2020年09月

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落117

117 Our lack of fear is not due to our confidence in matter but our inherent faith in the principle supporting and controlling matter. I say inherent because Cosmic Cause which produces faith is within everyone. It is closer than hands and feet and whether or not we as mortals openly admit its existence we do realize it or we would not be conscious, living beings.
117 私達に恐怖が無いのは私達が物事に確信があるからではなく、物事を支配し、統制している原理に対する生まれながらに存在する信仰がある為です。私は信仰を作り出す宇宙的因は誰もの中にある為、生まれながらに存在すると言っているのです。それは貴方の手や足よりも近くにあり、死すべき私達が外に向かってその存在を認めるかどうかによりません。何故なら、そうでなければ私達は意識があり、生き物にはならないからです。




【解説】
 このように私達が恐怖や不安を抱かない事柄があるのは何故かについて、著者はそれは私達が対象となる事象に対して信念があるということではなく、そもそも私達自身の中にその事象を支える法則について生まれながらに身に付いた信頼(信仰)があるからだと説いています。
 つまりは既に私達は宇宙的原理について理解し知っているが故に、不安に思うことがないという訳です。言い替えれば、私達が宇宙の原理について学び、身に付けて行けば行く程、私達から不安は無くなって行くということです。おそらく仏陀やあらゆる場面においても揺るぎない温和な表情を見せていたことでしょうし、そのお姿を心に留めようと仏像の建立が始まったのかも知れません。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落116

116 Do we worry that the rivers will start flowing up hill, or drop a weight and hold our breath that it might rise again, or throw a ball into the air and doubt that it will return to earth? No, for again we know the principle governing such action.
116 私達は川が丘を遡って流れるかも知れないとかを心配し、或いは重りを落として再び昇って来るかも知れない、或いは空中にボールを投げて再び地面に戻って来ないかと息を凝らすことがあるでしょうか。いいえ、ありません。何故なら、この場合もやはり私達はこのような行動を支配している原理を知っているからです。




【解説】
 私達の不安や恐れは何処に原因があるかについて、その反証として私達自身が自然界の中でごく当たり前の事象としている例を著者は私達に示しています。
 つまり私達が自身や信念を持てないのは、その想定事象に働く宇宙的な法則が理解できていないことに関連しているということです。”想いは実現する”という法則性を理解しているか否かがその岐路になるということでしょう。
 私達の一生も自らの日頃の心境、発する想念が造り出すものであり、私達自身、それらの結末を甘んじて受け入れなければなりません。全ては法則の下にあり、人は蒔いた種を刈り取る訳ですから、そこには本来、見通せない未来は無いということになるのです。
 そういう意味では、創造主への信頼と自らの実践を通じて日々働く中に不安感は存続できないのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落115

115 Why do we have perfect confidence that the sun will rise each day? Have you ever known a man rising each morning, hours before dawn, to sit wringing his hands in tense anxiety over the prospect of eternal darkness? No, we have no such fear, and the primal reason that we do not doubt in this case is because the action of the suns and planets is greater than our mortal mind can conceive and therefore we leave such actions entirely in the hands of the All-Knowing Principle which understands and perpetrates all action. In this case we realize our personal insufficiency and so do not concern ourselves by exerting mortal effort in regard to it. We simply allow it to take place.
115 何故、私達は毎日太陽が昇って来ると完璧に確信して来ているのでしょうか。貴方はこれまで毎朝起きては夜明け前に永久に闇が続くことを恐れる余り、両手を握り締めて座すような人を知っていますか。いいえ、私達にそのような恐れはありません。また、このような場合に私達が疑いを持たない主な理由は、諸太陽や諸惑星の行動は私達の死すべき心が計り知りえるより偉大であり、それ故、私達はこれらの行動を全ての活動を理解し、それを為す全知の法則の手に完全に委ねているからです。この場合、私達は個人的な力量不足を自覚し、その為、それに対して死すべき者の努力を行使して自分自身を係らせようとはしないのです。私達は素直に起こるに任せているのです。




【解説】
 そもそも私達の不安は何処から来るのか、私達は自分自身を教材としてよく考える必要があるでしょう。実は私達は漠然とした不安感を感じているだけかも知れません。もちろん、未来の事柄は分からないことですが、宇宙の中に生きている限り、未来永劫にわたり自然を育んで来た普遍の法則の下、自然界の一員として私達は生きて来た訳で、そこには疑いの余地はありません。
 こうした永劫に続く活動の流れの中で私達は生きて来た訳で、本文に記されているように、毎日、太陽が出ない日は無いのです。
 このように考える時、私達には生かされているという確信(faith)が持てる訳であり、信念・信仰(faith)もこうした自然界への考察の中で培われるものでもあるのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落114

