2018年12月

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次回再会は年明け1月7日(月)になる見込みです。

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竹島 正

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落088

088  Thinking deeply about all this, I asked myself, "Suppose I had sight so great that I could see television pictures without the aid of a television set. Suppose my hearing was so keen I could hear the beautiful music traveling through space from station to station without using a mechanical device. Would not my sight and hearing be developed into the fourth dimension?" I then turned my attention to the senses of taste and smell. Suppose I were able to taste the apple before it matured; or detect the fragrance of the flower before it blossomed; would I not have the senses of a superhuman.
088 これら全てのことを深く考えた後、私は以下の事柄を自分に問いかけました。「テレビの助けを借りずにテレビ映像を見ることが出来る程の大いなる視覚を持っていたとしたら。」「私の聴覚があまりに鋭敏なので機械装置を用いることなく放送局から放送局の間の空間を伝わる美しい音楽を聞くことが出来たとしたら。私の視覚や聴覚は四次元の中にまで発達出来ないであろうか?」次いで、私は自分の注意を味覚と嗅覚に転じました。私がりんごが未だ熟する前にそのリンゴの味を味わうことが出来たとしたら、或いは花が咲く前にその花の香りを嗅ぐことが出来たとしたら、私は超人の感覚を持つことになりはしないかと。




【解説】
 私達が想念・印象に親しくなり、それらへの共鳴が進むにつれて、私達の既存の四感覚も次第に進化を遂げ、感覚自体でもそれらの情報を解釈できるようになるということでしょう。
 多くの能力者が未来を予言したり、芸術家がインスピレーションを得て、作品が生まれるのも実際にはこうした既存の感覚の進化と関連しているように思われます。
 言葉や文字にならない想念・印象レベルの情報から、具体的なイメージを得る為にも私達の既存の四感覚自体を訓練し、大きな役割を果たすことが出来る訳です。このことから分かるように、私達の既存の四感覚は絶えず監視し、訓練を必要とする一方で、その精進の先には、大いなる成果が待っているということでしょう。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落087

087 To use the violin as an example: we all know the four strings of a violin must be tuned with delicate precision before the musician is able to bring forth the subtile harmonies that this instrument is capable of producing. The pitch of each string must harmonize perfectly with the other three. The four senses of man may be compared with the four strings of the violin; for he must attune these senses to work together as a unit in order to fulfill his true purpose in life. And, just as the violin can be used to play baser music, yet it can, under a master's hand, produce melodies to thrill the souls of men so the sense perceptions, turning from effect to Cosmic Cause, will extricate themselves from the mire of self-delusion. They will in this way break old thought-patterns and habits which express automatically through the senses. Carnal mind, being innately lazy, accepts the opinions our senses have formed through their contacts and experiences, never bothering to search for the true Cause behind all effect.
087 例としてバイオリンを用いることを考えましょう。私達は皆、バイオリンの4弦は演奏家がこの楽器が創りだせる精妙なハーモニーを生み出す為には事前に細心の精度で調律されなければならないことを知っています。各々の弦の調律は他の3弦と完全に調和されていなければなりません。人間の4つの感覚はバイオリンの4弦になぞらえるでしょう。何故なら人は人生における自分の真の目的を成就する為にはこれら感覚を一体となって共に働くよう調律しなければならないからです。そして、バイオリンが低レベルな音楽に用いられることができると同様に、巨匠の手の元では人の魂を震わせる程のメロディーを作り出すように、感覚の知覚が結果から宇宙の因に転向すれば、諸感覚は自己欺まんの泥沼から自身を解放することでしょう。諸感覚はこのようにして感覚を通じて自動的に表わして来た古い想念パターンや習慣を打ち壊すことでしょう。生まれながらに怠惰である肉欲の心は、全ての結果の背後にある真の因を求めようと煩わされることなく、自分の感覚が接触したり経験したりしたことを通じて各感覚が作り上げた意見を受け入れるのです。



