2011年06月

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第12章-段落131

131 From the heavens comes the cause and power of creation and yet the earth, being the Father's footstool, it is the foundation upon which He stands. So instead of desiring to live elsewhere one should learn all there is to know concerning his present earth home and recognize it as a garden of beautiful, heavenly things, the actual garden of the Father.
131 諸々の天から因と創造の力がやって来ますが、それでも地球は父の足台であり、父が拠って立つ基礎です。ですから、何処か他の地に住みたいと願う代わりに、人は自分の現在の地上の家庭についての全てを学ぶべきであり、それを美しい天上の事物の庭、父の実際の庭として認識すべきなのです。


【解説】
 ガガーリンが人類初めて宇宙から地球を見てから50年が経ちました。広大無辺な暗黒の宇宙空間の中で輝く私達の生命を支える惑星が大変貴重であり、また美しい存在であることについては、この文明が過去の如何なる文明より理解していることは確かです。宇宙から撮影された青い地球を見る時、本項で言う「美しい父の庭」という表現はよく分かります。
 それほどに「父」が丹精込めて創り上げた楽園を私達は汚してはなりませんし、その美しさを探求すべきことは明らかです。作者は自分の作品を人々に見て欲しいものですし、人々に中身を考え、作品の意図を汲み取って欲しいものです。私達の暮らすこの地球もその要素の一つ一つに込められた製作(創造)の意図を学び、人々にその豊かで美しい環境を楽しんで欲しいというのが製作者(創造主)の切なる希望です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第12章-段落130

130 Neither heaven, the place of cause, nor earth, the place of effects, nor Jerusalem; symbolically used to represent the earth's inhabitants, can be called one greater than the other. These instructions were given against discriminating or calling one part better than the whole, Heaven and earth are not two but one, each expressing the other; man is no lesser for he is both, an integral part of the Whole. Divisions exist only in man's opinions when he calls one greater than the other, for in so doing he is judging and setting himself above the Creator.
130 因の場所である天も、結果の場所である地も、地球の住人達を代表させるべく象徴的に表現されたエルサレムもどれ一つ他のものより偉大だと見なすべきではありません。これらの訓戒は差別したり一部分が全体より優れていると見なすことに対して授けられ、天と地は二つの存在でなく一つであり、互いに他を表現しているのです。人は劣るものでなく、両方の存在、全体の統合された部分であるからです。区別は人が一方のものを他より、より優れたものとして見なす時の人の意見の中にのみ存在します。何故なら、そうすることによって人は裁きを行い、創造主より上位に自分を置いているからです。


【解説】
 そもそも「天と地」、「善と悪」等々に区分すること自体に誤りがあるという訳です。以前にも述べられていたように、実際にはあるものがそのいずれか一方に属するとすることは出来ません。もちろん問題となるのは人の取扱いです。善人と悪人と二分することは出来ないことは容易に分かります。分けようとするのは「好き嫌い」を好む心の性質による訳で、様々なレベルが連続した中で各自が存在するということでしょう。
 本項では更に進んで、因と結果物についてどちらが優れている訳ではないと言っていることが重要です。これまで因が大事と言って来たのは、従来の私達の認識の中に目に見えない因の要素が皆無であったからであり、決して結果物が劣るという訳ではなかったのです。優れた芸術家の魂を因とすれば、その作品である絵画(結果)も同様に、その抜き出た感性を表現したものでありますし、芸術家(因)が心を込めて表現した結果物が作品(結果)に表されていることは良く分かります。
 ここでの問題は、私達の心が物事を全て「善悪」「美醜」に分けたがる傾向があり、それが自分(心)が創造主(因)の作品を勝手に裁いていることにある訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第12章-段落129

129 In Matthew 5 :34-35 is the admonition against division plainly given: "But I say unto you, Swear not at all; neither by heaven; for it is God's throne; nor by the earth; for it is His footstool; neither by Jerusalem; for it is the city of the great King."
129 マタイ5:34-35には、この分割に対する訓戒が平易に授けられています。「しかし、私は貴方に言う、天にかけて誓ってはならない、それは神の王座であるからだ。また地にかけて誓ってはならない、それは神の足台であるからだ。またエルサレムにかけて誓ってはならない、それはその偉大な王の街であるからだ。」


【解説】
 本項で言う「〇〇にかけて誓う」とは、「〇〇」が自分の自由になる所有物で、「もし誓いを破ったら、それを失ってもよい」という意味合いで用いられているものと思われます。そこには、そもそも「〇〇」自体を特段、他のものと区別して、独自の存在として認識すること自体に誤りがあると言っているようです。
 イエスの指摘は、「天」と「地」、「社会」各々に区分して、一方だけを取り上げることが誤りだとしています。私達の目からは各々独立したように見えますが、実際には、それらが相互に作用し合い、切っても切り離せないと観るべきものと考えます。これまで私達は「天」は極美の世界である一方、「地」は汚く粗野であり、まして人の住む「社会」は醜いものであると区分していました。そうする中で、高貴さを求める者は神学、宗教の道を、富を獲得しようとする者は娑婆の商売により他人から利益を得ようとして来た訳です。
 このように善悪、美醜に区分して理解しようとすることを誤りだとしている訳で、実際にはあらゆる所に両方の要素が潜在しています。野生動物が獲物を捕らえたりすることを残酷だと決め付ける訳には行かないのと同じです。美しい自然ではありますが、一たび津波が来れば、多くの命を奪って行く脅威になるのと同様、全てのものにあらゆる要素があるということです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第12章-段落128