114 There is no such thing as absolute unbelief; there is only a growth from the lesser faith to the greater faith. As the teacher Zoroaster explained, "Evil is but unripened good." Likewise, fear is but undeveloped faith. Man has come from Cause Intelligence to the world of effects; his mortal sense mind lost the memory of Cosmic Cause and he is now in the process of reestablishing himself; he is on his way back to oneness with the Principle where selfishness with all of its innumerable effects is dissolved. It is through the recognition and realization of Cause that faith is stabilized.
114 絶対的な不信心というようなものは存在しません。より少ない信仰から、より大きな信仰への成長があるだけです。教師ゾロアスターが「悪とは未成熟の善である」と言ったようにです。同様に恐怖は未発達の信仰なのです。人は因なる英知から結果の世界に生まれ来たり、その死すべき感覚心は宇宙的因の記憶を失い、今や自分自身を再構築する過程にあります。人は利己心がその無数の結果物と溶け合う一大原理と一つに戻れる道の途中に居ます。信仰の安定化は因の認識と実感を通じてなされるのです。




【解説】
 このように大事な信仰心なのですが、実際に身に付けるのは容易でないと思う人も多いようです。しかし、本文で述べられているように私達が母体の中で生きていた間は全てを母親に委ね、自らの生命を母体に依存して来たのです。言い換えれば、宇宙の因に全てを委ねていたと言っても良いのです。
 しかし、生誕後、成長するにつれて、自我が次第に拡張し、それまでの信仰心は小さくなってしまったのです。それ故、私達は元来はこうした信仰心のことを十分理解していた訳で、再びその心境を思い出すだけで良いのです。
 外界に目を奪われ、結果の世界に右往左往する状況から再び安定していた母体の記憶を呼びさますだけで良いのだとも言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落113

113 The development of faith in man is the growth out of the personality into the impersonal expansion of awareness; from effect to the cause back of all effects.
113 人における信仰の発達は、個としての自分から非個性的な知覚の表現への成長、結果から全ての結果物の背後の因への成長のことなのです。



【解説】
 信頼・信仰・信念等々に相当する本章の中心課題であるFaithとは結局、因の世界に個我から抜け出ることにあると著者は本項で結論を私達に説いています。とかく私達は信念と言うと自分の目標の実現を祈る程度の理解でしかありませんが、そもそも本来のFaithとは自我を超えたもの、自分の願望から抜け出たものというのです。
 自分の望みでなく自我をあらゆる結果物の因に拡張する中で得る因への信頼こそが私達が学び身に付けるべきもの、Faithだという訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落112

112 At this point you will, of course, say, "But the seed could not grow without the support of the earth, air, water and sun." This is true, but as the seed obeys the command of the Cosmic or Cause intelligence all necessary elements unite to bring it forth. The seed is not commanded to push through the ground in the cold winter months nor does it seek to grow without that urge from within. It waits patiently till it feels that the time for growth has come. What would happen if the seed questioned the urge to grow as man questions new ideas of a broader conception of life that try to impress themselves upon his mind? As the seed by not resisting the urge grows into a beautiful bush, so man, likewise, may be assured that if an idea or desire arises that is impersonal, it is there for a purpose and if acted upon will produce beneficial results. A desire can be kept from manifesting only through the effort of the personal will in resisting action. For the thought or desire is the actual Cause which fathers the outward conditions.
112 この時点で貴方はもちろん、こう言うでしょう。「しかし、種は土や空気、水や太陽の支援無くしては成長出来ない。」このことは真実ですが、種は宇宙の、或いは因の英知の指令に従うため、全ての必要な要素が種の発芽を実現するため、結束するのです。種は寒い冬の月日に地面を貫いて突き進むよう命ぜられることはありませんし、そのような内部からの衝動無くしては成長しようとはしません。それは成長の為の時期が来たと感じるまで忍耐強く待っています。もし種が人間が自分の心に印象付けようとしているより広い生命の新しい概念を疑問視するように、成長への衝動に対して疑問に思ったら、どうなることでしょう。種がその衝動に抵抗することなく、美しい茂みに成長するように、人間も、もし非個人的なアイデアや願望が起こった場合には、それ(訳注:アイデアや願望)は一つの目的の為にそこにあるのであり、もしそれに応じて行動すれば恩恵のある結果を作り出すことでしょう。願望は抵抗的行動をとる個人的意志の影響によってのみ現象化から遠ざけられるのです。何故なら、想念や願望は外側に向けての状況を生み出す実際の因であるからです。




