2009年08月

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落096

096 For instance: you are reading. When you reach the bottom of the page you will turn it and continue to read. Yet, before your hand made the slightest move to turn the page, your mind first had to formulate the thought, "This is the end of the page. Turn it and continue reading the next."
096 例えば、貴方が本を読んでいるとします。貴方がそのページの最後に到達したら、貴方はページをめくり、次を読み続けるでしょう。しかし、貴方の手がページを返そうとわずかな動きをする前に、貴方の心は最初にその想念を形作る必要がありました。「ページの終わりだ。ページを返して次を読み続けよう」と。


【解説】
 心や肉体の行動の一部始終を指令し、支配しています。また肉体はその心の指令に従っています。これら日常的な行動について私達はその過程を自覚することなく過ごしている訳です。
 しかし、心の実態を把握する為には、時としてどのようなことが起っているのか、私達はしっかり把握する必要があります。つまり、心が発する想念の実態とそれが行動として表現される時の肉体各部の呼応状況を知ることです。そうする中で想念が実は万物に作用し、諸々の実現力を持つことも分かることでしょう。つまり、各自が望むことは遠からず実現するということでもあります。
 先日、休みに尾瀬を散策して来ましたが、私にとって新しいルートとなる山道を進んだ時、前方に立ちはだかる急峻な坂に出会いました。目は「とても行けない、引き返そう」と訴えますが、落ち着いて、恐れる目を遠くを見て恐れるのではなく、目の前の限られた場所のみを見ることとし、一歩一歩安全な足場を確保しながらゆっくり進めば、意外にこれらの難所を越えられることが分かりました。ゆっくりした一歩ですが、着実な一歩を積み重ねれば、一見大きいと思える問題に対しても解決できることを体験できました。心に対する毎日の発見こそが、重要な意味を持つように思います。

お知らせ

 明日から今週いっぱい、再び夏休みを取る予定です。再開は週明けの予定です。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落095

095 I then turned to analyzing what impressions were, and found many of them to be what we classify as thoughts; our conscious thoughts, as well as the commands our minds are constantly transmitting to the various parts of our bodies.
095 私は次に向きを変えて印象類が何であるかを分析することにしましたが、その結果、それらの多くが私達が分類上想念とするもの、私達の意識に浮ぶ想念類であるとともに、私達の心が私達の身体の様々な部分に絶えず発している指令であることが分かりました。


【解説】
 想念観察の難しさは観察する者と観察される者とが同一であるからのように思われます。おそらく観察に成功すれば本項に書かれているように、沸き起る印象(想念)の出所を分析できるようになることでしょう。しかし、私も含め多くの方にとって、いざ観察をしようと身構えると想念は引っ込んでしまって何も見つからないというような現象が起りがちです。それは海辺の砂浜に多数のカニが棲んでいる状況に似ています。人が来ると慌てて砂の穴の中に身を隠しますが、人が去った後は砂浜で皆活発に動き回る光景です。各々が自分の身を守ろうとする習性があるということです。
 しかし、私達は自分の正体を見極めなくてはなりません。その為には、互いの緊張関係を無くし、ある程度は和やかに互いに包み隠さずありのままの姿を見せあう、リラックスした関係になることが大切です。たとえ観察の結果、自分の汚い部分が見えたとしても、それは長年月歩んだ人生航路の中で身に着いてしまったものですし、やむを得ません。少しずつ綺麗にして行けば良いことです。大事なのはありのままの自分を素直に見詰め、自身の実態を先ずは知ることだと考えています。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落094

094 This called for a great deal of patience; but I was finally able to train my senses to listen so they could receive impressions without question. Admittedly, this was most difficult to do, for the old thought-patterns insistently reappeared and gave their interpretations to my mind. But as I continue to gain control over my sense-mind, my impressions became more distinct; containing an increasing number of thoughts of a universal nature, with less involvement in personal opinions.
094 これは非常に多くの忍耐を要しましたが、私は最後は自分の諸感覚を疑義を差し挟むことなく印象を受け取れるよう耳を傾けられるように訓練することが出来ました。正直なところ、これを為すのは最も難しいことでした。何故なら古い想念のパターンがしつこく現れ、私の心に彼らの解釈を与えたからです。しかし、私が私の感覚心に対しコントロールを掛け続けた結果、私の受ける印象はより明白なものになり、個人的な意見についてはますます含まなくなる一方、宇宙的な性質の印象はますます数を増して来たのです。