【解説】
 演奏者の身体と一体となって演奏される四弦のバイオリンは、古くから最も人体に近い楽器とされて来ました。そのバイオリンと人体の相関性について本項は解説すると共に、これら各弦を調律すること、宇宙の因に同期することが如何に大切かを述べています。
 基本的に音楽は心の中に湧き起こる想念・印象をその波動的感情を音階として表現するものと理解していますが、その奏でられる音源を生じさせるのは、各弦であり、それらは本来の波動を再現しなければ曲を再現することは出来ません。各自、自らに与えられ託された役割を果たすことが求められている訳です。
 またこれら四弦で生じた音も、それだけでは小さい音量でしかありません。バイオリン本体の共鳴構造が多くの人にまで届く音量を発揮する訳で、共鳴、即ち共感することが大きな力を生み出す増幅効果を発揮しているのです。私達も自ら得た印象に共鳴、共感することで、それらの効果を広げる役割を果たすことが出来るのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落086

086 When I realized this, I began to school myself by utilizing the law of patience. Even though at first my senses did not understand this law, I knew through discipline they would eventually obey. And by the very fact of acknowledging that they were subject to a higher law, they would in time understand the purpose behind each act; the Cause, (or Creator) behind effect. Therefore, my first step must be to coordinate my sense reactions to a unity with, and understanding of - Cause.
086 私はこのことを悟った時、私は自分を忍耐の法則を使って訓練し始めました。最初は私の感覚達はこの法則を理解しませんでしたが、私には鍛練によってそれらは遂には従うようになることが分かっていました。そしてそれらがより高次な法則に従うべきことを自覚した事実によって、それらはやがて各々の行為の背後にある目的や結果の背後にある因、(創造主)を理解するようになるのです。ですから、私の最初のステップは私の持つ感覚の反応を、因との一体と因の理解に向けて調和の取れたものにしなければなりません。




【解説】
 究極の贅沢とも言える”美食”ですが、それも口から喉で飲み込むまでの話です。高品位の味わい(味覚)、見た目の美しさ(視覚)、香り(嗅覚)、それに食卓に流れる優雅な調べ(聴覚)等々、この上ないひと時も、食物が飲み込まれた後の行く末について、これら四感覚が知るところではありません。
 しかし、どんなに上質な食物でも、その後の体内の処理が不適切であれば、やがては不快な身体状況になりますし、場合によっては生存そのものも保てなくなるのです。私達がこうして食事を楽しんだ後、正常に消化分解され、必要な栄養素が体内に行き渡る一方、不要となった老廃物である便を翌日には排出するまでの一連の働きが体内で規則正しく行われることで私達の日常は成り立っている訳です。
 これらは私達の四感覚とは別のグループの働きであり、より高次な細胞達の働きなのです。私達はこれら高次な生命活動こそが私達の指導者であり、大事にしなければなりません。よく言う”ご自愛下さい”という表現は、各自これら上位の存在を尊び、愛せよと言うことを言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落085

085 Thus, if we're to become a peaceful unit within ourselves, we must constantly guard against these wayward senses, and subdue their criticism and prejudices; for these are the greatest causes of divisions in the family of human relations. Our personal judgments divide brother against brother - nation against nation.
085 ですから、もし私達が私達自身の内側で平和的な単位となるのであれば、私達はこれらわがままな諸感覚に対して常に監視していなければなりませんし、それらの発する批判や偏見を抑制しなければなりません。何故なら、これらは人間社会に分断をもたらす最大の原因となるからです。私達の個人的な裁きは兄弟に対して兄弟を、国家に対して国家を分断させるからです。




【解説】
 "敵は汝自身"という表現がありますが、各自、自分自身を常に監視し、問題を起こさないよう努めることは賢明だということです。そしてその実態は、本項に著者が記しているように、視覚から嗅覚までの四感を監視してより良い方向に統制することなのです。
 私達は長年、これら四感覚の奴隷であり、それらの争いや横暴に支配されて来ましたが、これからはこれら感覚の限界を知り、その度量の狭さを自覚する必要があります。彼ら羽所詮、目に見える物質しか感じておらず、より精妙な生命の息吹を感じ取れません。
 進化する私達には、これら四感覚の機能に加えて、これからはより高次なコミュニケーションツールを持つべきなのです。私達が本格的に自らの進路の指針と成すべきは、自身を絶えず通過している想念・印象、いわば想念波とすべきです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落084

084 It is these four avenues that make up the mind of man today. They are the jailers holding him to the realm of the effective world; and until he can loosen their shackles by conquering them through self-control, man will remain a slave unto their whims. It is through our senses that we pass judgment on conditions, persons, nations; not understanding the oneness of all with Cosmic Cause.
084 今日の人間の心を作り上げているのはこれら四つの大通りです。それらは人間を結果の世界の領域に閉じ込めている看守であり、人が自制によってそれらを克服し、彼らの足かせを緩めるまでは、人は彼らの気まぐれの奴隷のままでい続けることでしょう。宇宙の因とともに全てとの一体を理解することなく、状況や人物、国家に対して裁きを下しているのは私達の感覚を通じてなのです。