【解説】
 先日テレビでサツマイモを水を入れた皿の中に置くと、数日で芽が出てやがて葉を伸ばす程に生長する様子が紹介されていました。またYouTubeではジャガイモに穴を開け、その穴にバラの茎を挿すとバラが芽を出し生長するとしています。
 いずれも私自身試したことはありませんが、貯蔵していたジャガイモが芽を出すように、農作物は収穫後も生きていて、いつでも条件が整えば再び生長しようとしていることが分かります。
 これらの作物は各々宇宙の法則に従っており、自らが置かれた境遇等を一切気に掛けることなく、自分の使命を全うしようとしているのです。私達はそれらを食べる中で摂取した各々の生命を自らの行動の中に十二分に生かす努力が必要であることは言うまでもありません。結局は私達は他の動植物や鉱物と同じ兄弟として地球という惑星に生きているのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落111

111 How often quoted is the expression of the Christ, "If ye have faith as a grain of mustard seed ye shall say to this mountain, remove hence to yonder place, and it shall remove; and nothing shall be impossible to you." (Matthew 17:20) This statement has been used to show how little faith is necessary to bring forth manifestation. Notice, however, that the words are not "faith as great as a grain of mustard seed" but "faith as a grain of mustard seed." Not the quantity of faith but the quality of faith is called to note in this statement. Let us study the consciousness of the mustard seed. Is it ever overcome with fear in regard to its personal existence? What causes it to grow? Is it not the conscious impulse force within it which promotes it into action? The seed knows nothing but this urge within itself which causes it to expand, burst its shell and proceed upward into the light. It does not seek to resist this force of natural growth nor does it wonder if it is right to act in this manner. It acts unquestioningly according to the law or principle of its purpose. It does not look to effects - neither to man, to earth, water, or sun. It expands into a mature bush because the forces within it command it into such growth.
111 これまで何回、キリストのこの表現が引用されたことでしょう。「もし、汝に一粒のカラシ種ほどの信仰があれば、この山に対し、ここからあそこの場所に移れと言えば、その山は移るであろう。貴方に不可能だというものはない。」(マタイ17:20)。この表現は創造作用をもたらすのに、如何に小さな信仰が必要なだけであるかを示すため、用いられて来ました。しかし、それらの言葉は「カラシ種一粒の大きさの信仰」ではなく、「一粒のカラシ種ほどの信仰」としているのです。信仰の量ではなく信仰の質がこの声明の中で求められていることに注意して欲しいのです。カラシの種の意識を研究して見ましょう。それはその個人的な存在に関して恐怖に打ち負かされているということはないのです。何がそれを成長させるのでしょうか。それを行動に突き動かすのはその種の中の意識的衝動ではないでしょうか。種は自分の中にあるこの衝動しか知っておらず、それが膨張し、殻を弾けさせ、光に向かって上方に進み出します。それは成長のこの力に抵抗しようとはせず、またこのように行動することが正しいかどうか迷うことはありません。それは法則あるいはその目的の為の原理に沿って、疑問を持つことなく行動します。それは人間、地面、水や太陽に対する影響を見てはいません。内部の諸々の力がそのような成長を命じる故に、成長した茂みになるのです。




【解説】
 私達も含めあらゆる動植物が本来、持つべき創造主への信頼(信仰)について、本項で説かれています。イエスが説いた”カラシ種ほどの信仰”とはその小さな植物の種にあっても、芽を出し生長する上で糧となる意識は因への信頼であり、その強さは私達の比ではありません。山をも動かす程のゆるぎないものであるのです。
 それに比べて私達の信仰は実に不安定なものではないでしょうか。少し目先の状況が変化したことによっても私達は見通しを大きく乱し、混乱を呈してしまうのです。
 これに対して、私達が身に付けなければならないもの、人知れず心に留め置くものとして、目に見えない者、因への信頼があると考えます。不安定な結果の世界に囚われることなく、宇宙を流れる目に見えない法則に軸足を置くことが状況を望ましい方向に導くことになるからです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落110

110 If we analyze fear we will find it to be produced by a state of wondering in regard to our support and safety. In most every case fear is focalized about one's personal being or self-interest. Most men look upon the activities of life in the light of the effect that they will have upon themselves and those dear to them. They are living in the consciousness of the effective world, depending upon outer things for their support, and the recognition of the instability of outer effects produces a condition of uncertainty within their own minds. We may say then, that fear is the self-centered state and faith is living the impersonal state of being. Fear is based on effects; faith is based on Principle or Cause.
110 もし私達が恐怖を分析すれば、私達はそれが私達への支持と安全に関する不安状態によって作り出されることを発見するでしょう。ほとんどの場合、恐怖は自分の個人的な存在か自身の関心に焦点が当てられています。ほとんどの人達は、それらが自分自身や自分達にとって大切なものに与える影響という光で人生の活動を見ています。彼らは結果の世界の意識で生きており、自分達の支えを外側の物事に頼り、外側の結果物の不安定さの認識が心の中に不安定な状況を作り出しています。ですから私達は恐怖とは自己中心の状況であり、信仰とは非個人的な状態と言うことが出来ます。恐怖は結果に基づくものであり、信仰は法則、即ち因によっているのです。