128 Teacher and students have made the mistake of separating heaven and earth and so have been carried from one false balance to another. The impersonal man will unite heaven and earth; will incorporate idealism and practicality; will bring the peace and beauty of the celestial into the concrete materialism of the earth. Anyone who cannot live a happy useful life here in the present world will find it no easier in another world. The Father, by whose breath we live, has but one Law that governs all things. He created this planet as He created all others, and the same principle directs its action. All worlds in the cosmos are alike in principle and to one who lives according to the Law there is no division of perfection.
128 教師と生徒達は天と地とを分離するという過ちを犯しており、その為に一つの誤ったバランスからもう一つの誤ったバランスに運ばれているのです。非個人的な人は天と地を結びつけますし、理想主義と実践主義を結合させ、天上の平安と美しさを地上の確固たる物質主義の中に注入します。現在の世界で幸せで有意義な生涯を送ることが出来ない者は誰一人、他の世界でも決して容易ではないでしょう。私達がその息で生きる父は全てのものを統括する一つの法を持っています。神はその他の惑星と同様にこの惑星を創造し、それと同じ法則が法則の行動を指揮しています。宇宙のあらゆる世界は原理において同様であり、その法則に従って生きている者にとって、完全さに何らの分裂はありません。


【解説】
 私達が暮らす地上と宇宙空間には境目はありません。私達が呼吸する空気は宇宙空間そのものでもある訳です。UFO問題に関心のある多くの人達は、他惑星におけるあまりに違う社会システムや科学レベル、テレパシーをはじめとする人間としての発達レベルの差に驚き、あこがれる余り、地上の生活を何ら意味のないものとしてしまう傾向も多いものです。しかし、そのような視点では、苦しむ人々に真の解決策を示すことは出来ませんし、イエスが行ったようにその時代の人々に分かり易く、実用的な手法を説明する必要があります。
 この時、重要なことは「明るさ」だと考えます。もちろん現実には先行きの問題も多く見えるのですが、そのような悲観的な想念ばかり抱いていては、その方向のみが実現することとなり、本来の宇宙的な活動が失われてしまいます。
 大震災の翌日、海は何事も無かったように静かな日常を取り戻し、鳥達も平静さの中で暮らしていたように、安定的でより大きな宇宙法則が実際には支配的です。私達は結果に左右されず、常に因となる現象の起動力に軸足を置いて、宇宙を動かす根本原理を自らの拠り所としなければなりません。そうすれば、各自、現状の境遇を楽しむ余裕も出るのではと思う次第です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第12章-段落127

127 We find that students who have studied under one teacher or another are very confused and living in a state of dissatisfaction concerning the world they must call home. They are looking to the day when they will be privileged to become the inhabitant of another planet. They can see no beauty in this world, being conscious only of the pain and misery which exists.
127 私達はある一、二の教師の下に学んできた生徒達が大変混乱していて、自分達が我が家と呼ばなければならない世界に関して不満足な状況の中で暮らしていることに気付きます。彼らは自分達が他の惑星の住人になれる日を待ち望んでいます。彼らはこの世界に何らの美しさを見ることは出来ず、そこにある苦痛や悲惨さのみを意識しているのです。


【解説】
 宇宙文明との関わりについての研究の場合、問題になるのは学習者はとかく自らの欠点はさて置いて、問題の原因を地球という惑星の状況や支配階層のみの問題に集約することだと思います。もちろん、そのような要素もあり、アダムスキー氏の言うサイレンスグループが活躍する場であることについては否めません。
 しかし、そのこと以上に、民衆の一人一人の自覚の問題があること、また、一方では地球も神の創造物として十二分に美しいことも揚げなければなりません。
 とかく教師達は、自分の生徒を引き付けて置くために危機感をあおったり、他のグループの欠点を指摘しがちですが、生徒は先ず、その教師の本質を把握して、自分を託せる相手であるかどうかを見極める必要があります。これはコンタクティーだと称する人間の出現についても同様です。そもそも真に教師たり得る人物を探すことは容易ではありません。
 それよりは、各自自身の中に居る創造主とのチャネルの拡大を第一に考え、私達創造物に期待されていることを、日々実行する方がゴールに近い気がしています。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第12章-段落126

12 EMOTIONAL BALANCE
126 As we all know there is a great unrest all over the world. The conditions existing in the national, home, and personal life all display quite clearly the loss of equilibrium which now exists. Each individual feels the need for security and the people of the earth are demanding something that will bring about more stable conditions. The desire for equality and balance and some feeling of assurance have caused some people to return to the churches and many to follow the teachers who profess to know all of the answers concerning the new dispensation. Unfortunately there are extremely few individuals who are equipped with this type of knowledge.

第12章 感情のバランス
126 私達全てが知っているように、世界中を大きな不安が覆っています。国家や家庭そして各人の生活の状況は皆、明らかに今や均衡を全く失っている事態を示しており、実際そうなっています。各自は安心の必要性を感じており、地球の人々はより安定な状況をもたらすものを求めています。公平さやバランス、そして確かさの幾分かの感じへの願望は人々を教会に立ち戻し、また多くの者をその新たな摂理に関する全ての答えを知っていると称する教師達に従わせています。しかし、残念なことにこの種の知識を備えている者は極めて少ないのです。


【解説】
 本書が執筆された1960年代の状況について詳しくは分かりませんが、戦後の東西の陣営の軍拡競争の中で世相は不安定であったようです。しかし、事態は50年経った今日でも大きな改善はなく、むしろ地球規模での自然災害の増加や原子力発電所の事故等により、不安定さは増しているように思います。
 実は本項で述べられている「教師」についての問題は、残念ながらアダムスキー哲学についても言えることです。道を求める人はいつの時代にも多いものですが、肝心な真理を伝え得る教師は少ないものです。日本ではアダムスキー哲学を直接、アダムスキー氏から薫陶を受けた者はいませんし、殆んどが氏の著作を通じて学んだ者となっています。
 また、ある一面を理解したからと言って、その教師が人間的に勝れているということはなく、全人格を受け入れるに値する教師を探すのは極めて困難です。その結果、私達は氏の著作を通じて、アダムスキー氏が何を訴えていたのかを学び、必要な知識を自分なりに整理する方法しか、学ぶ道はありません。各自がその中で体験した真理をたとえ小さくても後に続く者に伝えること、一人一人の成果を積み重ねることしか、方法はないのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第11章-段落125