【解説】
 よく考えればこれら四感覚は私達の行動を支配している一方、私達の生命の発露、即ち生存にとっては他の臓器とは異なり、あまり大きな役割を果たしていないことに気付きます。つまり、これら四感覚が失われても、その後の生命活動に致命的な影響は与えられないという程度のものなのです。
 そういう意味でも私達はこれら既存の感覚による束縛を離れて、より直接的に生命活動を観察し、フィーリングを介して真相を究明する必要があります。想念・印象への感性を鋭敏にして、より深遠な真理を学ぶことが必要です。
 日常の多くの時間がこれら四感覚の好みや拒絶の間で費やされている実態から離れて、より広くより本質に近づいた観察眼を持ちたいものです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落083

083 Now do you see why I say the senses war with one another? how uncoordinated they are and how they pass judgment on each other?
083 もう貴方は何故私が感覚達が互いに戦い、またそれらが如何に協調性に欠け、互いに裁きを下し合っていると言うのか、お分かりになるでしょう。



【解説】
 もちろん実際の私達の毎日はもっと複雑で本項で述べられているような単純な感覚の反応のみで生きている訳ではありません。しかし、繰り返し著者が述べている感覚同士の争いについてはどのように考えるべきでしょうか。実はそれ程に私達にとって自分の感覚の反応志向の把握と統制が重要であることを著者は訴えているのです。
 大変単純そうに見えますが、それが私達地球人の実態だということでしょう。それの解消に向かって私達は自分自身の統制を進めなければなりませんし、その第一歩が四感覚を互いに融和させ、尊重させることだという訳です。
 もし、これらの現状を自覚・認識出来れば私達は次のステップに移行することが出来るかも知れません。それ程、自己を統制することは大きな訓練であるのです。またその後にあらゆるインスピレーションが拓け、拡がるフィーリングの世界はこれまで以上に輝く美しい世界を私達に見せて呉れることでしょう。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落082

082 これと同じ論争は他の2つの感覚の関係においても存在します。舌はある珍しいチーズの美味しい風味を味わうかも知れませんが、多くの場合、鼻はそれに伴う香りに憤慨し、その美味を賞味する歓びを妨げます。ですから互いの関係において四つの感覚は他に対して常に言い争い、反駁し、自律性を得ようとしていることはとても明らかなのです。
082 This same dissention exists in the relationship of the other two senses. The palate may savor the delicious flavor of certain rare cheeses; but in many cases, the nose is so outraged by the accompanying aroma that it interferes with the enjoyment of eating the delicacy. So it is very apparent that in their dealings with each other, the four senses are constantly bickering, contradicting, and trying to gain autonomy over the others.



【解説】
 今、先日知人から薦められた中国古典思想の一つ「荘子」を読んでいますが、その描く世界観はアダムスキー哲学のそれと親近感があり、興味深いものとなっています。結局、真理は一つである以上、真理を感じ取った者は皆、同様な心境になるものと思われます。
 しかし、ここで本講座のアダムスキー哲学が他と異なる点は、私達の心の実態を視覚から嗅覚までの四つの感覚との関係として捉えている点です。私達の素顔をこの四感覚との関連で延べている所が他と大きく異なる訳で、その極めて実際的な内容は他惑星社会から伝えられたことである筈です。
 問題を抽象化して分かり難くするのではなく、身近な現象との関係で説き起こされている点において、古今東西の哲学に比較してアダムスキー哲学がより実践的なものとなっているのです。
 私達は通常、四感覚に如何に拘束され、支配されているかを知り、本来の自主性を取り戻すことが必要ですし、それらの感覚とは別にフィーリングの感性を高めることが重要です。期せずして同様な状況を象徴するような絵柄として、Windows10の初期画面があります。暗い部屋に四つの窓から光が差していますが、これからの私達はこれら四つの窓からの限られた光に加えて、インスピレーションというもっと明るい光で自分の部屋を照らし、明るく生活する必要があるのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落081