【解説】
 確かにあらゆる場面を考えて自分に降りかかる障害の可能性を懸念して私達は普段から生きているように思います。ましてや競争社会にあっては世の中で生きて行くことは不安やストレスが貯まる傾向になるものです。また、昨今では新型コロナウィルスから如何に身を守るか等、多くの人は気が休まる時がないのではないでしょうか。
 もちろん、こうした心配事は危機管理の上からは事前に危険を予測する意味で大事なのですが、問題は過度に私達の心は恐れがちになることで、その行き着く先は身体にも変調を来たし、食事も摂れなくなる事態に追い込まれる場合もあるのです。
 問題はこうした不安や恐怖の心境がその人の未来、因の世界までにも影響を及ぼすようになり、次々に悪循環の輪に入り込んでしまうことです。
 このように不安や恐れは何一つ事態を解決しませんし、私達に良いことをもたらすことはないことを先ず理解する必要があるでしょう。その上で私達は結果のみを見て嘆くのではなく、自ら明るい想念・印象を心に取り入れて、自らの肉体細胞を良質な振動を発するようにしなければなりません。その為には、生命は一体、誰に支えられているかを良く調べ、その力の源泉に回帰する以外に方法はありません。しかし、こうした状況を乗り越えた末に気楽な暮らし、他力本願の心境が生まれたとすれば、それは何よりもかけがえのないものとなる筈です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落109

109 We know that all things in the manifested world are possessed of the positive and negative aspect. Faith is one of the positive aspects of man's character so what is the opposite of faith? Fear, of course! Therefore, to understand one we must understand the other; they are the two ends of one pole. Fear is the lower expression so let us begin with an analysis of it and work upward to faith.
109 私達は、創造されたこの世界の全ての物事は陽と陰の側面を有していることを知っています。信仰は人の性質の陽の側面の一つですが、それでは信仰の正反対は何でしょうか。もちろん、恐怖です。ですから、私達は一つを理解するには、もう一つも理解しなければなりません。それらは一本の棒の両端なのです。恐怖は低次な表現ですから、私達はその分析から始めて、信仰まで昇って行くことにしましょう。



【解説】
 おそらく生きて行く中で私達が絶えず直面するのが、この「恐怖」の問題でしょう。この要素出現は未来が予見出来ないこと、また現下の諸状況が絶えず変化している中、これからの私達各自がますまず困難な目に遭うかを危惧するからです。
 しかしこうした恐怖にさいなまれているのは人間だけのように思えるのです。たとえ明日朝屠られ生を終える水牛達がのんびり身体を休めていたり、何時踏みつけられ生命を終えるかわからない危険な状況にあっても、ひるむことなくアリ達は日々の仕事に精を出していることを私達は知っています。
 こうした行動はどうして可能なのか、私達は真剣に考えてみる必要があるのです。そしてその結論は、各々には創造主への信頼、仮に生命が途絶えたとしても再び何処かで再生復活するという事実を信じていることが背景にあるということでしょう。
 私達人間は大自然の中の彼ら動植物の持つこれら信仰(信念)について、もっと学び身に付ける必要があるのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落108

10 FAITH
108 Faith is perhaps one of the most widely discussed topics in the world, yet it is the least understood. Teachers, ministers, psychologists, etc., all advise the development of faith and proclaim it as the basic quality of life but find difficulty in explaining this particular faculty.
第10章 信仰
108 信仰はおそらく世の中で最も広く議論された話題であり、また最も理解されていない話題でもあります。教師や聖職者、心理学者その他の人々は皆、信仰の発達を推奨し、それが生命の基本的な質であると宣言していますが、この特別な機能について説明することは難しいとしています。




【解説】
 何故、Faith(信仰、信念)が重要なのかを本章では改めて学ぶことになります。
 言い換えれば、そもそも何を信じようとしているのか、何故それが必要なのかということでしょう。これについては先ず、私達がこれから取り扱う因の領域については、それは未だ実現していない想念・印象の段階にあることと関連していることに気付きます。つまり、物質や物体として未だこの世に存在する以前の段階を取り扱う為、それがやがて実現することになると理解する上で、両者の繋がりを信頼することが基本となる訳です。
 分かりやすく言えば、想い(想念)は叶い、実現するという静かな心境が重要です。それ故、心の中、或は受け入れる想念・印象の中に望まない事柄は微塵も混入させてはなりません。私達の心の中のものは全て遠からず実現することになる為、抱く想念には常にチェックすることです。自らが受け入れる想念が諸々の影響を及ぼすこと程、重要なことはありません。心に想起することはやがて実現するという法則性、またこうした私達創造物に対する創造主の見守りに対しても同様な信仰が必要だということです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落107