【解説】
 よく「無心で○○をする」という表現を聞きますが、それは「心が自分の意見を持たず、余計な反応を掻き立てる余地なく印象をひたすら受け入れ、それに基づき同時に行動する境地」を指すものと考えます。本項で述べていることも「疑問や解釈、判断、批評等」を行うことなく、印象に率直に耳を傾け、感覚自体の反応を鎮めることが重要だとしているのです。
 そうすることで私達が感受する印象はよりはっきりしたものになって行く、即ち、私達の感受性は高まるとしています。これらの状況は地球においては大人になるにつれ、逆に衰え、鈍感になって来ているように思います。毎日毎日の記憶、感動した時の印象等、年齢とともにまばらなものになり、習慣性は高まる一方で、新しいものへの感受性は退化しているのが実態です。
 これに対しては努めて今までの習慣的想念を捨て、これまでの志向性を脱ぎ捨てて、常に新しい側面を取り入れ開発することが望まれます。かつて一遍上人が熊野本宮で阿弥陀如来から夢で「信不信をえらばす、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」とのお告げを受けましたが、その中にも本項と同様、「相手に対して感覚自体の反応や批評を行わず、ひたすらメッセージを伝えるべし」とする、遠く鎌倉時代に発せられた宇宙からの印象があったものと思われます。ちなみにその一遍上人は詩人、坂村真民も着目し著作(「一遍上人語録 捨て果てて」(大蔵出版 1994年))を残しております。私は「捨て果てて」という一遍上人の言葉の真意は、この感覚の勝手な意見を全て捨て去ることを指すものと思っています。自分を無にすることの重要性を本項は述べているのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落093

093 Fully realizing that my next step must be the discipling of my senses and the observation of impressions received by my mind, I decided on a definite plan to follow, a sort of mental ledger. On one side I placed all thoughts received throughout the day that were of a personal nature; and on the other side I recorded the universal thoughts upon which I had acted. At the end of each day I would tally my score to decide whether limiting, personal opinions, or universal insight had governed the day.
093 そのことを完全に理解した後、私の次なるステップは私の諸感覚の鍛練と私の心によって感受された諸印象の観察である筈で、私はある種の精神面の取引記録という追うべき明確なプランを決めました。片方には一日を通じて個人的な性質であった想念の全てを置き、もう一方には私は私が行動した宇宙的な想念を記録しました。毎日の終わりに私は限界がある個人的な意見か、宇宙的な洞察がその日を支配したかを決着する為、得点を集計することとしました。


【解説】
 本項はいわゆる日本で「想念観察ノート」と呼ばれていることについての記述です。各感覚から成り立っている私達の感覚の心(Sense Mind、センスマインド)の実態を把握すること、またその観察を通じてその元となる各感覚を鍛練することがこれを通じて達成することが出来るとしています。
 実際には感受する想念は時に膨大な数となりますので、一つ一つノートに記載する作業は容易ではないと思われます。私自身は過去に何度か試みましたが、このような記録を付ける作業は途中で頓挫したままになっています。しかし、重要なのは各感覚反応を観察することであり、それによって自分の心の実態が良く分かります。また、良し悪しを断ずることなく、観察を続けることで自然と全体は良い方向にシフトして行くことは、私のささやかな経験からも分かります。
 ネパールのチベット仏教の寺院では寺院の最上部の壁に目が描かれているそうです。宇宙を見通すこの目は同時に人々を見て人々の心を観察するかのようです。また、「観世」という言葉もありますが、これも同様に人間の心や行動を観察する仏の姿勢を表わしています。想念の観察には、より良い方向を気付かせ、導く大いなる力を持っているのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落092

092 But before my contact with the Brothers, as I sincerely endeavored to progress, I realized it was imperative to coordinate my senses to harmonize with, and fully understand - Cause. For this Cosmic Intelligence is back of, and permeates, all manifestation. I am aware of the fact that I have stressed this point more than once. But this subjection of the dissenting sense perceptions is a major factor in controlling the mental processes.
092 しかし、宇宙兄妹達とのコンタクトの前から、私は進歩に向けて誠実に努力して来た結果、私は自分の感覚を因と調和し、完全に理解するよう統合させることが絶対に必要であると実感しました。何故なら宇宙の知性はあらゆる創造物の背後にあり、染み通っているからです。私はこれまで一度ならず、この要点を強調して来たことは分っています。しかし、異議を唱える感覚の知覚反応を制圧することは心の過程を制御する上での主要な要素なのです。(訳注:原文では再終行But this subjectionからthe mental processes.までは太字体で印刷されています。)