081 Actually, both are right. The eyes did see the man, and the ears did hear the footsteps. If they had been properly coordinated or synchronized, the eyes would have told the ears what they saw, and in place of a flat contradiction, the ears would have accredited the report. When the ears heard the sound but the eyes did not see the man, the eyes, after scanning the hall carefully, would have admitted it was something they did not understand; yet have accepted the information given by the ears. In other words, instead of arrogantly accusing the other of telling an untruth, each would have conceded that they could have been mistaken.
081 実際には両者とも正しいのです。目はその男を見たのですし、耳はその足跡を聞きました。もし両者が適切に連携、或いは同調していたら、目は耳に対して自分達が見たものを伝えたでしょうし、単純な否認の代わりに耳はその報告を信頼に足ると評価したことでしょう。耳がその音を聞き、目がその男を見なかった場合でも、目はホールを注意深く見渡してそれが自分達が理解出来ない何かであることを認め、耳から伝えられた情報を受け入れたことでしょう。言い換えれば、他を嘘を言っていると横柄に非難する代わりに、各々は自分達が誤っているかも知れないことを認めるようになることです。




【解説】
 本項をはじめとする一連の例示に関して、著者アダムスキー氏は何故、かくも大きな紙面を割いて各感覚の間の言い争いを述べたのかについて、私達は再度考えることも必要でしょう。実は私達の感覚の統制こそテレパシー訓練の第一歩であるからです。
 私達は実際の他惑星人の姿について良く知るところではありません。唯一の知識は同乗記の一連の記述にあるだけです。しかし、その他惑星人の内側については、彼ら自身、あるいは他文明からの指導によって進化を遂げて来た結果、日常的にテレパシーによる交流が為されていることは間違いありません。
 その他惑星人達がおそらく最初に取り組んだ課題は自らの感覚の統制、融合であったということでしょう。それ程に視覚から嗅覚までの感覚を互いに融和させ、フィーリングに対して検挙に受け入れる態勢づくりは重要であり、如何にして感覚を謙虚なものにして行くかが大事なのです。そういう意味で、各自、自らの四感覚の驕りを排除し、想念・印象に従う態勢づくりが必要となるのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落080

080 We will now reverse the procedure, and by remote control produce the sound of walking down the aisle. This time the eyes will accuse the ears of conjuring up an imaginary situation. Again, the argument will rage between the senses, each one sure it is right.
080 今度は手順を逆にして、遠隔制御を用いて通路を歩く際の音を出して見ましょう。今度は目が耳に対して魔法を使って想像上の状況を作り出したと非難することでしょう。再び感覚の間で各々自分が正しいと確信して議論が荒れ狂うのです。



【解説】
 この事例の場合、視覚と聴覚各々が如何に自己主張し、主人である本人を支配しようとしているかを示すものとなっています。これら異なる意見に対しどのように対処すべきかという点も重要な所です。
 その問題に対して先ずは各感覚の反応は各々良しとする一方、互いに争う点を改める必要があるように思います。即ち異なる意見は受け取りながらも私達はそれら感覚の反応とは別に、想念・印象に重きを置くべきで、先ずは各感覚が自己主張しないように制御することが必要です。
 一般的に何かを断定してしまうとそれ以降の探求の進展は停止してしまいますし、変化する時代の中でそもそも一時的な状況を捉えて決め付けることは誤りである訳です。これについては仏陀がよく弟子達に説いていたように思います。即ち、万物は流転し、無常であるという点です。
 私達が感覚を与えられたのは、自らの生活を守るため、危険を回避する為であり、本来は最低限度の働きに留め、それ以上の事柄は想念・印象を拠り所とした方が良いのだと思われます。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落079

079 The eyes see the man, but the ears hear no sound; therefore, the sense of hearing accuses the sense of sight of giving false information. The man is there, however, but due to their lack of respect for one another, neither the eyes nor the ears will concede that they could be mistaken; so the argument between them cannot be satisfactorily settled.
079 両目はその男を見ているのですが、両耳には音が聞こえず、その為、聴覚は視覚に対し嘘の情報を出していると非難しています。しかし、男はそこに居ますし、感覚同士、互いの尊重が欠けている故に、目も耳も自分達が間違っているかも知れないということを認めようとはせず、その為、彼らの間の議論は満足の行く解決ができないのです。