107  Through our life on earth we have learned a great deal; how much more we shall learn as we venture into the realms of Cause. We shall know much more beauty than we have known in the world of effects. Our admittance to such knowledge is not difficult - just one step can prove itself the key that will unlock the chambers heretofore unknown to us. "There is nothing," we have been told, "that shall not be revealed." To the vision of the brave in heart no truth can be concealed. One single sacrifice - the releasement of old thought habits, may bring rewards far greater than you have ever dreamed
107 地球上における私達の生活を通じて、私達は多くを学んで来ました。私達が因の領域に足を踏み入れれば、更にどれほど多くを学ぶこととなるでしょう。私達の結果の世界で私達が知って来たよりも更に大きい美しさを知ることになるのです。このような知識に対する私達の入場の権利は難しいものではありません。ただ一歩の踏み込みが、私達にこれまで知られていなかった特別室を開けるカギであったことを明かします。「明かされないものはない」と私達は教えられて来ました。心の勇敢な者の視野には如何なる真理も隠されていることは出来ません。ただ一つの犠牲、古い思考習慣の解放は、貴方が夢見たこと以上に大きな報酬をもたらすことでしょう。




【解説】
 この宇宙哲学を学ぶにあたり、そもそも私達が何を目指しているかについて本文は明確に述べているように思います。
 つまり、私達は地上における物質の世界、結果の場についてはこれまで多くを学んで来ました。そしてその過程で優れたもの、美しいものにも出会って来た筈です。
 しかし、それ以上に私達がこれから学ぼうとしているのは、因の世界、即ち創造主の想念が行き来し、これから万物が生み出される源泉の活動力の場を探求し、知ろうとしている訳です。そこにはこれまでの結果の世界とは比べようもない精妙華麗な世界が広がっていると著者は説いているのです。そして私達がその入り口の扉を開くことは十分に可能であって、唯一私達の古い思考週間を捨てることで良いのだと説いているのです。(注:私には映画「2001年宇宙の旅」の中でボーマン船長が木星の大気圏に入って行く際の様々な光が交差する映像の表現に、本文で言う想念が飛び交う因の世界が象徴されているように思っています)

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落106

106  Remember that youth is the result of constantly renewed thoughts and life is activity - it is progress. The first step taken in any field of accomplishment is an initiation into a new endeavor and requires a certainty that is born of perception - an assurance of a vastness that lies beyond our present line of vision. Neither you or I know what each new step will bring but the journey must be made and only faith will reveal truth to us.
106 覚えておいて欲しいのは若さとは絶え間なく更新される想念の結果であり、生命とは活動であり、進歩であるということです。如何なる達成の分野でも踏み出された最初の一歩は新たな努力へのはじまりであり、私達の現在の視界の境界線の奥に横たわる広大さの知覚への確信を必要としています。貴方も私も新しいそれぞれの一歩が何をもたらすのか知るものではありませんが、その旅は為されなければならず、唯一、私達の信仰が私達に真理を明らかにすることでしょう。




【解説】
 新規分野への踏み出しに対して、失敗を恐れる人と希望が湧く人とが居ることでしょう。そのどちらがあるべき姿なのか、本項は私達に諭しています。
 もちろん失敗を恐れて踏み出すことが出来ない者は、新しい経験を積むことが出来ずに人生を終えてしまいます。しかし、夢ばかりを追い求めていても成就は遠く及ばないことも体験上、分かっています。
 重要なのはその一歩を踏み出した時、単に従来のエゴの妄想を展開させることなく、心を落ち着けて、その一歩を踏みしめ、生じて来る課題に向き合うこと、また自ら得たビジョンを信じることかと考えています。根気よく努力することで自ずと道が拓かれることは既に学習しているからです。
 こうしたチャレンジを続ける中では人は老いることはなく、いつまでも新鮮な心境を保っていられることにもなるのです。