125 Here lies the answer to the question as to the constant urge in the heart of every human to know more about the composition of forms as well as the cause and purpose of action, for it is the Cause Parent impressing the effective child to know more about the vast possibilities so that he may enjoy all that the Father has to give.
125 ここにあらゆる人間の心の中に行動の理由と目的と共に、形あるものの構成について更に知りたいとする絶えざる衝動に対する答えがあります。何故なら、結果である子供が父が与えるべき全てを楽しめるよう、広大な可能性について知りたいとする印象を子供に与えているのは因の親であるからです。


【解説】
 私達はこれまでも万物の創造主の存在を只漠然と「父」と呼んで来ましたが、それは2000年前にイエスがそう呼んだことから、それを真似ているに過ぎません。その「父」なる言葉の意味を深く考えたことは無いように思います。本項では私達人間各自に対し、等しく創造主が働き掛け、現在人が思う以上に素晴らしい世界の中に暮らしていることを認識させようと仕向けている「宇宙的生命の親」の姿について述べられています。
 ここで私達は、既に自分の内側に広大な天国の要素が用意されており、私達は只それに気付くだけで良いのだとしています。細胞のDNA分子には知識と記憶の数々が含まれているのかも知れませんし、私達の持つ意識体の中には既に十二分な英知が詰まっています。私達は他に外に向かって求める必要は無く、心を鎮めてひたすら自分の内側に耳を傾け、印象に鋭敏になれば良いということでしょう。第二の誕生は、従来の心中心、感覚本位の生き方から、意識中心、印象中心の生き方への一大転換を必要としています。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第11章-段落124

124 It is man's duty to be a happy child in his Father's house, and to do this he will have to be aware of the house. He must be aware that he is now in the heaven that he is seeking to enter and that within his form of self is the ever present all-inclusive intelligence.
124 自らの父の家の中で幸せな子供になることは人の義務であり、それを為すためには、人はその家の存在に気付かねばなりません。人は自分が現在、入りたいと求めてきた天国の中に居ること、また自身の形あるものの内側に全てを包含する永続する英知があることを気付かねばなりません。


【解説】
 私達は創造主から愛されている存在であることに、まず気付く必要があります。恵まれた存在であり、必要な全てが既に与えられているという訳です。しかし、いくら創造主が息子のことを思って支援を続けていても、肝心な息子達はそのことに気付かぬまま自分達の概念の中に留まっています。
 日々、生きているありがたさ、毎日安らかに眠り、翌朝爽やかに目覚めて一日を働くことが出来る喜びは当たり前のようですが、病に倒れた後はそのありがたさが良く分かるものです。私達の普段の生活の中に創造主の御手の計らいが満ちていることに、まずは感謝したいものです。
 これまで本章では、再びの誕生について学んで来ましたが、それにあたって必要なことは、私達の従来の生活はそのままに、丁度蝶の成虫への脱皮のように、新しい自分、新しい概念の中で生きようとする一大決心が必要だということでしょう。
 これまで、自分の肉体の内側に心があることは承知して来ましたが、本項ではそれと同時に宇宙までも包含する英知が合わせて存在することを指摘しています。即ち、再びの誕生に必要な条件は全て整っており、後は各自の脱皮の行動だけだという訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第11章-段落123

123 Not until the teachers understand this can they save anyone or themselves. Many scientists are closer to the second birth than is any so-called spiritual student. One of our greatest scientists made the remark, "When I am fatigued with mental effort and have ceased to ponder over a problem I find that is the time when the truth of the question is most clearly revealed to me." This is a glimpse of the second birth-when the mortal consciousness is released into the hands of the vast consciousness the veil of limitation is rent asunder and truth is vividly perceived.
123 教師達はこのことを理解するまでは、誰もまた自分自身も救うことは出来ません。多くの科学者達はいわゆる霊的学者より、この第二の誕生に近づいています。今日最も偉大な科学者の一人はこのような所見を述べました。「私が精神的努力で疲れ切り、問題について考え込むのを止めた時が、その問題の真理が最も明瞭に現れる時になることは分かっています」。これは死すべき肉体の意識が広大な意識の御手の中に解放され、制限のベールが引き離され、真理が鮮やかに知覚される第二の誕生を瞬間的に見たことなのです。


【解説】
 この分野の教師たる者、或いは道を求める者が修得して置かなければならないのは、このポイントにあると著者は指摘しています。
 「宇宙意識と一体になる」云々と語られることが多いのですが、その具体的な方法論については、あいまいに終わることが多いものです。それに対し、本項では「ある科学者」の言葉として、心による問題解決への格闘を諦め、心が鎮まった時、解答が来るとする例をあげています。
 つまりは、この科学者は経験上、物事への執着を取り払い、心自体がその問題解決に対し無能であることを認めた時、答えが来ることを「知っている」ということが大事なところです。
 問題に行き詰ったら、散歩をするとか、気分転換を図る方が良いとする「街の経験則」もそれに類似したものでしょう。心自体では解決等が見当たらない時は、いち早く心自体のガムシャラな労苦を中断し、因の助言をお願いすることです。俗に言えば「困った時の神頼み」ですが、大事なのはその後だと考えています。つまり、解決策を与えられ、喜んだ後は自らに与えられた因からの援助に感謝し、益々因の力の偉大さを学ぶということが、より重要です。
 とかく当面の事態が解決したことだけでほっとして終わってしまいがちですが、それではこれら貴重な体験は生かされず、遠からず再び同様の問題を抱えることとなります。貴重な体験から学び生かすことが進歩に繋がると考えています。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第11章-段落122

