を始める為には神経指令が必要ということになります。その指令エネルギーがその筋肉、腱、その他に正しく伝わらなければ、スムーズな動きは出来ません。脳硬塞等に罹患した方の場合、その部位の肉体上の問題は無くてもその部位を動かすことが出来ません。手を動かす指令を仲介する脳の一部に問題が生じたからです。
 一方、高レベルの場合は、ピアニストの例が該当します。著名な作曲家の作品をピアニストが演奏する場合、ピアニストは楽譜に沿ってものすごい早さで鍵盤を叩きます。この場合、ピアニストの手には高速度の指令が伝達され、その指令に従って指先が連打しています。それが実現されるのは、作品のレベルに合致した伝送速度を流すだけの能力が先ず有って、その指令を受ける出力装置がそれに耐えうるまで機能を高めていることで初めて実現する訳です。
 このように普段、何気なく接している自分の肉体ではありますが、私達として、身近に備わっているこれら優れた器官に改めて感謝する必要があることに気付きたいものです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落024

024 So we will endeavor to understand the self by knowing the equipment we have to work with.
024 ですから、私達は私達が日々共に働かなくてはならない道具を知ることによって自分自身を理解するよう努力する必要があるのです。

【解説】
 二人と同じ人間がおらず、各自に託された才能が異なる以上、その天分を開花させるのは各自の責任です。そしてその為には先ず、自分自身を理解しようと努力することが必要になると言っています。
 ここでは日本語訳では「努力」と訳していますが、原文では"endeavor"となっています。その意味合いは単に試しにやって見る「試み」に近い努力ではなく、「何とか実現しようとありとあらゆる手法を試みながら、目標に向かって一歩でも前進しようとする継続的な取組み」を意味しています。
 また、その知ろうとする対象として私達自身の相棒である自らの「装置」(肉体)について研究すべきであると言っています。なお、この肉体、私達が活動する上で無くてはならないもので、いやおうなく自身の生涯の伴侶である為、"have to work with"と表現されています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落023

023 We find no two human being that are alike. For the different talents with which each is endowed makes the difference. But like the keys on a piano, when one learns the tone of each and strikes it accordingly a beautiful harmonious melody is the result. The opposite can be brought forth when not understood.
023 私達はそっくりな2人の人間を見つけることはありません。何故なら各々に授けられた異なる才能が相違を作り出しているからです。しかし、ピアノの鍵盤のように、人が各々の音色を学び、適切にそれを打ち鳴らせば、結果として調和のあるメロディーが生まれます。理解されなければ、その反対が引き起こされ得るでしょう。

【解説】
 この世の中に「私」という存在は一つしかありません。各々が異なる才能、役目を担っていると言っています。
 その違いをピアノの鍵盤のように例えていますが、そもそもの自分に課せられた音色(表現)とはどのようなものかを良く知ることから始める必要があると言っています。人間の常として、他人の欠点は良く分かります。しかし、これが自分のこととなると途端に分からなくなるものです。そもそも、自分に適した才能を見い出す努力を行っているかも疑問です。自分自身を顧みることなく、成り行き上の日常生活を送っているのが私達です。
 従って、先ずは自分の才能に気付くよう努力することから始めることになります。普段とは違う側面に明るくチャレンジして自分の可能性を確かめるのも良いかも知れません。本文に言うように、人類全体を通じて流れる調和したメロディーに貢献できるよう、各自が精進することしか、全体のレベル向上は無いのです。
 一方、逆説的にはなりますが、個人的体験から、世の中には自分と似ている人もいるように思っています。以前に米国に行った時、日本の私の職場の関係者と顔形や喋り方、物腰等の雰囲気が似ている人物と出会ったことがあります。当然、米国人と日本人との違いはありましたが、雰囲気は大変似ていたことが印象的でした。その方とお話をしましたが、その応対や話し振りもそっくりなので、驚いた記憶があります。地球全体では、おそらく同じような思考パターンを持った人間は存外、多いのかも知れません。
 自然界に目をやると、多くの生物がその種に独特な姿を見せる一方で、各個体は皆同じような顔形(かおかたち)をしているように思います。植物や昆虫等においては、各々の種で同じ顔形をしています。これを人間に当てはめたらどうなるでしょう。外見は皆一様なので容姿を気にする必要はなくなる一方、各自が他人をひきつける為には、内面深く魅力を持たなければならなくなることは確かです。バッタや蝶等においては種による容姿の統一化が図られており、その中で各々の個体はある意味、命がけで生命の継続に向けての営みに自分自身を捧げています。結果としては、植物の受粉を助け、他の動物に食物を授ける役割を果す等、地上に調和ある自然の営みをもたらしています。
 人間その他の動物では顔形で本人が区別できるようになっています。それはそれで便利なことではありますが、反面、容姿に捕らわれると、各自の内面についての訓練や学習という面では疎かになりがちです。外見に囚われず、内面から湧き出る各自の才能にもっと鋭敏になって、その発展に尽すことが必要です。自然の中の存在である人間にとって、各自の本来の役割を果すことがその個体の存在理由であるからです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落022