おわび

昨日の記事についてはタイトルの段落番号に誤りがあり、掲載の順序に誤りがありました。
本日と昨日と順番が逆になりますので、ご了承下さい。

竹島 正

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落104

104  It is true that the step into the wholeness of life carries us into the unexplored but what would our existence be if we remained always in the world of the obvious? Delving into any subject takes us from stagnation to knowledge and progress. There is no need for any one remaining in the state of disintegration or static mental condition when everyone is privileged to step into the newness of things and study in the school of everlasting advancement. There is no place to which a man is bound; he may go forward freely whether it be in a world of acts or in the universe of facts. There is no standing still; one must go either up or down, and the upward step is always the proper one to take. All of the storehouses of earthly knowledge in which various manuscripts are treasured contain not even a beginning of the wisdom that is held within the storehouse of the cosmos.
104 生命の全体性への歩みは私達を未踏に運び入れますが、もし私達が明らかな世界にいつも留まっていたら、私達の存在意義は何なのでしょう。どんな課題でもそれを掘り下げることは、私達を停滞から知識と進歩に連れ行きます。誰もが物事の新しさへの一歩が与えられ、永続する前進の学校での学習が与えられているというのに、誰一人、崩壊或いは静止した精神状態に留まっている必要はありません。人が縛りつけられている必要のある場所は存在せず、人は行動の世界や事実の宇宙の中であれ、自由に前進することが出来るのです。静止しているものは何一つありません。人は上昇するか下降するかのいずれかであり、上向きの一歩は常に取るべき適切なものです。様々な原稿が収蔵されている地球上の知識の宝庫の全てをもってしても、宇宙の宝庫の中に保存されている英知の冒頭さえも含んでいないのです。




【解説】
 真に宇宙的に生きるとはどういう事かを本項では説いているように思います。
 即ち、私達は前進か後退かのどちらでしかなく、停滞とはとりも直さず時代の流れから取り残され、習慣の中に埋没し退化して行くことになるのです。
 しかし、これを為すには何か大変な努力をしなければならないという訳ではありません。私達の意識をもっと自由に拡げ、空間を行き来させ、新しい想念・印象と出会うことが重要なのです。この意識を拡げることは肉体とは関わりなく自由に出来る筈です。こうした自由闊達、開放的な心境になることで、やがては宇宙的想念・印象と出会う中で、進歩を遂げることとなる筈です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落105

105  One step can set a man on the highway of eternal learning - the everlasting revelation of facts that exist only in the laboratory of Cause which knows no limitations or boundaries. But after you have taken the first step, learn the lesson of patience so you may not try to travel faster than your understanding will permit, One step will set you on the highway, but there are billions of steps ahead of you, for after you have reached a goal you still must travel through Eternity. Man can never attain the totality of all that is to be known, for if he could do that there would be an end to all things. Knowing that this is true, why be impatient to forge ahead? Each step we take is new; each step is the first one from the point that we have previously reached. It is well to have ideals; we are given glimpses now and then of the fullness of the life ahead of us so that we may be inspired to continue action, but if we keep our eyes totally upon the future we are sure to miss the beauty of the present and we may stumble into a briar patch and endure much suffering while trying to extricate ourselves.
105 一歩の踏み出しが人を永遠の学びという王道、制限も境も知らない因という実験室の中にのみ存在する事実の永続する現出の場に据えることが出来ます。しかし、貴方が第一歩を踏み出した後は、貴方は自分の理解が許すより速く旅しようとはしないよう、忍耐の教科を学ぶことです。踏み出す一歩は貴方を王道に乗せはしますが、貴方の前には何十億もの歩みがあるのです。何故なら、貴方が一つのゴールに到達した後も、貴方には永遠を通じてなお旅する必要があるからです。人間は知るべき全ての全体性を決して達成することは出来ません。何故なら、もしそれが出来たとすれば、あらゆるものに終わりがあることになるからです。このことが真実だと知ったからには、どうしてせっかちに先頭を切ろうと突進するのでしょうか。私達が毎回、踏み出す一歩は新しいものです。私達が時折、私達の将来にある満ち足りた生活を先立って見せてもらえることもありますが、もし私達が未来のみに全て着目していたとすれば、私達は間違いなく現在の美しさを見失い、イバラの小畑の中につまずいて、自分を救い出そうと、より手ひどい痛みに耐えることになるかも知れません。




【解説】
 本文はこれから私達は日常をどう過ごして行くべきかについて、その最も肝要なポイントを説いているように思います。即ち、私達の前方にはもちろん素晴らしい未来が待っているのですが、そこには直ちに到達できる訳ではありません。一歩一歩進んで行く必要があります。
 しかし、私達は目指す山の頂ばかりを見定めて登っているだけで良いのでしょうか。むしろ、毎日の一歩を楽しむ余裕、昨日と比較して良くなった視界を愛でるゆとりが必要であり、自然と美しさを謙虚に賛美し、その中に生きていることを感謝して過ごすべきです。
 先日、致知出版社のメルマガの中に60年以上現役を続けた将棋の加藤一二三さんのインタビュー記事が出ていました。その中で「人は神様から愛されているから存在する」「人は無から存在に呼び出された」という言葉が紹介されていました。「人生には様々な敗北や挫折があるが、神様から与えられた魂を失わない限り、絶望はない」とお話された中に、厳しい勝負の世界の毎日を乗り越えて得られた真理が良く表されていると思った次第です。創造主に見守られているという心境こそ大事なものはないのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落103