122 The second birth does not necessitate the death of any form of consciousness nor the death of the body; it necessitates only the uniting of the two phases of consciousness into the awareness of oneness. The second birth produces unlimited awareness, uniting heaven and earth. The sense consciousness and the all inclusive consciousness become equally balanced and man begins to learn about the Cosmos.
122 第二の誕生は意識の如何なる形式の死も、肉体の死も必要とするものではありません。それは唯一、意識の2つの側面を一体性の自覚の中に統合することだけを必要とします。第二の誕生は無限の気付きを作り出し、天と地とを一つに結び付けます。感覚の意識と全てを包含する意識は互いに等しくバランスし、人は宇宙を学び始めるのです。

【解説】
 本章冒頭(119)にあったイエスの言葉「第二の誕生」について、アダムスキー氏は本項で更に説明を加えています。第二の誕生を「生まれ変わり」とも言い換えることが出来ますが、その意味は因との統合性にあるとしています。因である「天」と現象(物質界)である「地」とを一つに結びつけることだと述べられています。
 筆者の力量の限界から、詳しく表現することは出来ませんが、古来からその一体感とはどのようなもので、そのような心境、或いは視界になるのか、関心が集まっていたものと思われます。即ち、イエスや仏陀の周囲に集まる人々、更にはそのような悟りを得たと称する数多くの教祖に人々が魅力を感じるのも同様です。
 もちろん、教師に付くことは早道かと思いますが、信頼できる教師が見当たらない昨今の状況では、各自、自らの内側にある因の導きを頼りに自習することです。また、本項を読むと分かることは、とかく現世のものを捨てることで達成するかという話もありますが、本項ではそのようなことを一切、推奨するものではなく、物質と因との両方を等しくバランスさせよとしている点に注意が必要です。私達はとかく、"1"か"0"かのどちらかを選択しがちですが、物質と意識を等しく融合させる心境が重要だということでしょう。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第11章-段落121

121 The Master said, "No man ascendeth up to heaven except he that came down from heaven, even the Son of Man which is in heaven."(John 3:13) Meaning that the second birth is the conscious return into the original Cause state out of which all things proceed into the world of form. Man has descended from Cosmic Cause and he has the privilege to return again to that impersonal state of conscious awareness of Cosmic Cause. When he was born into the world of form he became lost in the appearances of matter and no longer understood the vast Cosmos. He has given himself over to the dictation of the senses and his mind is slow to accept the guidance of the soul. His understanding of the universe has become limited to the effective world - his whole attention is given to the analysis of form and he has been blinded to the Cause back of form. So before he can come into his own original self, he will have to be born again - born into the unlimited perception of the All Intelligence. As the first birth has given man an understanding of the form world like himself the second birth will expand his awareness of the unmanifested Cause world. Man's duty now is to burst the bonds of ignorance - to emerge from the matrix of earth and perceive the vastness of Cosmic Cause.
121 その導師は言いました。「天から降りて来た者以外に天に昇る者はいないのだ。天にいる人の息子でさえも。」(ヨハネ3:13) それは第二の誕生は全てのものが形ある世界に向けて進行して来た源の原初の因の状態に意識的に帰って行くことを意味しています。人は宇宙的な因から降り来たったものであり、人は宇宙的因の非個人的な意識的気付きの状態に再び帰る特権を持っています。人が形ある世界の中に生まれた時、人は物質の外観の中で迷子になり、広大な宇宙をもはや理解しなくなってしまいました。人は自分をその諸感覚の指図に差し出してしまい、人の心は魂の導きをなかなか受け入れようとはしません。人の宇宙への理解は結果の世界に限定されるようになり、その関心の全ては形あるものの分析に注がれ、形あるものの背後にある因に対しては盲目になっています。ですから人が自分自身の原初の自分になるには、再び生まれる、即ち全英知の無限の知覚の中に生まれる必要があるのです。最初の誕生は人に自分自身のような形あるものの世界についての理解を授けたように、第二の誕生は未だ現象化していない因の世界についての気付きを拡げることでしょう。今日の人の義務は無知の束縛を破裂させること、地球の地殻から抜け出て、宇宙的因の広大さを知覚することです。


【解説】
 このイエスの言葉を素直に読めば、「現在、他惑星にいる人々も元々は地にあって天に昇って行った人々である」、言い換えれば本章で言う再び生まれた人間だと言うことが出来ると思います。その天に帰ることがどういうことかを本項では詳しく説明しています。
 とりわけ本項で強調しているポイントは、私達は生来、因を知覚するに十分な能力を有していたのですが、結果の世界、即ち物質の世の中に生まれてからは物質のみに心を奪われて、その物質を生み出す原動力である因については何ら学んで来なかったことです。その原因は私達の判断全てが私達の肉体の4つの感覚によって為され、自分の感覚で把握出来るもの以外は信じないという私達自身の問題が大きいことが分かります。
 これに対して、因の存在、即ち宇宙意識の導きを信じて、人間にとっては時折示されるその指示に従う中で、次第に万物を生み出す因の作用を学ぶ中で、私達は再び天に帰る存在になると言うことが出来ます。何よりも因に対する知識と信頼が必要で、そうする内に文字通り、因に通じた人間、不老不死の存在になるものと考えます。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第11章-段落120

120 Thus spoke the Christ, to whom Life had revealed her mysteries. This statement has been made the very foundation of religion, but Nicodemus of old, who asked of the Master, "How shall this be? Can a man enter the second time into his mother's womb?"(John 3:4) is not alone in his ignorance of the second birth.
120 生命がその持つ神秘を明かした相手であるキリストがそのように話されたのです。この声明は宗教の基礎とされていますが、年老いたニコデモは、導師に「どのようにすれば、これが為されるのですか。人は自分の母親の子宮に二度目に入ることが出来るのですか(ヨハネ3:4)」と尋ねましたが、それは彼一人がこの第二の誕生について無知であった訳ではありません。



