2016年02月

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第11章-段落122

122 The second birth does not necessitate the death of any form of consciousness nor the death of the body; it necessitates only the uniting of the two phases of consciousness into the awareness of oneness. The second birth produces unlimited awareness, uniting heaven and earth. The sense consciousness and the all inclusive consciousness become equally balanced and man begins to learn about the Cosmos.
122 第二の誕生は意識の如何なる形式の死も、肉体の死も必要とするものではありません。それは唯一、意識の2つの側面を一体性の自覚の中に統合することだけを必要とします。第二の誕生は無限の気付きを作り出し、天と地とを一つに結び付けます。感覚の意識と全てを包含する意識は互いに等しくバランスし、人は宇宙を学び始めるのです。



【解説】
 これまで私達の実体、即ちこの肉体を除いてもなお残る魂のような存在について、段落(026)や(027)等で説かれた”意識”であることを改めて確認しています。この第二の誕生とは自らの中の実体であるこの意識の2つの側面を融合させることだと説いているのです。
 実は”誕生”と言うからには”死”が前提にあるように思われますが、本文では如何なる”死”も不要だと説いています。つまりよく”自我を捨てれば”と言われますが、その自我を殺す必要はなく、因と統合されることで、一大変化が起こるとしている訳です。
 私達の肉体を操作することを主題とする自我や感覚に起因する意識の部分と、因の世界に繋がる静寂、広大な宇宙意識とを融合することを目指せと説いているのです。そうする中で私達には新しい展開が拓かれ、本来の進化の道を歩む道筋が示されることになります。映画「2001年宇宙の旅」の最後に、主人公の魂が胎児のイメージで地球に帰って来る場面がありますが、それはこの第二の誕生をイメージしているように思うのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第11章-段落121

121 The Master said, "No man ascendeth up to heaven except he that came down from heaven, even the Son of Man which is in heaven."(John 3:13) Meaning that the second birth is the conscious return into the original Cause state out of which all things proceed into the world of form. Man has descended from Cosmic Cause and he has the privilege to return again to that impersonal state of conscious awareness of Cosmic Cause. When he was born into the world of form he became lost in the appearances of matter and no longer understood the vast Cosmos. He has given himself over to the dictation of the senses and his mind is slow to accept the guidance of the soul. His understanding of the universe has become limited to the effective world - his whole attention is given to the analysis of form and he has been blinded to the Cause back of form. So before he can come into his own original self, he will have to be born again - born into the unlimited perception of the All Intelligence. As the first birth has given man an understanding of the form world like himself the second birth will expand his awareness of the unmanifested Cause world. Man's duty now is to burst the bonds of ignorance - to emerge from the matrix of earth and perceive the vastness of Cosmic Cause.
121 その導師は言いました。「天から降りて来た者以外に天に昇る者はいないのだ。天にいる人の息子でさえも。」(ヨハネ3:13) それは第二の誕生は全てのものが形ある世界に向けて進行して来た源の原初の因の状態に意識的に帰って行くことを意味しています。人は宇宙的な因から降り来たったものであり、人は宇宙的因の非個人的な意識的気付きの状態に再び帰る特権を持っています。人が形ある世界の中に生まれた時、人は物質の外観の中で迷子になり、広大な宇宙をもはや理解しなくなってしまいました。人は自分をその諸感覚の指図に差し出してしまい、人の心は魂の導きをなかなか受け入れようとはしません。人の宇宙への理解は結果の世界に限定されるようになり、その関心の全ては形あるものの分析に注がれ、形あるものの背後にある因に対しては盲目になっています。ですから人が自分自身の原初の自分になるには、再び生まれる、即ち全英知の無限の知覚の中に生まれる必要があるのです。最初の誕生は人に自分自身のような形あるものの世界についての理解を授けたように、第二の誕生は未だ現象化していない因の世界についての気付きを拡げることでしょう。今日の人の義務は無知の束縛を破裂させること、地球の地殻から抜け出て、宇宙的因の広大さを知覚することです。



【解説】
 私達自身、即ち肉体に宿る魂とも言うべき本質的なもの自体は肉体とは別に存在することを、本項は示唆しているように思われます。つまり、魂は元来、”因”に属するものであり、その魂の部分は私達が生まれ落ちて物質世界の中で埋没し、自分の正体を見失っていると説いているのです。
 また、私達が日々探究しなければならないのは「物質」ではないこともポイントの一つでしょう。自らが本来所属している”因”について学ぶことの方が遥かに重要で、その過程を通じて本章で言う”第二の誕生”を成し遂げることが出来るという訳です。
 元来は”因”の世界に居た者が、物質世界に生まれ出て、本来は創造物溢れる素晴らしい環境を享受出来る筈でしたが、自らの感覚器官や物質世界に支配されて、自分の本質を見失ってしまったということです。これはアダムとイブの物語を連想させるものでもあります。
 この一連の流れはもちろん、宇宙的学習の課程とも言える訳で、第二の誕生を通じて物質世界と”因”の世界とを自ら融合させることが、私達共通の課題となっている訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第11章-段落120

120 Thus spoke the Christ, to whom Life had revealed her mysteries. This statement has been made the very foundation of religion, but Nicodemus of old, who asked of the Master, "How shall this be? Can a man enter the second time into his mother's womb?"(John 3:4) is not alone in his ignorance of the second birth.
120 生命がその持つ神秘を明かした相手であるキリストがそのように話されたのです。この声明は宗教の基礎とされていますが、年老いたニコデモは、導師に「どのようにすれば、これが為されるのですか。人は自分の母親の子宮に二度目に入ることが出来るのですか(ヨハネ3:4)」と尋ねましたが、それは彼一人がこの第二の誕生について無知であった訳ではありません。