103  The thousands of scientific discoveries that have benefited humankind would be still in the realms of Cause if some few men had not had the faith to bridge the gap between the known and the unknown and had the courage to take the first step upon the bridge. The many things that we enjoy today may be laid to the credit of the few who were courageous enough to move forward into new realms of perception.
103 人類に恩恵をもたらした何千もの科学の発見は、もしわずかの人達が既知と未知との隙間に橋を掛けようとする信仰を持たず、その橋の上に第一歩を乗せる勇気を持たなかったとしたら、それらは依然として因の領域にあるままになっていたことでしょう。私達が今日享受している多くの物事は、新しい知覚の領域に進み出ようとする勇気を持った極少数の人達の貢献に帰すると言えるでしょう。




【解説】
 今日、私達の生活は様々に便利なものに溢れ、私達はそれらの成果の恩恵に浴していると言っても良いでしょう。航空機や高速鉄道、更には高速無線通信網その他医療の進歩等、枚挙にいとまがありません。
 しかし、このような技術も最初は各々の発案者がアイデアを導き、多くの後継者が改良を続けた結果、一般の人々も利用できるまでになったと言えるのです。本文ではこの時の最初の段階から各々のステップにおいて、まさに無から有を生み出す役割を担った人達の功績と、実行力、更にはそれを支えた信念や勇気について説いていると言えるでしょう。
 何事も一歩踏み出す際には、そのアイデアを信じる勇気、受けた印象への信頼が必要なのです。私達の毎日の生活もその心境を応用しなければなりません。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落102

102  What would this country be today if the pioneers who set sail from lands across the sea had lost faith and courage and spent their days merely dreaming of the new land while their ships remained anchored in the ports of the old world?
102 もし大西洋を横断した大陸から帆を上げた先人達が、信仰と勇気を失い旧世界の港に錨を降ろしたまま、単に新大陸のことを夢見て彼らの時を過ごしていたとすれば、この国(訳注:米国)は今日どうなっていたことでしょう。



【解説】
 何事も行動・実践しなければ成果は得られるものではありません。しかし、長年の習慣の中に生きる私達にとって、未知なる新しい世界に一歩を踏み出すには大いなる勇気が必要なのです。
 それ故、師は弟子がその一歩を進む時、我が事のように喜び祝福するのです。ましてや放蕩息子の例のように父なる創造主から見れば再び父の元に帰ろうと決心し行動したことはこの上ない喜びであるのです。
 同様な意味で、国内外の仏像も、私達が再び宇宙普遍の理の下に自らの生き方を改めようと発願し、行動する姿に対しては、大変暖かく見守っているように思うものです。また更に言えば、最も喜ぶのは各自の中にいる意識・宇宙に繋がる生命活力ではないでしょうか。長年の苦節を経て、今日ふたたび父の下に戻る一歩をしるしたことは、身体全ての細胞に再び生き返らせるほどの歓喜を与えることになるのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落101

101  It takes courage and faith to walk the road of progress; the doubter will remain forever in the same old rut. He may turn his vision towards greater knowledge but it will remain forever a dream of mystery unless he releases himself from the spot upon which he stands and takes one step forward.
101 進歩の道を歩むには勇気と信仰を必要とします。疑う者は永久にその同じ古いわだちの中に留まります。その者はより大いなる知識の方向に自分の視野を向けるかも知れませんが、自分が立つその場所から自身を解放し、一歩を前に踏み出さない限りは、永遠に夢の中に留まることでしょう。




【解説】
 前項で毎日の一歩からというお話をしましたが、実際に多くの事例では、その一歩も完全に前に進むのでなく、片足は昔の状況のまま留まっている例も多いものです。人間は自分自身を変えることが実に難しく、長年の生活習慣の延長を改めようとは思わないものです。
 しかし、他人の助言をいくら聞いても、実践ななければ単なる耳学問、知識に過ぎず、実体験を得ることは出来ません。その一方で氷上のフィギュアスケーターのように一瞬一瞬を行動していく中で、経験を積んで自らの体験を身体の細胞に覚え込ませることが出来る訳です。
 そしてこれらの記憶は忘れ去られることはなく、本人にとって永遠に保たれる体験になり、宝物になる筈です。長年月経過したとしても体験した事柄は長く記憶されるものです。そういう意味では何よりも一歩完全に踏み出し、その行動体験を積み重ねることが重要で、知識だけを蓄積することにはあまり価値はないものと思われます。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落100