【解説】
 実は2000年経っても「神の王国」、即ち、因の世界についての私達地球人の認識についての進歩は無いのかも知れません。また、私達のように「生命の科学」を学ぶ者も、未だ肝心なポイントを十分には理解せず、環境や結果物に支配された生活を送りがちではないでしょうか。
 この最も近い存在である因、宇宙意識の存在を自覚するために、イエスは「再び生まれなければ」と表現されたのです。その意味は「誕生する」という中にあるように思います。私達は最初、この地上に各自、何処の星からか、或いは何処かの地からやって来て生まれ落ちたと考えます。それは第一の誕生ということになります。再びの誕生とはこのような肉体の誕生を意味するのではなく、更に因の世界に生まれ出ることだと思っています。つまり、第一の誕生の場合、生まれ来る赤子は何の抵抗も無く、全てを委ねてこの世界に生まれ出るのであり、その存在の全てをこの世界に委ねるような心境かも知れません。その中でこの世界の一員としての生命が始まる訳です。
 それと同様に、「神の王国」、因の世界に生まれることは、何の抵抗もなく身を委ねてその世界が今後、自らを守って呉れることを信じて、その世界の一員としての生活を始めるということかと考えています。赤ちゃんがすやすや眠る光景は、何の心配もなく生まれ落ちた世界を信じ切っている姿を表現するものであり、私達も因の世界の加護と恩寵を頼りとして生きて行くべきことが求められているのだと思います。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第11章-段落119

11 TO BE BORN AGAIN
119 "Verily, verily, I say unto you, except a man be born again he cannot see the kingdom of God." (John 3:3)

第11章 再び生まれるために
119 「まことに、まことに私は貴方に言って置きます。人は再び生まれなければ、神の王国を見ることは出来ません」(ヨハネ3:3)


【解説】
 イエスはニコデモに対して、人間は再び生まれなければ因の世界を見ることが出来ないと言ったとヨハネ伝は伝えています。一説に、アダムスキー氏はこれを伝えた使徒ヨハネであったとも伝えられていますが、イエスの身近な言動の持つ意味を2000年後の今日の宇宙哲学として伝えなおしている点は、地球人にとって進歩の道は長いものだと感じさせます。
 人の誕生はいわば、因の世界から結果物である物質の世界に生まれ落ちることですが、本項ではその後、再び因の世界に覚醒しなければ、即ち再び生まれ出なければ因を理解することは出来ないと言っています。しかし、これは一度に起こる訳ではなく、前項(118)にあるように、長い時間を掛けて次第に覚醒が進むということです。ある程度以上の理解が進んだ段階で、目覚めが起こるのかも知れません。そのような因の世界を自覚し、覚醒することが必要だという訳です。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落118

118 It behooves us then to study Principle instead of focusing all of our attention upon the effects of Principle (source of origin). When we direct our attention towards that inner guiding force we become fully awake and feel the inter-relationship of all life. There has never been a time when one released the personal ego to this inner force that he has not seen some immediate result of action; so as one becomes more fully aware of his oneness with the All-Intelligence his faith is increased and consequently his fear is decreased. Faith is the result of one's unity with the Whole, and such unity cannot take place until every thought of selfishness with its whole category of resultant fears steps aside and leaves the highway of understanding free of barriers. So we may see that absolute faith is not of easy attainment - it must come through a gradual growth just as all things change by degrees. Faith is actually an expansion of conscious awareness to include more knowledge and certainty of action.
118 ですから私達がその注意をすべて法則(源泉)の結果物に集める代わりに、法則を学ぶべきということは当然なのです。私達がその内なる導きの力に向かって注意を向ける時、私達は完全に覚醒し、全生命の相互関係を感じ取るようなります。人が個人的エゴをこの内なる力に解き放つ時、行動の直ちに起こる結果を見ないままで終わることはありません。ですから、人が自身が全英知と一体になっていることに、より完全に気付くようになるにつれて、その者の信仰は増し、その結果、その者の恐怖は低減します。信仰とはその者が全体と一体になった結果であり、このような一体化は全ての結果に及ぶ利己的なあらゆる想念が脇にどいて、理解の王道から障害が無くなるまでは有りえません。ですから、私達は絶対的な信仰というものは容易には達成できるものではないことは分かると思います。それは、丁度、全ての物事が少しずつ変化するのと同じように、なだらかな成長を通じて実現する筈です。信仰とは実際には、行動に対するより大いなる知識と確かさを含む意識的知覚力の拡張であるのです。


【解説】
 Faith(信仰)のまとめです。前項(117)でも述べられていたように、私自身の内側、即ち、自分の手足よりももっと近く、私という存在の近くに力強い導きの力があり、その力こそ万物を支配する法則を司っているという訳です。
 そのような恵まれた環境の中に私達が居る以上、外側の現象化済の世界にのみ心を奪われることなく、内なる存在に対し、敬意を払ってその導きを信じることが大切です。
 また本文にあるように、この法則は現象世界を統制している以上、そこを通じての理解は直ちに実現力のある想念波動として物質界に作用し、具体化する筈です。それ故、本文にも速やかに結果として表れると表現されているのです。
 私達の進化の道は着実に一歩一歩の歩みが必要で、毎回の成果を確認しながら、前進することになります。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落117