【解説】
 イエスが語った”第二の誕生”の内容は、当時のニコデモのみならず、今日の私達でもその理解度に大差はありません。イエスの言葉は実に比喩的であった訳ですが、その理由についても私達は考える必要があります。つまりは例え理路整然と説いたとしても、当時の人々(或いは今日の私達も同様かも知れませんが)に理解出来る訳もなく、単なる言葉の上の知識に留まり、自ら理解することはなかったと思われます。大切なことは各自が自らの体験・実感として理解することであり、直接的な解説を避けていたように思います。
 このことはイエスのように他惑星から地球の救済に派遣された聖人にとって、派遣先の惑星の支援やアドバイスはするものの、強制は出来ない事情によるのではないかと思っています。その惑星の発展は何よりその惑星住人の手によって為されるべきであり、良い方向に進むよう見守ることが基本的な姿勢であるからです。
 イエスの説いた”第二の誕生”をどのように各自が探究し、自分のものとするかが問われるのですが、実は本章では当時、イエスに随伴していたヨハネ(アダムスキー氏)が改めてイエスの真意について説いているように思われるのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第11章-段落119

11 TO BE BORN AGAIN
119 "Verily, verily, I say unto you, except a man be born again he cannot see the kingdom of God." (John 3:3)
第11章 再び生まれるために
119 「まことに、まことに私は貴方に言って置きます。人は再び生まれなければ、神の王国を見ることは出来ません」(ヨハネ3:3)



【解説】
 よく気付くことは、生まれたばかりの赤子や幼児は皆、何の畏れもなく、また何事にも楽しく微笑んでいるということです。彼らには全てが物珍しく面白い存在なのです。その次にいつも思うのは、もし生まれ変わりがあり、前世を病や事故等で苦しんで亡くなった方であったら、再び新しい肉体を得て生まれ変わったとしたら、全てが楽しい気分であろうということです。
 本項の場合、イエスの諭すように神の国に生まれる者は皆、至福の念に満たされることは間違いありませんが、イエスは死んだ後のことを言及しているのではないことは、後続の本文の記述から分かります。それではイエスは何故、”生まれ変わり”が必須条件であると説いたのかを考える必要があります。
 死すべきものは何かという場合、それは各自の自我(エゴ)の部分を指すものと思われます。自我を融解、消失させると相対的にその奥にある真の存在が重きをなすように現れて来るように思われます。従来の四感覚の支配から抜け出た段階で現れる宇宙的な存在です。これは前章の信仰と恐怖の間にある様々な度合いと同じです。イエスはその信仰("faith")がある段階に到達した時、生まれ変わりに相当する大きな転機が現れると説いたものと思われます。私達も毎日の研鑽を積み重ねる中で、必ずやその転換点を迎えるものと思います。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落118

118 It behooves us then to study Principle instead of focusing all of our attention upon the effects of Principle (source of origin). When we direct our attention towards that inner guiding force we become fully awake and feel the inter-relationship of all life. There has never been a time when one released the personal ego to this inner force that he has not seen some immediate result of action; so as one becomes more fully aware of his oneness with the All-Intelligence his faith is increased and consequently his fear is decreased. Faith is the result of one's unity with the Whole, and such unity cannot take place until every thought of selfishness with its whole category of resultant fears steps aside and leaves the highway of understanding free of barriers. So we may see that absolute faith is not of easy attainment - it must come through a gradual growth just as all things change by degrees. Faith is actually an expansion of conscious awareness to include more knowledge and certainty of action.
118 ですから私達がその注意をすべて法則(源泉)の結果物に集める代わりに、法則を学ぶべきということは当然なのです。私達がその内なる導きの力に向かって注意を向ける時、私達は完全に覚醒し、全生命の相互関係を感じ取るようなります。人が個人的エゴをこの内なる力に解き放つ時、行動の直ちに起こる結果を見ないままで終わることはありません。ですから、人が自身が全英知と一体になっていることに、より完全に気付くようになるにつれて、その者の信仰は増し、その結果、その者の恐怖は低減します。信仰とはその者が全体と一体になった結果であり、このような一体化は全ての結果に及ぶ利己的なあらゆる想念が脇にどいて、理解の王道から障害が無くなるまでは有りえません。ですから、私達は絶対的な信仰というものは容易には達成できるものではないことは分かると思います。それは、丁度、全ての物事が少しずつ変化するのと同じように、なだらかな成長を通じて実現する筈です。信仰とは実際には、行動に対するより大いなる知識と確かさを含む意識的知覚力の拡張であるのです。



【解説】
 私達の日常の生活の中で、そのような探究の姿勢が大事なのかを第10章の最後に著者は説いています。
 要点は即ち、個別の物質、更には(私の意見としては)個別の事象に囚われるのでははく、もっとその奥に流れる法則を学ぶことに徹することだと思われます。
 私達は良きにつけ悪きにつけて様々な体験を得て生きています。その中でとかく私達はその得た結果に固執するあまり、その体験で得た法則性についての考察、研究が不足しがちです。その結果、再び同様の失敗を起こすことも多いのです。
 重要なのは、その結果がどのような法則の下で起こったかを学ぶことだと考えます。当然、私達は良い結果を求める訳ですから、何故今回はうまく行ったのか、何故前回はうまく行かなかったのかを考察することが重要です。その中で、当時の自分の心境、心構えが事態の進展に大きく影響していたことも分かりますし、更に進んで行動の際に自分がインスピレーションにどのように対処していたかもポイントになります。
 ひとたび良い結果が得られた時に、当時自分が”因”に対して素直であり、想念・印象に対して受容的であったことが分かれば、今後はその心境を維持すればよく、支えて呉れる因への信頼("faith")も高まり、恐れというものが次第に消失して行くものと考えます。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落117