【解説】
 各々の感覚の中で意見が異なる場合、本人は方針が定まらず行動を停止してしまいます。どうしたら良いか判断出来ない為です。イエスはこれを"二心"という表現をしたのではないでしょうか。突き詰めれば各自の内部における意見対立です。仏教で言う"迷い"も類似した表現ではないでしょうか。
 問題はどうしたら、これら感覚の意見対立を鎮め、互いの意見を尊重しながら、より高い位置から妥当な方向に進めることが出来るかです。それには先ずはこのような問題があることに気付き、異なる感覚の意見を調和させることですが、それには普段から感覚を訓練し、それ自身の裁きを抑制し、それら感覚の反応よりは、印象・想念を頼りとするよう訓練することが重要です。
 人間の一生は意外に短く、心底学ぶ内容も多くないことに気付き、早くこれら基本的な問題を一人一人が理解し、少しでも問題解決に向けて努力することが必要です。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落078

078 Here are a few examples of how the senses disagree. First, let us use this fanciful situation. In a hall seating a thousand people, imagine we have sensitized the floor to the degree where an insect falling upon it would register a sound loud enough to be heard by all; and to implant this information strongly in the minds of those present, we have conducted a number of experiments demonstrating the sensitivity of the floor. So if, by the trick of using heavily padded soles, we have a man walk down the aisle without producing the sound of accompanying footsteps, the following imaginary conversation might take place between our eyes and ears.
    Eyes: "I see a man walking down the aisle."
    Ears: "Impossible! I hear no sound."
    Eyes: "But I tell You he is there. He's about half way down."
    Ears: "It's your imagination. We both know how sensitive this floor is. I'd hear anyone walking down the aisle."
078 ここで各感覚が如何に互いに意見が合わないかを示す若干の例を挙げましょう。この空想上の状況を採用しましょう。千人の人々が着席しているホールの中で、一匹の虫がその上に落ちても全員に聞こえるようなだけの大きな音が記録されるような位に床の感度を高めたとして、その情報を強くそれらの人々に植え付ける為に、私達はその床の感度を実証する数多くの実験を行って来ました。そこでもし、靴底に厚い当て物をするというトリックを使って、一人の男に足取りに伴って発生する音を出すことなく、通路を歩かせたとすると、私達の目と耳の間で以下の想像上の会話がなされるかも知れません。
 目:「通路を歩く一人の男が見える。」
 耳:「有り得ない! 全く音がしていない。」
 目:「しかし、言って置くが、その男はそこにいる。もう半分の所まで来ている。」
 耳:「それはあなたの想像だ。私達二人共、如何にこの床の感度が高いか知っている。もし誰かがその通路を歩けば聞こえる筈だ。」




【解説】
 本題とは少し離れてしまいますが、現代、私達の抱える大きな問題の一つにバーチャル(仮想世界)の問題があると考えております。擬似体験と言ってしまえば済む段階から、社会の隅々にまで浸透し現実と仮想の一体化が進んでいるように思われます。
 特に問題だと思うのは、手に持つ小型のゲーム機で殺人や戦争ゲームに打ち込む若者が多いことです。これらはゲームの中で視覚・聴覚の上ではゲーム当事者は実際と同様な体験を得ることとなり、何人もの相手を倒し、破壊することで快感を得るという代物です。結局はゲームの世界に浸ることで自らも同様の体験を積むことになるのです。
 これら体験はやがて本人の肉体細胞に記憶され、少しずつ人格を蝕むことになるのです。仮想ゲームの中での経験も現実世界の中にやがては影響を及ぼすことは避けられません。
 こうした悪質なゲームによって青少年の精神性がどんどん蝕まれていることを危惧しています。当然、そうしたゲームによって彼らの精神性が粗雑で荒れたものになることは間違いないのです。こうしたゲーム産業は各感覚を融和・協調的なものとしたい私達とは真っ向から対立する勢力と言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落077

077 As I studied carefully the actions of these four senses, I realized that each one stands alone, contradicting and fighting with the others. Since each sense has a will of its own, it can, and does oppose the other three; and in so doing, it opposes the Cosmic Will. This condition will continue in man until he becomes a unified being; understanding himself in all his component parts.
077 私がこれら四つの感覚の行動を注意深く調べた結果、私はそれらが各々孤立しており、互いに反論し、言い争っていることがよく分かりました。感覚は各々自分の意思を持っておりますので、それは他の三つに対して反論できますし、そうしているのです。また、そうすることで、宇宙の意志に対抗しているのです。この状態は人が自分を構成する様々な部分の全ての中において自分自身を理解する一体となった存在にならない限り、続くことになるでしょう。