117 Our lack of fear is not due to our confidence in matter but our inherent faith in the principle supporting and controlling matter. I say inherent because Cosmic Cause which produces faith is within every one. It is closer than hands and feet and whether or not we as mortals openly admit its existence we do realize it or we would not be conscious, living beings.
117 私達に恐怖が無いのは私達が物事に確信があるからではなく、物事を支配し、統制している原理に対する生まれながらに存在する信仰がある為です。私は信仰を作り出す宇宙的因は誰もの中にある為、生まれながらに存在すると言っているのです。それは貴方の手や足よりも近くにあり、死すべき私達が公にその存在を認識していると認めるかどうかによりません。何故なら、そうでなければ私達は意識ある生き物とはならないからです。


【解説】
 私達はどんな不信心な者でも、自然界に流れる宇宙法則については、当然のごとく信じているという訳です。実はその法則なるものは私達に内側にも等しく流れており、その身近さは自分の手足よりも近いということがポイントです。つまりは自分というものの内側にいつも寄り添い、常に参照できる位置にあるということになります。
 それゆえに私達は「意識ある生き物」になっていると文中にあるように、この法則は私達の意識にも密接に関連したものでもあります。その意識への信頼を通じて、法則原理を学ぶこと、それを探求することが重要だと考えます。
 個々の事象を深く探求する姿勢と、その事象を下支えしている原理の意義と目的について学ぶという両面が私達が向き合う姿勢として望ましいのではと考えています。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」第10章ー段落116

116 Do we worry that the rivers will start flowing up hill, or drop a weight and hold our breath that it might rise again, or throw a ball into the air and doubt that it will return to earth? No, for again we know the principle governing such action.
116 私達は川が丘を遡って流れるかも知れないとかを心配し、或いは重りを落として再び昇って来るかも知れない、或いは空中にボールを投げて再び地面に戻って来ないかと息を凝らすことがあるでしょうか。いいえ、ありません。何故なら、この場合もやはり私達はこのような行動を支配している原理を知っているからです。


【解説】
 私達の身の回りには私達が考える以上に、従来から当たり前に見ていた物事が数多く存在します。これらの現象に対して、私達はそれらの現象が何時変化するかも知れないと不安視することはほとんど有りません。
 しかし、これら全てを法則の手に委ね、一切を当たり前のように見ていることは、必ずしもあるべき姿ではないように思います。多少、本項の主旨からは外れますが、やはり自然環境の中に息づく法則性、即ち平等に作用し、ブレの無い働きへの畏敬とその奥にある原理の探求こそ、私達人間の役割だと思うからです。
 これらの現象に対して日常的に私達が安心して居られるのは、未熟な私達に対する創造主の贈り物なのかも知れません。さもなければ、他の諸々の心配事と相まって、私達は恐怖だけの生活を送ることとなり、すぐにも滅んでしまうと思うからです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落115

115 Why do we have perfect confidence that the sun will rise each day? Have you ever known a man rising each morning, hours before dawn, to sit wringing his hands in tense anxiety over the prospect of eternal darkness? No, we have no such fear, and the primal reason that we do not doubt in this case is because the action of the suns and planets is greater than our mortal mind can conceive and therefore we leave such actions entirely in the hands of the All-Knowing Principle which understands and perpetrates all action. In this case we realize our personal insufficiency and so do not concern ourselves by exerting mortal effort in regard to it. We simply allow it to take place.
115 何故、私達は毎日太陽が昇って来ると完璧に確信して来ているのでしょうか。貴方はこれまで毎朝起きては夜明け前に永久に闇が続くことを恐れる余り、両手を握り締めて座すような人を知っていますか。いいえ、私達にそのような恐れはありません。また、このような場合に私達が疑いを持たない主な理由は、諸太陽や諸惑星の行動は私達の死すべき心が計り知りえるより偉大であり、それ故、私達はこれらの行動を全ての活動を理解し、それを為す全知の法則の手に完全に委ねているからです。この場合、私達は個人的な力量不足を自覚し、その為、それに対して死すべき者の努力を行使して自分自身を係らせようとはしないのです。私達は素直に起こるに任せているのです。

【解説】
 水平線の奥からオレンジ色の太陽が姿を見せる時、私達は自然と雄大で荘厳な宇宙の営みが、私達の日常として起こっていることを自覚します。また、その昇る太陽に手を合わせたくなるのは、私達日本人ばかりではないのかも知れません。同時に、また昇る太陽の速さが速いのにも驚かされます。
 私達はこのように、ダイナミックは宇宙スペクタクルの中に毎日を暮らしている訳ですが、時たま訪れる海辺の朝の風景に立ち会う時以外は、このような光景が起こっていることすら気付かずに、各々の一日を始めています。
 本項では、こうした毎日の日の出の光景に対し、私達は信頼を置いているというよりは、最初から無関心で宇宙の法則に任せているとしています。私達の力の到底及ばない法則だからとして、無関心でいるという訳です。
 しかし、これは真の信仰(Faith)とはかけ離れています。私達はもっと誠実に私達の日常を支えている宇宙的英知、宇宙の法則を探求し、感謝すべきなのです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落114

114 There is no such thing as absolute unbelief; there is only a growth from the lesser faith to the greater faith. As the teacher Zoroaster explained, "Evil is but unripened good." Likewise, fear is but undeveloped faith. Man has come from Cause Intelligence to the world of effects; his mortal sense mind lost the memory of Cosmic Cause and he is now in the process of reestablishing himself; he is on his way back to oneness with the Principle where selfishness with all of its innumerable effects is dissolved. It is through the recognition and realization of Cause that faith is stabilized.
114 絶対的な不信心というようなものは存在しません。より少ない信仰から、より大きな信仰への成長があるだけです。教師ゾロアスターが「悪とは未成熟の善である」と言ったようにです。同様に恐怖は未発達の信仰なのです。人は因なる英知から結果の世界に生まれ来たり、その死すべき感覚心は宇宙的因の記憶を失い、今や自分自身を再構築する過程にあります。人は利己心がその無数の結果物と溶け合う一大原理と一つに戻れる道の途中に居ます。信仰の安定化は因の認識と実感を通じてなされるのです。