117 Our lack of fear is not due to our confidence in matter but our inherent faith in the principle supporting and controlling matter. I say inherent because Cosmic Cause which produces faith is within every one. It is closer than hands and feet and whether or not we as mortals openly admit its existence we do realize it or we would not be conscious, living beings.
117 私達に恐怖が無いのは私達が物事に確信があるからではなく、物事を支配し、統制している原理に対する生まれながらに存在する信仰がある為です。私は信仰を作り出す宇宙的因は誰もの中にある為、生まれながらに存在すると言っているのです。それは貴方の手や足よりも近くにあり、死すべき私達が外に向かってその存在を認めるかどうかによりません。何故なら、そうでなければ私達は意識があり、生き物にはならないからです。



【解説】
 私達が日常、何ら不安を持たず安心しているのは、個々の物質に信頼を置いているからではなく、宇宙を貫く法則に信頼を置いているからだと著者は説いています。即ち、個別の物体、結果物に信頼を寄せていては、一つ一つ毎回のチェック確認が必要となる訳で、私達はそのようなことは行いません。前項(116)の例で言えば、重力の法則を理解し、その普遍性に信頼を置いているから安心しているのです。
 更に著者はその法則、即ち宇宙的因は、実は私達が生まれながらに継承していると説いています。私達自身の内側、手や足よりも、もっと私自身の近くに持っているのだということです。”私”だとしている自分の心を直接包み込むようなイメージかと思われます。それほどに私達個々人は恵まれた存在だということです。私達が学ぶべき事柄は全て、自分に用意され、私達がその気になればいつでも取り出し学べる環境にあるという訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落116

116 Do we worry that the rivers will start flowing up hill, or drop a weight and hold our breath that it might rise again, or throw a ball into the air and doubt that it will return to earth? No, for again we know the principle governing such action.
116 私達は川が丘を遡って流れるかも知れないとかを心配し、或いは重りを落として再び昇って来るかも知れない、或いは空中にボールを投げて再び地面に戻って来ないかと息を凝らすことがあるでしょうか。いいえ、ありません。何故なら、この場合もやはり私達はこのような行動を支配している原理を知っているからです。



【解説】
 本項では恐怖の原因は法則への理解の不足であると説いています。
 重力はあらゆるものに作用し、その法則によって惑星全体が成り立っている訳で、その作用は到底人間の及ぶところではありません。本項で示される川の流下や重りの自由落下等、私達の目にするものは、この重力法則の現れであるのです。
 同様にもし、私達が自然界に流れる真の生命波動のことや、想念・印象の持つ強力な創造作用の法則を知れば、それら法則を理解することで、未来に対する不安も解消するように思います。現在、心に抱く想念・印象がそのまま自分の未来を形作ることを理解すれば、重要なのは現在の自らの姿勢、心境であることが分かり、未来の状況を心配する必要はなくなるからです。
 極端に言えば、恐怖や不安を抱くのは地(球)上の人間だけだということでしょう。他の創造物はたとえどのような未来が待っているとしても、それを快く受け入れる覚悟があり、現実を享受し、生命を謳歌しているように思うからです。因への信頼の程度の差がそのことに大きく現れているという訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落115

115 Why do we have perfect confidence that the sun will rise each day? Have you ever known a man rising each morning, hours before dawn, to sit wringing his hands in tense anxiety over the prospect of eternal darkness? No, we have no such fear, and the primal reason that we do not doubt in this case is because the action of the suns and planets is greater than our mortal mind can conceive and therefore we leave such actions entirely in the hands of the All-Knowing Principle which understands and perpetrates all action. In this case we realize our personal insufficiency and so do not concern ourselves by exerting mortal effort in regard to it. We simply allow it to take place.
115 何故、私達は毎日太陽が昇って来ると完璧に確信して来ているのでしょうか。貴方はこれまで毎朝起きては夜明け前に永久に闇が続くことを恐れる余り、両手を握り締めて座すような人を知っていますか。いいえ、私達にそのような恐れはありません。また、このような場合に私達が疑いを持たない主な理由は、諸太陽や諸惑星の行動は私達の死すべき心が計り知りえるより偉大であり、それ故、私達はこれらの行動を全ての活動を理解し、それを為す全知の法則の手に完全に委ねているからです。この場合、私達は個人的な力量不足を自覚し、その為、それに対して死すべき者の努力を行使して自分自身を係らせようとはしないのです。私達は素直に起こるに任せているのです。


【解説】
 前項(114)でゾロアスターの言葉で"faith"(信仰)の度合いが表現されていた訳ですが、実際、私達自身、どのような者でも持っている"faith"の例を本項は示しています。毎日昇る太陽への信頼です。
 毎朝夜明け前、鳥達はじっと東の水平線に向かって日が昇るのを待っていますが、それは全ての生命活動の源として太陽を来迎する姿勢、一日の始まりを待つ姿勢かと思われます。また、決して太陽の出現有無を心配する姿ではない筈です。
 一方、私達の日常はこれら太陽の動き等、あまり関心を持つことなく、当たり前の自然現象として感謝の気持ちすらありません。それはそれで大いに問題とすべきでしょう。本文では毎朝の日昇に対するこれら私達の姿勢について、もちろん良しとしている訳ではなく、これら太陽や惑星の運行が私達の心など影響されない強大な宇宙の活動であることを説いています。また私達自身もそのような事項に対して自分ではどうすることも出来ない為、全てを宇宙に委ねているとしています。
 これら私達が宇宙に委ねると表現する訳ですが、その背景には単に無頓着な状況と私達生命を支えて呉れる日常的な惑星運行に感謝する中で、”因”に自らも含め委ねることの間には、大きなひらきがあることに気付く必要があると言わなければなりません。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落114