【解説】
 古来より修養の必要性は数多く説かれて来ましたが、その根本は各自の四つの感覚反応をよく観察し、鎮め、因との関係を理解させることにあると率直に説いた例は、アダムスキー氏以外に聞いたことがありません。自分の心を見つめるということは具体的には、瞬間瞬間の各感覚反応を自ら観察することだと明言しているのです。
 この境地に到達するまでには、アダムスキー氏自身、長年月の試行錯誤があったものと思われます。事実、アダムスキー氏が宇宙兄妹達と公式に会見した後、氏自身の教えが正しいことを宇宙兄妹達から確証を与えられたのが、氏が61才の頃ということになりますので、実に長年月の間、氏は独力で探究して来たことになります。
 自分との対峙は実に毎日、毎秒のことですので、その積み重ねが正しければ進歩の歩みも次第に早まるものと思います。その結果としてより健全な人生を歩める訳で、先ずは何を優先すべきか、何を常にコントロールすべきかを自ら明確にしなければなりません。そうするとそれらの態勢がやがて自然に行えるようになり、宇宙の調和の中に伸び伸び生きると同時に、その人の人生も進歩に向かう着実な歩みを見せることになります。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落091

091 All of this has been verified by the space Brothers, for they have observed and evaluated these phases of human activity in relation to the Cosmos.
091 この全ては宇宙兄妹達によって事実であると確証されました。彼らは大宇宙との関係における人間活動のこれら側面を観察し評価して来たからです。


【解説】
 宇宙兄妹達もこれまで述べられたことを、自ら学び取ったことを本項では述べています。つまりは、宇宙の真理は自ら学び取るものだと言うことができます。とかく、アダムスキー哲学を信奉する人は、アダムスキー氏の多くの著作から物事のエッセンスを学ぶ一方、とかく、その内容を憶えることで終る傾向があるので注意が必要です。自ら自然を観察し、掴んだ真理こそが本人の学習の成果であり、単に言葉の羅列では意味はありません。
 私達の進む道は大変長く、遠いものであるように思います。しかし、私達自身の仕事は私達自身が進める他はありません。またその過程は創造主によって絶えず見守られており、時々に応じて支援の手も差し伸べられるように思われます。
 一度に登り切ることは出来ません。むしろ理解できる範囲内で自らの現状を見極めることから、進歩の歩みが始まるように思います。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落090

090 I then knew that Feeling was truly the Master Builder who had formed this body of mine; and that it could build empires in the absence of the other four senses. From this conclusion, I saw that my mind was only reflecting and reacting according to my limited knowledge of life and its purpose.
090 そして私はフィーリングが実に私のこの身体を造った棟梁であること、またそれは他の四感が無い中で王国を造り上げることが出来ることを知りました。この得た結論から、私は自分の心は生命とその目的についての私の乏しい知識に応じて心が反映し反応しているに過ぎないことが分ったのです。

【解説】
 ここのわずか数行に書かれている内容は二つの重要なポイントがあることに注目したいと思います。
 第一は、フィーリングが私達の身体を具体的に造り上げた存在であるということです。これまでの学習から本書でいうフィーリングとはどのようなものを指すのか、ある程度のイメージは読者の皆さんの中にあるものと思います。しかし、私達地球人は生まれてからこの方、或いは以前の人生からも、このフィーリングの実体について正しい教えを受けることはありませんでした。ですから、早い段階でフィーリングとはどのようなものか、それをよく知ろうとする気持、即ち心の受け入れ体制が重要となります。
 目をつぶり、あたりに物音がしない場所で、じっと端座すると自分が知らず知らずの間に息をし、心臓の鼓動も感じ取れます。この生命活動を糸口に、各自フィーリングに対するイメージを探究することが必要です。
 第二は、本項では私達の心が生命とその目的に関して極めて乏しい知識しか持っていないとしていることです。注意したいのは乏しいのは生命とその目的に関することで、むしろ他の分野の知識は過剰である可能性が高いのです。つまり、片寄った知識状態を是正する必要があることになります。生命に対する認識程度、自らも含めて各生命体が果たすべき役割等、私達がバランス良く発達する為に、もっと生命(いのち)に対する理解を共感を高める必要があるということです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落089

089 I received my answer direct. "All of these are your potential when the senses give up their individual will unto the Will of Feeling. For Feeling is the Cardinal Sense . . . the expression of Cosmic Cause flowing through your being."
089 自分の返事は直接受け取りました。「これらの全ては、諸感覚がそれら自身の意志をフィーリングの意志の前に捨て去る時に出現する貴方の可能性なのだ。何故ならフィーリングは基本的な感覚であり、貴方の存在を通じて流れる宇宙の因の表現であるからだ。」