【解説】
 "汝裁くな"とはイエスの言葉ですが、その真意は私達各人が各々自分の既存の四感覚の好き嫌いで世の中の物事を差別し、断定していることを戒めていたのです。私達の抱える問題の根幹はこの点に根ざしている訳で、日常的に自分の刻々の判断が何に由来しているかを観察し、問題を是正することが必要です。
 そしてその為には何事をも受け入れる寛容さ、誠実さ、即ち信頼という姿勢が大事であると考えています。他人を疑うことのない幼子の素直さをベースに私達自身を再構築する必要がある訳で、その為には各感覚から順次、教育訓練して行く必要があるのです。
 もちろん欺瞞と虚飾がはびこる実社会の中でこれを実践するのは容易ではありませんが、自身の実践を通じて少しでも他者に良い影響を及ぼすことが出来れば、それこそ他惑星人が私達にこの真理を伝えた目的に沿うことになるのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落076

076 Let me explain it in this way. The mind of the average human we encounter today expresses only the opinions gathered from the reactions of his four senses. Therefore, his so-called intelligence is hampered by his likes, dislikes, and autocratic judgment of all that he does not understand. He should not be condemned too harshly for this. It has been the accepted attitude for ages. We have allowed our four senses to be the domineering rulers, quarreling and dissenting amongst themselves; totally unaware of the Creative Force which brought them into being.
076 このように説明しましょう。今日私達が出会う平均的な人の心は只、その人の四つの感覚の反応から集められた意見だけを表現しているということです。その為、その人のいわゆる知性はその人の好き嫌いや、自分が理解しない物事すべての専制的な裁きによって妨げられています。しかし、人はこのことについてあまりに厳しく非難されるべきではありません。それが長年にわたって受け入れられて来た態度であるからです。私達は私達の四つの感覚が威張り散らす支配者達であることを許して来たのであり、それらは言い争い互いに異議を唱えながら、それらを産み落とした創造力に全く気付いていないからです。




【解説】
 私達の日常の実体はどのようなものかについて、本項は詳しくその内容を明かしています。実際のところ、私達は自身の四感覚がそれぞれ「好き嫌い」、「好ましいもの、好ましくないもの」という裁きの下で、出会う相手を差別しているというのです。
 出会った対象の背景や価値を知ろうとする代わりに、感覚の反応だけで済ませているというのです。果たして実際はどうでしょうか。思い当たる部分も多いのではないでしょうか。実はこのことで、それ以上の探求や観察が為されない為に本来、学べる内容まで入り込まずに終ってしまう等、大変残念な結果になることも多いものです。
 これらの長年の習慣を打破して、物事の本質を見極めようとする誠実な心に私達自身を持って行くことが必要で、先ずは出会う相手を先ずは尊重することから始めるべきなのです。視覚から嗅覚までの感覚の反応こそ、注意深く戒めることが肝要です。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落075

075 Once I understood this, I knew that this force, born of Cosmic Intelligence, is the foundation of all life. Nothing need be added; all is present. But I, as a physical man, must recognize and begin to use this all-inclusive power. At this point, I took a closer look at my mind. To my surprise, I found it badly equipped and behaving like a tyrant ! I saw it was merely the spokesman for the sense reactions; not the Knower of Cause.
075 一度このことを理解するや、私には宇宙的英知から生まれたこの力が全ての生命の土台であることが分かりました。何も加えられる必要がなく、全てがそこに在るのです。しかし、肉体の人間としての私はこの全てを包括する力を認識し、応用し始めなければならないのです。この時点で、私は自らの心を注意深く見詰めました。その結果、驚いたことに、私は心がひどく身構えて暴君のように振る舞っていることに気付いたのです。私にはそれが因を知るものの代弁者ではなく、感覚反応の代弁者となっているに過ぎないことが分かりました。