114 There is no such thing as absolute unbelief; there is only a growth from the lesser faith to the greater faith. As the teacher Zoroaster explained, "Evil is but unripened good." Likewise, fear is but undeveloped faith. Man has come from Cause Intelligence to the world of effects; his mortal sense mind lost the memory of Cosmic Cause and he is now in the process of reestablishing himself; he is on his way back to oneness with the Principle where selfishness with all of its innumerable effects is dissolved. It is through the recognition and realization of Cause that faith is stabilized.
114 絶対的な不信心というようなものは存在しません。より少ない信仰から、より大きな信仰への成長があるだけです。教師ゾロアスターが「悪とは未成熟の善である」と言ったようにです。同様に恐怖は未発達の信仰なのです。人は因なる英知から結果の世界に生まれ来たり、その死すべき感覚心は宇宙的因の記憶を失い、今や自分自身を再構築する過程にあります。人は利己心がその無数の結果物と溶け合う一大原理と一つに戻れる道の途中に居ます。信仰の安定化は因の認識と実感を通じてなされるのです。




【解説】
 本項は私達全てが長い進化の道を歩んでいる者であることを説いています。人間一人一人はその理解の度合いは異なりますし、本講座でいう"faith"(信仰)の状況も異なる訳ですが、それは一人一人の道程の違い、到達点の違いに過ぎません。基本的には私達は進化の道を登り続けるべきで、急ぐ必要はないとも言えるでしょう。
 実は本文を読んで分かることは、この内容は決して人の一生で終わる話ではないということです。そもそも因と一体になる認識に至ることは、生涯を掛けて容易に成し遂げられるようには思われないのです。それほどに私達の訓練対象である自我は強力な殻となって私達を支配しているのです。
 その意味でも著者アダムスキー氏は本文の表現を通じて、暗に私達が地球での今生涯を終えた後においても、再び何処かの星に転生し、継続した精進の道を歩むことになっていることを示唆しているように思われるのです。私にはこれら転生問題については、当時の米国等、キリスト教国では認められていない教義とされていたことも関連しているように思われます。本書も含め、アダムスキー哲学は地上の宗教の枠を超えて、自由な立場から宇宙的真理を説いていることに改めて注目すべきでしょう。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落113

113 The development of faith in man is the growth out of the personality into the impersonal expansion of awareness; from effect to the cause back of all effects.
113 人における信仰の発達は、個としての自分から非個性的な知覚の表現への成長、結果から全ての結果物の背後の因への成長のことなのです。



【解説】
 これまでご覧になっていてお分かりのように、”因”を知覚することは、印象(想念)という大変精緻な波動が心の中を通過することに気付くことでもあるのです。それには自らの内部を常に整え、上辺の空騒ぎを無くして、いつでもインスピレーション(瞬時的な想念波動の衝突)や表現すべき印象が通貨するのに気付かなければなりません。
 このことは同時に”因への信頼”、即ち本文で言う"faith"(信仰)がその基礎となっています。つまりは先ず、発信元を信頼した上で指導を受けることになる訳です。実はこうする中で、種自体を長年守って来た殻のような私達各自の自我というものは次第に薄くなり、やがては因の世界までも拡大、生長するということでしょう。
 硬い殻で守られて来た種が芽を出し本来望まれる大木にまで生長する上で、因の指導に従って自らの殻を破っての発芽、いわば殻を包む因の世界に自身を拡大することが飛躍の一歩になる訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落112

112 At this point you will, of course, say, "But the seed could not grow without the support of the earth, air, water and sun." This is true, but as the seed obeys the command of the Cosmic or Cause intelligence all necessary elements unite to bring it forth. The seed is not commanded to push through the ground in the cold winter months nor does it seek to grow without that urge from within. It waits patiently till it feels that the time for growth has come. What would happen if the seed questioned the urge to grow as man questions new ideas of a broader conception of life that try to impress themselves upon his mind? As the seed by not resisting the urge grows into a beautiful bush, so man, likewise, may be assured that if an idea or desire arises that is impersonal, it is there for a purpose and if acted upon will produce beneficial results. A desire can be kept from manifesting only through the effort of the personal will in resisting action. For the thought or desire is the actual Cause which fathers the outward conditions.
112 この時点で貴方はもちろん、こう言うでしょう。「しかし、種は土や空気、水や太陽の支援無くしては成長出来ない。」このことは真実ですが、種は宇宙の、或いは因の英知の指令に従うため、全ての必要な要素が種の発芽を実現するため、結束するのです。種は寒い冬の月日に地面を貫いて突き進むよう命ぜられることはありませんし、そのような内部からの衝動無くしては成長しようとはしません。それは成長の為の時期が来たと感じるまで忍耐強く待っています。もし種が人間が自分の心に印象付けようとしているより広い生命の新しい概念を疑問視するように、成長への衝動に対して疑問に思ったら、どうなることでしょう。種がその衝動に抵抗することなく、美しい茂みに成長するように、人間も、もし非個人的なアイデアや願望が起こった場合には、それ(訳注:アイデアや願望)は一つの目的の為にそこにあるのであり、もしそれに応じて行動すれば恩恵のある結果を作り出すことでしょう。願望は抵抗的行動をとる個人的意志の影響によってのみ現象化から遠ざけられるのです。何故なら、想念や願望は外側に向けての状況を生み出す実際の因であるからです。