022 The major purpose for man seems to be -- an unlimited Expression of Cosmic Intelligence -- as no other form seems to have that scope of ability. Yet to do this, every phase of creation must be understood. When Jesus instructed his followers to be "about the Father's business" he had reference to this way of life. And in order to do this one must study each manifestation from the lowest to the highest.
022 人間の主な目的は、宇宙英知の限り無い表現であるように思えます。他の形有るものがそのような能力の可能性を持つとは思えないからです。しかし、これを成す為には、創造のあらゆる段階が理解されねばなりません。イエスが弟子に「父の務め」にとりかかるようにと命じた際、彼はこのような生き方との関連で述べたのです。そして、これを成す為には、人は最低位から最高位に至るまでの各々の現れを学ばなければなりません。

【解説】
 人間の主要な目的は宇宙英知の表現者になることだと言っています。他の個々の創造物は生き物にせよ、鉱物にせよ、それらの固有の美しさを自ら表現しています。自然界にある全てのものは、いかなるものも、その種、特有のパターンや形式を保ち、その詳細な構造を調べれば、調べるほど、美しい側面が現れます。そして、その表現には種によって一定の枠があり、それ以上の変化を示すことはありません。
 しかし、人間はそれらの枠を超えて、宇宙英知を制限無く表現できる能力があり、また表現することが本来の人間の目的だと言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落021

021 There can be no question regarding the fact that we were born for a reason or purpose, and there could be many. If this were not true, there would be no need for human beings.
021 私達が何らかの理由或いは目的の為に生まれて来たという事実に関して何らの疑問はあり得ません。もしそれが真実でないとするなら、人類の必要性は無いことになるからです。

【解説】
 私達がこの世に生まれて来たのには目的があると言っています。そもそも人類の存在意義について考えることが必要だと言っているのです。しかし、「人類」という大きな視野でなくても、自分自身、本来、生まれて来た目的は何であり、それが今日までどのように達成して来たか、実際に努力されて来たかを自省することが必要です。
 人が生きて行く為には、日々必要な食物や生活に必要な資源等、多くのものが提供されています。まして、今日では地球環境問題とまで言われるように、人間が生きて行く上での影響は惑星全体にまで及ぶほど大きくなっています。
 それほどに、周囲に支えられている私達ですが、実は自分がこの世に生まれるについて創造主から託されたであろう自分の目的について、これまで考えたことも無いという方も多いかも知れません。
 しかし、遅すぎるということは無い訳で、御自身の目的についてもっと真面目に考察することが大切です。残念ながら、個人の内面のことは他人が立入ることはできません。死に至る前までに、その本来の道を自覚し、その方向に向けていくばくかの前進をしたいものです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落020

020 We of today have a greater responsibility for we have more to compete with and more temptations than those who lived in the earlier days. So a greater alertness and determination is required if we are to understand and fulfill the purpose for which we were born.
020 今日の私達はより大きな責任を有しています。私達には昔の時代より多くの競争があり、多くの誘惑があるからです。ですから、私達が生まれて来た目的を理解し成就するには、より大きな警戒状態と決意が必要とされるのです。