【解説】
 人間の成長とは何かについて本項は説いています。「因から生まれた私達」とは各自の由来は人の受精卵を発端とする訳ですが、その極小の存在が今日の人間一人に成長して来ることになります。その間、その実体としての存在は本来、変わるものではない筈です。つまりは私達は究極に考えれば、物質的にはゼロから生まれているということも出来ます。しかし、ご存知のように、この実体の起源は物質ではなく、因に由来します。私達は実際には因からこの世界に生まれ来たとも言うことが出来るでしょう。
 さて、実はその間に私達の心は因に関する記憶を失っており、各自の人生においては、この因への回帰が主要な目的の一つということになります。結果しか信じない心、成果しか信用しない気持を一旦捨てて、現象の奥にある因なる英知の存在に気付くことが大変重要であり、そうする中で因に対する信頼感も増して来るように思います。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落113

113 The development of faith in man is the growth out of the personality into the impersonal expansion of awareness; from effect to the cause back of all effects.
113 人における信仰の発達は、個としての自分から非個性的な知覚の表現への成長、結果から全ての結果物の背後の因への成長のことなのです。


【解説】
 従来、アダムスキー哲学で度々取り上げられていた「Faith」(注:ここでは「信仰」と訳しています)の真の意味が、この一節に良く表れています。即ち、従来は「信念」と訳されて来ましたが、この「信念」は個人的願望に対するがむしゃらな意志の強化というようなものではなく、物質の奥にある意識的な衝動に対する同調力のようなもの、知覚力だと明言していることに注意したいものです。
 私達は「自意識」と表現されるように、全て自分を中心に物事を考え、良否を判断しています。しかし、本項の短い文章の中に、「非個性的な知覚の表現」とあるように、良否や損得を超えた透明感ある姿勢の中で、因に仕えることが求められています。また、そうすることで、各自の知覚力は深まり、歩むほどに因の存在とその偉大さを確信することになるようです。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落112

112 At this point you will, of course, say, "But the seed could not grow without the support of the earth, air, water and sun." This is true, but as the seed obeys the command of the Cosmic or Cause intelligence all necessary elements unite to bring it forth. The seed is not commanded to push through the ground in the cold winter months nor does it seek to grow without that urge from within. It waits patiently till it feels that the time for growth has come. What would happen if the seed questioned the urge to grow as man questions new ideas of a broader conception of life that try to impress themselves upon his mind? As the seed by not resisting the urge grows into a beautiful bush, so man, likewise, may be assured that if an idea or desire arises that is impersonal, it is there for a purpose and if acted upon will produce beneficial results. A desire can be kept from manifesting only through the effort of the personal will in resisting action. For the thought or desire is the actual Cause which fathers the outward conditions.
112 この時点で貴方はもちろん、こう言うでしょう。「しかし、種は土や空気、水や太陽の支援無くしては成長出来ない。」このことは真実ですが、種は宇宙の、或いは因の英知の指令に従うため、全ての必要な要素が種の発芽を実現するため、結束するのです。種は寒い冬の月日に地面を貫いて突き進むよう命ぜられることはありませんし、そのような内部からの衝動無くしては成長しようとはしません。それは成長の為の時期が来たと感じるまで忍耐強く待っています。もし種が人間が自分の心に印象付けようとしているより広い生命の新しい概念を疑問視するように、成長への衝動に対して疑問に思ったら、どうなることでしょう。種がその衝動に抵抗することなく、美しい茂みに成長するように、人間も、もし非個人的なアイデアや願望が起こった場合には、それ(訳注:アイデアや願望)は一つの目的の為にそこにあるのであり、もしそれに応じて行動すれば恩恵のある結果を作り出すことでしょう。願望は抵抗的行動をとる個人的意志の影響によってのみ現象化から遠ざけられるのです。何故なら、想念や願望は外側に向けての状況を生み出す実際の因であるからです。


【解説】
 例えて言えば、私達自身をカラシ種に置き換えると分かり易いのかも知れません。とかく私達は自分の外側、即ち外界の影響を多く受けます。様々な環境状態の他にも、鏡に写った自分の姿、等々です。しかし、私達自身の肉体を維持しているのは外側の環境ではありません。私達自身の内側にある様々なシステムである訳です。
 実はこの自分自身の真の姿について、その実態を未だ私達は十分に把握してはいません。カラシ種になりきって、その内側を見ようとする時、私達はまだ何一つ把握できていない訳です。自分の内側の実態がどのようなものかを理解して行くかは大きな課題なのです。
 さて、この内側から私達の諸々の想念が生まれるのですが、本文の終わり近く、想念の潜在力について著者が明言している事柄は特に重要です。つまり、元来、想念は創造主のそれと同種のものである以上、大きな実現力を持っているということです。より望ましい想念のみを発し、利己的なもの、その他の有害、不要なものは断じて発することが無いようにしなければなりません。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落111