【解説】
 本文を読んで気付くことは、植物の種も私自身も基本は同じ存在だということではないでしょうか。じっと内部に湧き起る因からの印象を待って、その印象が示唆する絶好の機会を逃さず、自らの使命を発現する為、結果の良否に頓着することなく、行動するということです。果たして従来の小さな自分の殻を破って芽の出た後の結果については不確かなことは否めませんが、それは次のステップの話であり、種にとっての当面の問題ではないのです。
 植物の種の中には何千年も生き続けるものが居ます。古代ハス(大賀ハス)として知られるハスの種は2000年以上も前のハスが今日花を咲かせた事例です。2000年もの時間が経過しても種は忍耐を続け、希望を断念することはなく、遂には条件が整い芽を出して多くの人々に祝福されたという訳です。
 この講座を続けていて分かることは、この因から来る印象というものは、実に精緻なもので、余程、心を鎮めて置かないと気付かずやり過ごしてしまうことです。それ程、私達の感性が鈍いということでしょう。私達も印象を待つ以上は心を穏やかにして印象を待つ心境も必要です。止水明鏡と表現されているように、心の中をかすかな波が通過しても明らかになる状況を造り上げる必要があるようです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落111

111 How often quoted is the expression of the Christ, "If ye have faith as a grain of mustard seed ye shall say to this mountain, remove hence to yonder place, and it shall remove; and nothing shall be impossible to you." (Matthew 17:20) This statement has been used to show how little faith is necessary to bring forth manifestation. Notice, however, that the words are not "faith as great as a grain of mustard seed" but "faith as a grain of mustard seed." Not the quantity of faith but the quality of faith is called to note in this statement. Let us study the consciousness of the mustard seed. Is it ever overcome with fear in regard to its personal existence? What causes it to grow? Is it not the conscious impulse force within it which promotes it into action? The seed knows nothing but this urge within itself which causes it to expand, burst its shell and proceed upward into the light. It does not seek to resist this force of natural growth nor does it wonder if it is right to act in this manner. It acts unquestioningly according to the law or principle of its purpose. It does not look to effects - neither to man, to earth, water, or sun. It expands into a mature bush because the forces within it command it into such growth.
111 これまで何回、キリストのこの表現が引用されたことでしょう。「もし、汝に一粒のカラシ種ほどの信仰があれば、この山に対し、ここからあそこの場所に移れと言えば、その山は移るであろう。貴方に不可能だというものはない。」(マタイ17:20)。この表現は創造作用をもたらすのに、如何に小さな信仰が必要なだけであるかを示すため、用いられて来ました。しかし、それらの言葉は「カラシ種一粒の大きさの信仰」ではなく、「一粒のカラシ種ほどの信仰」としているのです。信仰の量ではなく信仰の質がこの声明の中で求められていることに注意して欲しいのです。カラシの種の意識を研究して見ましょう。それはその個人的な存在に関して恐怖に打ち負かされているということはないのです。何がそれを成長させるのでしょうか。それを行動に突き動かすのはその種の中の意識的衝動ではないでしょうか。種は自分の中にあるこの衝動しか知っておらず、それが膨張し、殻を弾けさせ、光に向かって上方に進み出します。それは成長のこの力に抵抗しようとはせず、またこのように行動することが正しいかどうか迷うことはありません。それは法則あるいはその目的の為の原理に沿って、疑問を持つことなく行動します。それは人間、地面、水や太陽に対する影響を見てはいません。内部の諸々の力がそのような成長を命じる故に、成長した茂みになるのです。



【解説】
 イエスの「一粒のカラシ種の信仰」の言葉を通じて、"faith"(信仰)の持つ力とカラシ種が持つ"faith"(信仰)について、本項は明瞭に示しています。
 アダムスキー氏は多くの著作の中でイエスの言葉を引用し、これまでに無い解説を加える事例が多いのですが、それにはかつてイエスの弟子の一人であった彼の実体験、即ちイエスがその言葉を発した場面に居た体験があるように、最近、私は思うようになりました。
 さて、植物の種という結果を見れば、特にカラシの種等は大変小さく、その中身に何が秘められているのかは、私達の目では捉え切れません。同様に人間の卵子その他も同様にミクロの大きさではありますが、実はその内部に持つ遺伝情報は膨大なものがあり、適切な環境が維持されれば、各々立派な創造物になることは、皆様お分かりの事実です。
 本項で、著者が解説するイエスのカラシ種の話は、種の中にある"faith"(信仰)が如何に力のあるものかを表現したものと思われます。ひとたび環境が整えば、何ら躊躇することなく、殻を破って芽を出し、成長する種の発芽には力強さがあります。今日、スプラウト野菜が人気なのは、その「生命力の発現」を私達にも取り込みたいということにあります。
 日常の私達がどれほどその生命力に近づけるかは不明ですが、植物の種一粒から私達は多くの事柄を学ぶことが出来ます。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落110