【解説】
 ここでは、昔の人々の素直さ、純粋さについて述べておきましょう。
 今から約410年前、1597年2月5日、長崎で殉教したキリスト教徒26人(10人の日本人を含む)に関する記録が現存し、日本でも出版されています(「日本二十六聖人殉教記」ルイス・フロイス著、結城了悟訳、聖母の騎士社1997年発行。当時日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスが記述し本国に報告した記録)。
 それによれば、キリスト教が日本に伝えられた当時、日本では大名をはじめ、庶民に至るまで数多くの人々がキリスト教に入信しています。その後、豊臣秀吉の禁教政策により、キリシタン弾圧が始まる訳ですが、その最初がこの長崎における26名の殉教事件でした。この本によれば、時の権力者(秀吉)が全国に君臨し、人の生死を意のままにする絶対的な権力者であったことがよく分かります。またその中で報告されていたキリスト教徒は実に心が素直で、信仰を受け入れています。当時の庶民の生活は今日とは比べようもないほど、貧しいものであっことでしょう。庶民の生活の中では、過度な競争も無く、互いに助け合うような誰もが貧しく質素な生活があった故に、素朴さ生まれたものと思われます。科学の発展も無い中で、人々は全てを自分の感性で受け止め、何が真実かを見極める必要がありました。そして、その判断が、時の権力者の意向に沿わないものであれば、命を賭けて自身の信念を貫くこともいとわなかったと言えるでしょう。
 一方、科学が発展し、民主主義国家の今日においては、権力者は様々な目に見えにくい手法で、民衆をコントロールしようしています。また、人々の実生活は、互いを利用して富を肥やすことを目指してしのぎを削っている毎日と言えるでしょう。その中で、今日、人間一人ひとりが生まれて来た本来の意義を達成するためには、更に慎重な判断と実行力が必要だと言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落019

019 Even Jesus had to go through many unpleasant experiences and made a mistake when he drove the money changers from the Temple. For he taught, judge not. But when he realized his mistake he knelt in front of the Temple and asked his Father for forgiveness.
019 イエスでさえ多くの不快な体験を経なければなりませんでしたし、あの寺院から両替商を追い出した時は過ちを犯しました。何故なら、彼は裁くなと教えていたからです。しかし、過ちに気付いた時、彼はその寺院の正面にひざまずいて彼の父に許しを請うたのでした。

【解説】
 人の成長の過程に誤ちは多いものです。また、不本意な結果に終わることもしばしばでしょう。一方的な見方で相手を判断し、行動した結果、行き過ぎた行為となってしまうこともあるでしょう。
 良いものがよく分かり、世の中の悪しきものの本質が見えて来ると、とかく世間を批判し、正そうとする行動になります。
 しかし、大部分の人々が地上のどうしようもない世の中で生きて行かざるを得ないのも、この星の現実です。問題はこのように苦しんでいる人々に、いかに宇宙に充ちている生命の息吹きに気付かせ、本来の安らぎを提供するかにある筈です。
 行動を起さなければ何も進展しないということも確かですが、その行動は他者への哀れみやあたたかさに根ざしたものであることが必要なのです。自然界の営みが一見、無言であっても、全てが絶妙に調和して結果としては全く破壊の要素が見られないことにも留意したいものです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落018

018 Remember every act is perfect - be it good or bad - as we classify it. For every action calls for a full coordination of your mind, body and consciousness. So you grow into perfection by action and experience.
018 あらゆる行動は私達の分類によるところの良くも悪くもそれ自身、完全であることを忘れないで下さい。何故なら、あらゆる行動はあなたの心と身体、そして意識の完全なる整合を必要とするからです。ですから、あなたは行動と体験によって完全なるものに成長を遂げるのです。