111 How often quoted is the expression of the Christ, "If ye have faith as a grain of mustard seed ye shall say to this mountain, remove hence to yonder place, and it shall remove; and nothing shall be impossible to you." (Matthew 17:20) This statement has been used to show how little faith is necessary to bring forth manifestation. Notice, however, that the words are not "faith as great as a grain of mustard seed" but "faith as a grain of mustard seed." Not the quantity of faith but the quality of faith is called to note in this statement. Let us study the consciousness of the mustard seed. Is it ever overcome with fear in regard to its personal existence? What causes it to grow? Is it not the conscious impulse force within it which promotes it into action? The seed knows nothing but this urge within itself which causes it to expand, burst its shell and proceed upward into the light. It does not seek to resist this force of natural growth nor does it wonder if it is right to act in this manner. It acts unquestioningly according to the law or principle of its purpose. It does not look to effects - neither to man, to earth, water, or sun. It expands into a mature bush because the forces within it command it into such growth.
111 これまで何回、キリストのこの表現が引用されたことでしょう。「もし、汝に一粒のカラシ種ほどの信仰があれば、この山に対し、ここからあそこの場所に移れと言えば、その山は移るであろう。貴方に不可能だというものはない。」(マタイ17:20)。この表現は創造作用をもたらすのに、如何に小さな信仰が必要なだけであるかを示すため、用いられて来ました。しかし、それらの言葉は「カラシ種一粒の大きさの信仰」ではなく、「一粒のカラシ種ほどの信仰」としているのです。信仰の量ではなく信仰の質がこの声明の中で求められていることに注意して欲しいのです。カラシの種の意識を研究して見ましょう。それはその個人的な存在に関して恐怖に打ち負かされているということはないのです。何がそれを成長させるのでしょうか。それを行動に突き動かすのはその種の中の意識的衝動ではないでしょうか。種は自分の中にあるこの衝動しか知っておらず、それが膨張し、殻を弾けさせ、光に向かって上方に進み出します。それは成長のこの力に抵抗しようとはせず、またこのように行動することが正しいかどうか迷うことはありません。それは法則あるいはその目的の為の原理に沿って、疑問を持つことなく行動します。それは人間、地面、水や太陽に対する影響を見てはいません。内部の諸々の力がそのような成長を命じる故に、成長した茂みになるのです。


【解説】
 言うなれば山をも動かす力が想念にはあるという訳です。このように想念、思い、信仰の念は大きな潜在力があるのですが、本項で著者はその潜在力の大きさを述べているのではありません。もともとイエスが伝えたかった信仰の質について解説しているのです。
 今日的に言えばカラシの種一粒の中には、将来のカラシの茂みを構築するに必要な情報と知識があり、種を発芽させ、成長させるに必要な一切の知恵が詰まっていることになります。このDNAをはじめとする情報分子と発芽のOKサインを出す意識体が種を支えていることは私達にも容易に分かります。
 しかし、カラシ種と私達自身を比較して分かることは、本文中にも述べられているように、種はその生きる全てを全て自分自身の内側にある英知に依存し、内なる意識の声を聞いているのに対し、私達人間はほとんど全てを自分自身の外側、即ち環境のせいにしていることが揚げられます。社会の情勢、経済条件等、様々な状況が私達の日常生活を支配しており、私達自身、環境の下僕と化しています。
 実はこれら環境こそ、前項で言うEffect(結果)の最たるものです。原因となる想念が作り出したものに原因を作った私達自身が支配されている訳です。
 これに対し、私達一人一人が内なる存在に対する信頼(Faith)を高め、それを頼りとすることで、本項にあるようにカラシ種と同様な生き方が出来ることになります。山が動くかどうかは別として、驚くほどの結果(Effect)がもたらされることは間違いありません。

ジョージ・アダムスキー「宇宙哲学」 第10章-段落110

110 If we analyze fear we will find it to be produced by a state of wondering in regard to our support and safety. In most every case fear is focalized about one's personal being or self-interest. Most men look upon the activities of life in the light of the effect that they will have upon themselves and those dear to them. They are living in the consciousness of the effective world, depending upon outer things for their support, and the recognition of the instability of outer effects produces a condition of uncertainty within their own minds. We may say then, that fear is the self-centered state and faith is living the impersonal state of being. Fear is based on effects; faith is based on Principle or Cause.
110 もし私達が恐怖を分析すれば、私達はそれが私達への支持と安全に関する不安状態によって作り出されることを発見するでしょう。ほとんどの場合、恐怖は自分の個人的な存在か自身の関心に焦点が当てられています。ほとんどの人達は、それらが自分自身や自分達にとって大切なものに与える影響という光で人生の活動を見ています。彼らは結果の世界の意識で生きており、自分達の支えを外側の物事に頼り、外側の結果物の不安定さの認識が心の中に不安定な状況を作り出しています。ですから私達は恐怖とは自己中心の状況であり、信仰とは非個人的な状態と言うことが出来ます。恐怖は結果に基づくものであり、信仰は法則、即ち因によっているのです。


【解説】
 よくアダムスキー哲学の中では「Effect」という表現が用いられ、それに対応する日本語の訳語として「結果」という言葉が用いられて来ました。しかし、日本語のイメージとしては、本来、「結果」に対応する言葉は「Result」という語を充てるのが一般であり、原語のEffectに含まれる語彙について少し述べておきたいと思います。
 本来、Effectに当る直接的な日本語表現としては、「効果・影響」という言葉になります。もちろん、「Cause and Effect」という熟語の訳として長らく、「原因と結果」として訳されていることから、本項においてもそれに倣って「結果」と訳出している訳です。
 即ち、本来のEffectとしては、何かの原因からもたらされた直接的ないし間接的な効果・影響を指している点に注目して戴きたいのです。つまりは、物質の奥にある目に見えず、耳に聞こえない因なる要素が発する衝動想念が具体的な物質世界に作用させ、出現したもの、その衝動の影響を受けて形あるものとして創造されたものがEffect(結果)だという訳です。
 しかし、私達人間にも当てはまる訳ですが、創造され、誕生した時には元来の創造主の意向に沿った存在であったものが、時を経過するにつれ、自我を強めたり、周囲と摩擦したりして老化が進行してしまうことも多いのです。このように創造の意気込み自体は永遠に活気あるものですが、結果物は移ろい易いものだということでしょう。このような因なるものの投影や作用の末に生まれ出たものをEffect(結果)と言っている訳です。
 本題の恐怖については、自分自身や近親者の保身をこのような本来、不安定なものに拠り所を置いていることから来る訳で、損得を捨てて、より安定なる因、即ち創造主の意向が作用する中に置くことが唯一の解決策になると言っているのです。
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