110 If we analyze fear we will find it to be produced by a state of wondering in regard to our support and safety. In most every case fear is focalized about one's personal being or self-interest. Most men look upon the activities of life in the light of the effect that they will have upon themselves and those dear to them. They are living in the consciousness of the effective world, depending upon outer things for their support, and the recognition of the instability of outer effects produces a condition of uncertainty within their own minds. We may say then, that fear is the self-centered state and faith is living the impersonal state of being. Fear is based on effects; faith is based on Principle or Cause.
110 もし私達が恐怖を分析すれば、私達はそれが私達への支持と安全に関する不安状態によって作り出されることを発見するでしょう。ほとんどの場合、恐怖は自分の個人的な存在か自身の関心に焦点が当てられています。ほとんどの人達は、それらが自分自身や自分達にとって大切なものに与える影響という光で人生の活動を見ています。彼らは結果の世界の意識で生きており、自分達の支えを外側の物事に頼り、外側の結果物の不安定さの認識が心の中に不安定な状況を作り出しています。ですから私達は恐怖とは自己中心の状況であり、信仰とは非個人的な状態と言うことが出来ます。恐怖は結果に基づくものであり、信仰は法則、即ち因によっているのです。



【解説】
 そもそも何故、恐怖が私達を支配して来たのか、本項は明瞭に述べているのではないでしょうか。答えは本文の最後に示されているように"faith"が宇宙を流れる原理・原則に根拠を置いているのに対し、恐怖は現実世界、結果の世界を拠り所としている点に集約されます。
 これまで多くの仏教の教えからも、「行く川の流れは絶えずして.....」の表現にあるように、結果の世界は常に変化する過程にあり、「無常」と言わねばなりません。そのいわば不安定とも言えるものに拠り所を置くとすれば、心配事に尽きることはありません。
 そうした中で、私達は長年、この不安定な結果の世界を生きて来た訳ですから、年を重ねるにつれて、ストレスや疲労で身体は酷使され老化も早まるものと思われます。それに対して、不変原理に常に視点を置いて人生を歩むことで確実に目的地に到達出来るというものでしょう。丁度、昔の航海では北極星を目印として自身の進む方向を定めることに似ています。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落109

109 We know that all things in the manifested world are possessed of the positive and negative aspect. Faith is one of the positive aspects of man's character so what is the opposite of faith? Fear, of course! Therefore, to understand one we must understand the other; they are the two ends of one pole. Fear is the lower expression so let us begin with an analysis of it and work upward to faith.
109 私達は、創造されたこの世界の全ての物事は陽と陰の側面を有していることを知っています。信仰は人の性質の陽の側面の一つですが、それでは信仰の正反対は何でしょうか。もちろん、恐怖です。ですから、私達は一つを理解するには、もう一つも理解しなければなりません。それらは一本の棒の両端なのです。恐怖は低次な表現ですから、私達はその分析から始めて、信仰まで昇って行くことにしましょう。



【解説】
 物事を「陰陽」として観る姿勢は、東洋的感性に似るものですが、アダムスキー哲学、更には他惑星文明においてもこれに似て現象をプラスとマイナスの性質として捉えることには注目したいところです。
 この内、人間の「陽」の性質として、ここでは"faith"を取り上げ、その対極のものとして"fear"(恐怖)を挙げています。もちろんこれらの両極を善悪として裁く訳ではありませんが、”信念の度合”が両極をつなぐ軸を表現するものと言えます。
 そのように考える時、私達は自分には十分な"faith"があるかを評価することも時に必要でしょう。キリスト教の歴史の中では多くの殉教者が出ましたが、信仰の故に殺される苛酷な状況の中で死をも恐れぬ心境は、本項で言う「恐れに対極する」"faith"の象徴とも言えるものです。
 今日、幸いにも多くの私達は信仰の故に弾圧される世の中に生きるものではありませんが、むしろそれ故に私達にとって真の"faith"(信仰)とは何を指すのかについて、自ら明らかにする必要があるように思われます。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章-段落108

10 FAITH
108 Faith is perhaps one of the most widely discussed topics in the world, yet it is the least understood. Teachers, ministers, psychologists, etc., all advise the development of faith and proclaim it as the basic quality of life but find difficulty in explaining this particular faculty.
第10章 信仰
108 信仰はおそらく世の中で最も広く議論された話題であり、また最も理解されていない話題でもあります。教師や聖職者、心理学者その他の人々は皆、信仰の発達を推奨し、それが生命の基本的な質であると宣言していますが、この特別な機能について説明することは難しいとしています。



【解説】
 以前にも述べたかと思います。"faith"という言葉の訳出については、これまで多くは「信念」と言葉を充てていました。もちろん特に異議を唱える者ではありませんが、日本語で「信念」と表現される中には、かたくなに自己の意見を押し通そうとする意志も含まれているように懸念した為、本項ではあえて「信仰」と訳出しています。「信頼」でも良いのかと思っています。
 さて、この"faith"ですが、これから学習を進める私達にとって大変重要な要素であると本文は説いています。しかし、同時にこれまで私達の多くが"faith"の真の意味を理解出来ていないとも諭しているのです。
 著者による"faith"についての解説は、次項以降も続きますが、私としては、"faith"(信仰)とは”因”への”信頼”であると考えています。目に見えない因の存在を知覚するには、印象・想念を知覚できなければなりません。印象・想念の源泉に信頼を置くことで、何らかのつながりやパイプのようなものが構築されるような気がします。つまり、信頼を置く者同士は想念・印象のやり取りがスムーズに行くということです。
 そういう意味で、因とのパイプが太くなれば、画期的な印象を容易に感受でき、人生に生かせるという訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落107