【解説】
 実は「行動(行為)」は「心」+「身体」+「意識」の完全な調和があってはじめて成り立っていると言っているのです。そのもたらす結果、或いはその目的はとにかくとして、人が行為を行う場合に、この三位一体が完全に成立していなければ、実際の行動は出来ないと言っています。行為を分析すれば、それ自体には良し悪しは本質的に無いと言っているのです。どのような行為であっても、その行為には私達が本来、目的としている「完全さ」の要素が備わっているということでしょう。
 しかし、それだからと言って、どんな行為でもOKだとするのは、あやまりなのは言うまでもありません。心の指令と肉体各部の運動、それを支える目に見えないメカニズム等、「意識」と称せられる宇宙的な衝動のどれもが、協調して作用してはじめて、行動になるのです。
 まずは、日常生活において、自らの足の一歩を踏み出す際に、心が「先に行きたい」と思う想念と実際に「脚を前に進める」身体、そしてその脚の筋肉や体型のバランスを保つ一連の身体の動き等、様々な活動要素が円滑に調和してはじめて「歩く」という行為が行われます。そう言う意味からも、行為自体についても、どのような指示命令系統が身体に行われているか、感じ取る努力が必要かも知れません。
 いずれにしても、単に「○○すべき、○○したい」とする心の意思だけでは、体験することはできません。実際に行動する為には、「身体」と「意識」が調和されていなければなりません。
 よくある話に、自分に自信を無くした場合、最悪のケースでは、目前の階段の1段も登れなくなるような事態も起こり得ますし、催眠術にかかって自らの心の力が弱くされると、極端な場合、一歩も歩けなくなってしまうこともあり得ます。文中に述べられているように、私達は所詮、自らの行動とその結果として自らが経験する体験によって成長する以上は、体験を持つ為には、行動が必要であることは容易に理解されるでしょう。そういう意味から、自らの心(意思)を弱めたりすることからは、遠ざかる必要があります。
 好例なのは、スポーツ選手の演技です。彼らの俊敏な演技(行動)は、「心」が「意識」のレベルまで周波数が高まり、機能が向上した場合には、それほどに高速度で高レベルな演技(行動)ができることを示していると言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落017

017 Do not be afraid of making a mistake. But when you are aware of making a mistake, correct it as soon as possible, for if you do not, it could be a block in your progress. But do not feel badly, for that could cause you to be too cautious. Remember at all times that mistakes are the result of wrong application through which we learn the right procedure. And experience is necessary for the expansion of knowledge.
017 過ちを為すことを恐れないで下さい。しかし、過ちを為したと気付いた時は、一刻も早くそれを正しなさい。何故なら、そうしないと、それはあなたの進歩の障害になるかも知れないからです。しかし、くよくよ思ってはいけません。あなたを余りにも用心深くさせることになるからです。いつも過ちは間違った応用の結果であり、それらを通じて私達は正しい手順を学ぶということを覚えていて下さい。そして体験は知識の拡張に無くてはならないのです。

【解説】
 これまで経験が無い、宇宙的衝動を現象世界を現に支えている存在として認識し、その指示を受け入れるように自らの心を訓練するということは、師匠と弟子が四六時中、寝食を共にしている場合以外、容易なことではありません。まして独学で、一人、学ぼうとしている私達にとって、間違えることはむしろ当たり前のことです。Try and error による学習になることは自然の成りゆきです。
 しかし、ここで問題なのは、結果が失敗だった時の対応でしょう。思うように行かなかったことの背景には、様々な要因がある筈です。個人の責に因らない場合もありますし、自分の未熟さが現れた場合もあるでしょう。重要なのは、ここで自分の誤りに気付いた時、即ち、「自分のここが過ちであった」と自覚できた場合は、速やかに改めなさいということを言っています。実際には、人前で自らの過ちを認めることは容易なことではありません。自分のプライドを捨て去る必要もあります。無数の失敗への道がある中で、狭き門を行く為には、失敗への対応が重要であり、どのような場合でも全創造物の親である創造主の恩寵を自覚して、自らを素直に保つことができるかが、鍵となります。
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