100 In these days of restless activity and innumerable new discoveries, in the babble of uncounted creeds claiming space contacts and guidance, and in the uncertain whirl of diversified circumstances it is well to contemplate this bit of wisdom and stabilize oneself in the thought that action begins with one single step. That regardless of how far or how near the goal may be there can be only one step taken at a time. It is the first stride forward or backward that will carry a man in that direction. This is true of every act of our daily lives and is just as true in our start to live a unified life. It takes but one step at a time to lift us out of the rut of the old habits and start us on the highway of the new, but that step must be complete; we cannot put one foot forward and keep the other in the rut, for in such cases we will have made no progress. That is what many people are doing in their effort towards moving into the newness of cosmic life - trying to go forward into the vastness of Cause while clinging to the limited sense conceptions of traditional belief and opinions.
100 今日の落ち着きのない活動と無数の新しい発見の時代、宇宙人とのコンタクトや導きを得たと主張する無数の信条のたわごとや様々な状況下におけるはっきりしない渦の中にあっては、この知識の小片をじっくり考え、行動は一歩から始まるというその考えの中で自分を安定化することは良いことです。ゴールが如何に遠いか、あるいは近いかに係らず、一時に一歩しか進むことはできません。前進であれ後退であれ、その方向に人を運ぶのは最初のひとまたぎです。これは私達の日常生活のあらゆる行為についても言えることで、統合された生命を生きる上で私達がスタートする上でも同じことです。古い習慣のわだちから私達を引き上げ、新たな王道で私達をスタートさせる為に一時にただ一歩が必要なだけですが、その一歩は完全でなければなりません。私達は一方の足を前に、他方をわだちの中に置いたままにしておくことは出来ません。そのような場合、私達は進歩することはありません。それは多くの人達が宇宙的生活の新鮮さの中に移行しようと努力している中で行っていることでもあるのです。因の広大さの中に行こうとする一方で、伝統的な信念や意見という限定された感覚の概念にしがみついているのです。




【解説】
 本項に記されている、宇宙人とのコンタクトや今後訪れるとされる世界規模の災害等について、多くの予言や情報を訴える事例は、実は現在の方が本書が記された当時よりも格段に増えていると言えるでしょう。
 それほどに地球全体、社会全体の混乱の規模が広がっており、私達が行く末に不安を抱えているからに他なりません。しかし、自らの道は自らが築くことが必要であり、他人の言に左右されるべきではないでしょう。私達は何よりも宇宙的な存在に人生の舵を切らねばならないからです。その為には何よりも自らの歩みを新しい宇宙的な方向に進める必要があります。一歩ずつ、一日毎に自分が何を学んだかを整理する必要もあるという訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落099

9. THE HIGHWAY OF PROGRESS
099  The sages of the Orient left to posterity many words of wisdom that might well act as guide posts along the way of life. Among the Chinese proverbs is one statement to the effect that "a journey of many miles begins with one step."
第9章 進歩の王道
099 東洋の賢人達は子孫に人生を歩む中で、案内標識としてよく機能する多くの知恵の言葉を残しました。中国のことわざの中に「何マイルもの旅も一歩から始まる」(訳注:「千里の道も一歩から」)という意味の言葉があります。




【解説】
 私達の目の前には、遥かなる道が続いているのです。他惑星人社会のようなレベルに到達するには長い道程を歩む必要があるという訳です。
 しかし、著者は私達にその道程は遠すぎて到底及ぶものではないと諦めを諭すことはしていません。毎日の一歩がやがてその道を克服出来ると説いているのです。
 これについては一言、申し上げておきたいことがあります。即ち、実は一歩踏み出すと僅かですが、視界が広がり、自信も僅かですが身に付くものです。決して大きな進歩ではないのですが、山登りと同様、一歩一方が私達の視界を広げ、超えて来た後方を振り返る時、よくここまで登って来たと自分の進歩の歩みを感じることも出来る訳です。毎日の歩み、継続的な修練こそ、ゴールへの道ということになるのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第8章-段落098

098  Science has now proven that the so-called fifth sense should not be classed with the other four.
098 科学は今や、いわゆる第5番目の感覚は他の4感覚と同類に見なすべきではないことを証明しているのです。



【解説】
 以上述べられて来たように、私達は自分の持つ五感を同レベルに取り扱うのではなく、触覚については本来、より大きな役割、即ち私達自身を宇宙に繋げる大きな力を持っていることを自覚することが重要です。
 その上で、これら触覚的な要素を単なる触感から想念・印象を感受するようなより精妙な器官に高め、各自の生活の中に実践・応用して行くことです。それこそが私達をこれまでの他者を批判し、不安に苦しむ生活から、宇宙に感謝し創造主に日々感謝する奉仕の生活へと転換させることに繋がるのです。

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