【解説】
 本来、宇宙に続く英知の持ち主である筈の私達ですが、その日常の姿は大変惨めで問題を抱えているのが私達地球人の実態です。この状態は太古から、そしてイエスや仏陀の時代から今日まで地球人を苦しめて来たということでしょう。その全ての原因が私達の心にあるのです。
 そうした問題点について仏陀や各自、修行訓練によって覚醒せよと指導して来ましたが、ある意味現在でも寺の修行僧は日々の学習訓練によって自らの心の動きを観察し、やがてそれを本来の位置、即ち高次な想念・印象に従う下座に置くよう努力しているものと思われます。
 これらの修行は各自が実践しない限り、各自に成果は得られない訳で、各自与えられた環境条件の下で自分なりの工夫をして、日々精進し自らの心を本来の素直で謙虚な状態にして、身体が有する本来の英知の発現を促す必要があるのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落074

074  In man we find the same condition existing . . . four phases of action, or manifestation, aided and supported by the inexplicable force that causes impulse, or action, within them. It is therefore obvious that feeling is no more a physical sense, than is the activating force in nature one of the four elements.
074 人間においても同じ状況が存在することに気付きます。その内部に衝動や行動を引き起こす説明出来ない力によって助けられ、支えられた四つの行動、創造の側面の存在です。ですから、フィーリングは肉体の感覚ではなく、四つの要素における自然界の活性化力であることは明らかです。




【解説】
 シンクロニシティー(同期性)という言葉がありますが、本項によれば私達の行動にも、前述の4要素に類似して4つの側面があるとしています。不十分ながら私の理解では、著者は視覚から嗅覚までの要素を示唆しているものと目下は解釈していますが、その全ての側面に対して、その衝動を生じる力が作用して下支えしているという所が大切な点です。
 全ての世界、私達自身の外側もまた私達自身の内側も同じ衝動を生じさせる力、原子に内在している知性が全てを支えているという訳です。
 そしてその衝動を受け入れ、それらの知性と交流できるのがフィーリングという経路であるのです。即ち、フィーリングを通じて私達は私達自身も含め、全てのものを理解することが出来る経路を得ることになるのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落073

073 We know all things in the manifested world are based upon four elements; earth, water, fire and air. From combinations of these four elements are brought forth the innumerable variations of form. But within each atom comprising these elements, is a force which is indestructible and inexplicable. It is a definite, yet elusive something, that evades the best efforts of the research workers; and even the most sincere cannot define its character or its source. It is this activating force which gives impetus to creation.
073 私達は創造された世界の中の万物は四つの要素に基づいていることを知っています。土、水、火そして空気です。これら四つの要素の組み合わせから無数の形有るものの変化がもたらされました。しかし、これらの要素を構成している個々の原子の内部には破壊されることのない、また説明できない、ある一つの力があるのです。それは確固としたものですが、どこか捕らえ所のないもので、研究者達の最高の努力もくぐり抜けてしまいます。また最も誠実な者もその特徴やその源泉を定義することは出来ません。創造作用に刺激を与えるのはこの活性化力なのです。



【解説】
 古来、ゾロアストロの時代から、私達は万物を土(固体)と水(液体)、火(プラズマ)そして空気(気体)と分類して来ました。しかし実際には、それぞれの原子の中に知性があり、それらが万物を造り出す英知の源であると本項は宣言しているのです。
 極小微細な原子の中に私達が求める英知の実体があるということは、私達自身の身体そのものが大宇宙にも似た莫大な数の知的構成物から成り立っていることになり、前項072で述べられていた"私達自身が宇宙"という表現に繋がるのです。
 これら原子の声を聞く訓練にはまだ先の長い私達ですが、このことから少なくても原子核分裂や核融合等、人間が勝手に原子を崩壊させるような行為は、反宇宙的であることが分かります。今日、私達が行っている原子力の利用はこのことからも誤った用い方の典型であり、他惑星人が警告する由縁であることが分かります。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落072

072 Man is a miniature universe; so let us analyze him in that light.
072 人間は小型宇宙ですので、その観点から人間を分析して見ましょう。



【解説】
 今となっては大昔の映画に「ミクロの決死隊」というものがありました。人体の中に細胞レベルに縮小した人達が入って行き、人体の様々な機能を探究するというストーリーであったかろ思います。
 人体には60兆個もの細胞があり、それらが有機的に連携し、全体としての人体を維持している訳ですから、生きているだけでも奇跡的な状況だと考えることが出来ます。
 もちろん病気になれば、体内では様々な反応があり、様々な細胞達がその修復を目指して働いている訳ですし、そのお蔭で私達は長年月生き続けていられるということでしょう。
 これらの事柄は人間誰でもが日常的に享受している訳ですから、私達は自分自身のそれらの働きに驚き、感謝しなければなりません。何よりもこれら無数の微細なユニットはひたすらあなた自身の為に日々働いている訳です。
 こうした何らかの目的の為に献身的に働こうとする活動は、宇宙的なものであり、宇宙の各生物に共通するものでしょう。私達はこうした他への奉仕活動というものの中に生きている訳で、それが幾重にも重なった中に大宇宙が存在することを学んで行く必要があるのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落071