107  Through our life on earth we have learned a great deal; how much more we shall learn as we venture into the realms of Cause. We shall know much more beauty than we have known in the world of effects. Our admittance to such knowledge is not difficult - just one step can prove itself the key that will unlock the chambers heretofore unknown to us. "There is nothing," we have been told, "that shall not be revealed." To the vision of the brave in heart no truth can be concealed. One single sacrifice - the releasement of old thought habits, may bring rewards far greater than you have ever dreamed
107 地球上における私達の生活を通じて、私達は多くを学んで来ました。私達が因の領域に足を踏み入れれば、更にどれほど多くを学ぶこととなるでしょう。私達の結果の世界で私達が知って来たよりも更に大きい美しさを知ることになるのです。このような知識に対する私達の入場の権利は難しいものではありません。ただ一歩の踏み込みが、私達にこれまで知られていなかった特別室を開けるカギであったことを明かします。「明かされないものはない」と私達は教えられて来ました。心の勇敢な者の視野には如何なる真理も隠されていることは出来ません。ただ一つの犠牲、古い思考習慣の解放は、貴方が夢見たこと以上に大きな報酬をもたらすことでしょう。



【解説】
 本項では著者は私達にこれからは何を学ぶべきかについて語っています。即ち、私達が学んで行くべきは既存の物質世界だけではなく、”因”の世界とも言うべきものだという訳です。
 そこに至る道については詳しくは語られていませんが、先ずはこれまでの私達の思考習慣、想念パターンを打破する勇気を持って未知の世界に一歩踏み出せとしています。
 しかし、それらの領域に入る為には何らの装置も道具も必要ありません。「生命の科学」等でも述べられているように、私達自身に”因”に気付くことが出来る能力が備わっているからです。これらを仏教では「悟り」という表現でその心境を表現しているものと思われます。
 その世界、如何なるものかは私自身未だ掴めてはおりませんが、正座瞑想した仏陀の像のように、因の世界では居ながらにして、三千世界を巡ることも出来るように思われます。映画「2001年宇宙の旅」の後半、主人公がめまぐるしく輝く光の洪水の中を進む自分を発見しますが、それはこうした因の世界をイメージした映像表現であったものと思われます。重要な点はこれら因の世界は常に私達を暖かく迎え入れて呉れるということです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落106

106  Remember that youth is the result of constantly renewed thoughts and life is activity - it is progress. The first step taken in any field of accomplishment is an initiation into a new endeavor and requires a certainty that is born of perception - an assurance of a vastness that lies beyond our present line of vision. Neither you or I know what each new step will bring but the journey must be made and only faith will reveal truth to us.
106 覚えておいて欲しいのは若さとは絶え間なく更新される想念の結果であり、生命とは活動であり、進歩であるということです。如何なる達成の分野でも踏み出された最初の一歩は新たな努力へのはじまりであり、私達の現在の視界の境界線の奥に横たわる広大さの知覚への確信を必要としています。貴方も私も新しいそれぞれの一歩が何をもたらすのか知るものではありませんが、その旅は為されなければならず、唯一、私達の信仰が私達に真理を明らかにすることでしょう。




【解説】
 既に私達は「同乗記」等により、他惑星人がその年齢に比較して著しく若々しい肉体を維持していることを知っています。また、”新鮮さは若さの源である”ことも実感しているところです。これについては、本来の生命活動には衰えがなく、未来永劫継続する活動であることにも関連するものです。この生命の流れに抵抗することなく、それに従って行動すれば、生き生きとして人生を送ることが出来るというものでしょう。
 本項では具体的にどのような姿勢でそれを実現するかを説いている訳です。つまりは常に新しい事柄に取り組むこと、未知なるもの、未経験の事柄に対してもそれを支える因に対する畏敬と信頼感を持って進めるということです。もちろん、その姿勢の中には緊張感はありません。その後、目前に現れる新しい世界への期待があるだけです。
 このように、”因”への信頼があれば、何事も楽しみながら努力出来る訳で、その結果、次々に開ける新しい世界や新たな心境に共鳴することで、その人の全身の細胞は老いに結びつく停滞という要素が無くなるということでしょう。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落105

105  One step can set a man on the highway of eternal learning - the everlasting revelation of facts that exist only in the laboratory of Cause which knows no limitations or boundaries. But after you have taken the first step, learn the lesson of patience so you may not try to travel faster than your understanding will permit, One step will set you on the highway, but there are billions of steps ahead of you, for after you have reached a goal you still must travel through Eternity. Man can never attain the totality of all that is to be known, for if he could do that there would be an end to all things. Knowing that this is true, why be impatient to forge ahead? Each step we take is new; each step is the first one from the point that we have previously reached. It is well to have ideals; we are given glimpses now and then of the fullness of the life ahead of us so that we may be inspired to continue action, but if we keep our eyes totally upon the future we are sure to miss the beauty of the present and we may stumble into a briar patch and endure much suffering while trying to extricate ourselves.
105 一歩の踏み出しが人を永遠の学びという王道、制限も境も知らない因という実験室の中にのみ存在する事実の永続する現出の場に据えることが出来ます。しかし、貴方が第一歩を踏み出した後は、貴方は自分の理解が許すより速く旅しようとはしないよう、忍耐の教科を学ぶことです。踏み出す一歩は貴方を王道に乗せはしますが、貴方の前には何十億もの歩みがあるのです。何故なら、貴方が一つのゴールに到達した後も、貴方には永遠を通じてなお旅する必要があるからです。人間は知るべき全ての全体性を決して達成することは出来ません。何故なら、もしそれが出来たとすれば、あらゆるものに終わりがあることになるからです。このことが真実だと知ったからには、どうしてせっかちに先頭を切ろうと突進するのでしょうか。私達が毎回、踏み出す一歩は新しいものです。私達が時折、私達の将来にある満ち足りた生活を先立って見せてもらえることもありますが、もし私達が未来のみに全て着目していたとすれば、私達は間違いなく現在の美しさを見失い、イバラの小畑の中につまずいて、自分を救い出そうと、より手ひどい痛みに耐えることになるかも知れません。