071 These unfortunate individuals, rather than being envied, should be pitied. For the little sentinels who stand guard constantly throughout the body to flash warnings to the brain - nature's switchboard - of any unusual condition, are our staunch friends. Let us say we run a splinter in our hand. These sentinels, or nerves, immediately set up a clamor, informing the brain that a foreign substance is exerting pressure upon the surrounding tissue. We then relieve the pressure by removing the splinter and the wound will heal. But if the brain had not received this information because the nerves were not functioning properly, we would have been unaware of the splinter until the body, in trying to expel it, had caused the area to fester. But it is a physical condition; and lack of this nerve feeling has no more to do with a person's telepathic receptivity than the color of his eyes.
071 これら不遇な人達はうらやましがられるよりは、哀れまれるべきです。何故なら、どのような異常時であれ、自然界の交換機のように脳に警報を発するべく、体中を常に警備に立っているその小さな歩哨達は私達の信頼する友人達であるからです。私達が手に棘を刺したとしましょう。これらの歩哨達、神経はすぐさま大声を発し、脳に異物が周囲の細胞組織に圧力を加えていることを伝達します。私達は次にその棘を取り除き、その傷はやがて癒えます。しかし、脳が神経が適切に機能していなかった為にその情報を受け取らなかった場合には、私達は肉体がそれを追い出そうとしてその部分を化膿させようとするまでは、その棘に気付かなかったことでしょう。しかし、それは肉体の状態であり、この神経によるフィーリングの欠如は両目の色以上に各自のテレパシー感受力に関係するものではありません。




【解説】
 とかくフィーリングと言う場合、文字通りの"触覚"と受け取られるケースが多いのですが、本講座で重要だとしているフィーリングは想念・印象の感受機構であり、単なる肉体の触感反応とは異なるものです。
 私達はこのフィーリング機能こそが既存の四感覚をも下支えしている一方で、想念・印象レベルの感受、感応に大きな役割を果たしていることを、もっと学ぶ必要があります。
 通常、それらの想念・印象は静水面の上を通り過ぎるわずかの風のように水面上はほんの少しの波立ちしか起こしませんが、その絶妙な水面の動きを知覚して、心に湧き起こるアイデアを把握する努力が必要なのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落070

070 Not in the least. This is a purely physical condition caused by the malfunctioning of the nervous system; and has no more bearing upon the operation of the Life Force, or true feeling, than if the individual is born without a finger. The senses of sight, hearing, taste and smell, work normally in these people. The degree to which anyone registers pain is dependent upon the nervous system; the more sensitive the system, the more intense the pain felt.
070 全然そのようなことはありません。これは神経系統の機能不全によって引き起こされた純粋な肉体の状況であり、個人が指1本欠けて生まれたとしても生命力、即ち真実のフィーリングの作用には何ら問題が無いのと同様です。視覚や聴覚、味覚や嗅覚はこれらの人々の中で正常に働いています。人が痛みを表わす程度は神経系統に依存しています。その系統が高感度であればある程、その痛みは強烈に感じるのです。




【解説】
 既に説明されているように、触感は神経反応であり、それ以上のものではない訳で、私達がテレパシー開発で重要視しているフィーリングとは次元が異なる程の相違があるということでしょう。本来のフィーリングは私達の各肉体細胞が有する想念・印象の知覚作用であるからです。
 改めてこのフィーリングを考える時、それらが伝達する内容は言葉で表現するのが難しい、或いは言葉以前の想念のような事柄であることが多いように思われます。未だ、心の中で具体的に表現されていない段階のバクとした想念・印象であることが多いのかも知れません。
 その段階の想念・印象を感受できれば、世に初めての発明なり、発見という貴重な体験を得ることになる訳で、私達のテレパシー訓練のあり方の一つともなります。先ずは私達自身のフィーリング能力とはどの程度なのかについて、向き合う必要もあるのです。

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