【解説】
 一度に何歩も進むことは難しいのです。毎朝登る駅の階段からも分かることですが、一度に斜面を登ろうと失敗しながらも努力するよりは、歩幅は小さくても一歩一歩着実に進んだ方がはるかに効率的だという訳です。
 また、決して急ぐ必要はないことも著者は説いています。永遠の時間軸においては進化の道を歩んでいることが重要で、焦ったからといって目的地に到達出来る訳でもありません。私達は一歩ずつ学んだことを十分理解し、その成果を享受した上で、次なる一歩につなげて行けば良いことになります。
 「生まれ変わり」については、アダムスキー氏も金星旅行記で確認している訳ですが、人の一生というものが今生のみでなく、未来にも継続されて行くことを考えれば、私達は現状で学べることを快く学び、それらを将来の生き方に生かして行くことが重要です。
 進化の道とは毎日毎日の過ごし方や行動経験によって築かれて行くのです。


お知らせ

いつもご覧いただき、ありがとうございます。
都合により、次回更新は2月4日(木)になる予定です。

竹島 正

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落104

104  It is true that the step into the wholeness of life carries us into the unexplored but what would our existence be if we remained always in the world of the obvious? Delving into any subject takes us from stagnation to knowledge and progress. There is no need for any one remaining in the state of disintegration or static mental condition when everyone is privileged to step into the newness of things and study in the school of everlasting advancement. There is no place to which a man is bound; he may go forward freely whether it be in a world of acts or in the universe of facts. There is no standing still; one must go either up or down, and the upward step is always the proper one to take. All of the storehouses of earthly knowledge in which various manuscripts are treasured contain not even a beginning of the wisdom that is held within the storehouse of the cosmos.
104 生命の全体性への歩みは私達を未踏に運び入れますが、もし私達が明らかな世界にいつも留まっていたら、私達の存在意義は何なのでしょう。どんな課題でもそれを掘り下げることは、私達を停滞から知識と進歩に連れ行きます。誰もが物事の新しさへの一歩が与えられ、永続する前進の学校での学習が与えられているというのに、誰一人、崩壊或いは静止した精神状態に留まっている必要はありません。人が縛りつけられている必要のある場所は存在せず、人は行動の世界や事実の宇宙の中であれ、自由に前進することが出来るのです。静止しているものは何一つありません。人は上昇するか下降するかのいずれかであり、上向きの一歩は常に取るべき適切なものです。様々な原稿が収蔵されている地球上の知識の宝庫の全てをもってしても、宇宙の宝庫の中に保存されている英知の冒頭さえも含んでいないのです。



【解説】
 ひとたび原因の世界へ探求に踏み出せば、私達には様々な未知の世界が待っていることが分かります。実は一見して何でもないように思えるものでも、その内部には私達が知らない様々な要因が働き合っているという訳です。これら自然の営みを観察することも、またそれらの姿を絵画に写生することも楽しいことですし、その隠されたメカニズムを解明することも良い研究でしょう。
 私達自身も含めて、全てのものが一瞬一瞬を生きており、大いなる因の発する想念・印象によって生かされているのです。それらに気付かず、日常目にする自然の中に生命の活動を感じない者は退化の道を歩んでいることになるのです。本文に述べられているように、私達には進化か退化の2つの選択肢しかありません。現状維持はあり得ないとしていることには、注意したいところです。
 もちろん、私達は進化の道を進むべきで、せっかくのこれまでの歩みを無にしてはなりません。次々に目前に広がる新しい環境に対応しながら、前進・精進する生命の探求者に私達はなるべきなのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第9章-段落103

103  The thousands of scientific discoveries that have benefited humankind would be still in the realms of Cause if some few men had not had the faith to bridge the gap between the known and the unknown and had the courage to take the first step upon the bridge. The many things that we enjoy today may be laid to the credit of the few who were courageous enough to move forward into new realms of perception.
103 人類に恩恵をもたらした何千もの科学の発見は、もしわずかの人達が既知と未知との隙間に橋を掛けようとする信仰を持たず、その橋の上に第一歩を乗せる勇気を持たなかったとしたら、それらは依然として因の領域にあるままになっていたことでしょう。私達が今日享受している多くの物事は、新しい知覚の領域に進み出ようとする勇気を持った極少数の人達の貢献に帰すると言えるでしょう。



【解説】
 今日、私達はこれまでの昔の人々と比較し、快適な生活を送ることが出来る環境にあります。寒さや暑さから身を守り、電気やガス、水道そしてテレビやパソコン等、十分に活用出来る社会に暮らしています。しかしそれらを可能とした技術や発見は各々に先覚者(パイオニア)の努力がありました。私達はその功績の上に現在の生活を享受しています。
 しかし、私達はこのような先人の恩恵を利用するだけの存在であってはなりません。一人一人が各々の才能を発展、開花させて、一人一人の功績を残すことが求められています。また、その分野は技術だけのものではありません。絵画その他の芸術や理学や哲学についても言える訳です。人々のより良い生活、人生に役立つことの全てが望まれています。
 特に資金や材料が無くても、私達自身が最も良い研究材料であり、人の生き方、想念・印象の感受メカニズム等、多くの分野が実践可能です。「生命の科学」というタイトルから分かるように、それら全てが生命メカニズムの理解を目指しているのです。

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