【解説】
 前項の種々にのぼる感覚の拡張機能は、十分可能であると本項では明言されています。私達の知覚力はこれまでの目に見える、音として耳に聞こえるものばかりでなく、幅広い因の領域にまで拡げられる潜在力を有しています。これは一見、従来の目の機構、耳の仕組みと矛盾するようですが、私達の感覚が自らの意志を捨てて、素直に対象に向かう時、背後にある因から適切な印象を受け、その感受する領域が一挙に拡大するものと思われます。
 本項では後段に「フィーリングの意志の前に感覚の意志を捨てよ」と述べています。仏教用語として喜捨という言葉がありますが、これまでその「捨てる」対象として、各自の所有物のみが強調され、物に支配されない生き方が主張されて来ました。しかし、ここで分かるように、その本題はむしろ、各自の感覚の意志を印象の前に捨てることこそが重要だと言うことです。言い替えれば、全ての生活を自分が感じた「印象」を最優先に送ることです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落088

088 Thinking deeply about all this, I asked myself, "Suppose I had sight so great that I could see television pictures without the aid of a television set. Suppose my hearing was so keen I could hear the beautiful music traveling through space from station to station without using a mechanical device. Would not my sight and hearing be developed into the fourth dimension?" I then turned my attention to the senses of taste and smell. Suppose I were able to taste the apple before it matured; or detect the fragrance of the flower before it blossomed; would I not have the senses of a superhuman.
088 これら全てのことを深く考えた後、私は以下の事柄を自分に問いかけました。「テレビの助けを借りずにテレビ映像を見ることが出来る程の大いなる視覚を持っていたとしたら。」「私の聴覚があまりに鋭敏なので機械装置を用いることなく放送局から放送局の間の空間を伝わる美しい音楽を聞くことが出来たとしたら。私の視覚や聴覚は四次元の中にまで発達出来ないであろうか?」次いで、私は自分の注意を味覚と嗅覚に転じました。私がりんごが未だ熟する前にそのリンゴの味を味わうことが出来たとしたら、或いは花が咲く前にその花の香りを嗅ぐことが出来たとしたら、私は超人の感覚を持つことになりはしないかと。


【解説】
 本項では正しい訓練を受けた感覚が将来、どのような感受機能を持つかを例示しています。よく言われる例はオーラを見ることが出来る人は目で見える光の波長範囲が広いとされています。本項に書かれている具体的な事柄についての原理等は不明です。しかし、各感覚器官が現象のみでなく背後に息づく宇宙の創造力を知覚できるようになると、宇宙を流れる映像信号や音声出力の波動を認識できるようになるものと思われます。丁度、パソコンで様々な形式の映像、音声ファイルが再現出来るのと同様です。
 また、合せて未来予測も可能だとしています。花のつぼみの段階でこの花がどのように咲き、香りをもたらすかが分ってしまうとしています。これについては植物育種家のルーサー・バーバンクの逸話を思い出します。バーバンクは試験農場を見回りながら、いとも簡単に将来優れた品種になるものを選り分けていたとされています。彼にはそれらが将来どのように成長するかが分っていた訳です。
 私達も各々自らの感覚を調和させ、あらゆるものの背後にある真の生命力に感謝し、与えられる印象を大切にする等、訓練を続けることで、最後はこれらが可能になるまで進化するものと思われます。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落087

087 To use the violin as an example: we all know the four strings of a violin must be tuned with delicate precision before the musician is able to bring forth the subtile harmonies that this instrument is capable of producing. The pitch of each string must harmonize perfectly with the other three. The four senses of man may be compared with the four strings of the violin; for he must attune these senses to work together as a unit in order to fulfill his true purpose in life. And, just as the violin can be used to play baser music, yet it can, under a master's hand, produce melodies to thrill the souls of men so the sense perceptions, turning from effect to Cosmic Cause, will extricate themselves from the mire of self-delusion. They will in this way break old thought-patterns and habits which express automatically through the senses. Carnal mind, being innately lazy, accepts the opinions our senses have formed through their contacts and experiences, never bothering to search for the true Cause behind all effect.
087 例としてバイオリンを用いることを考えましょう。私達は皆、バイオリンの4弦は演奏家がこの楽器が創りだせる精妙なハーモニーを生み出す為には事前に細心の精度で調律されなければならないことを知っています。各々の弦の調律は他の3弦と完全に調和されていなければなりません。人間の4つの感覚はバイオリンの4弦になぞらえるでしょう。何故なら人は人生における自分の真の目的を成就する為にはこれら感覚を一体となって共に働くよう調律しなければならないからです。そして、バイオリンが低レベルな音楽に用いられることができると同様に、巨匠の手の元では人の魂を震わせる程のメロディーを作り出すように、感覚の知覚が結果から宇宙の因に転向すれば、諸感覚は自己欺まんの泥沼から自身を解放することでしょう。諸感覚はこのようにして感覚を通じて自動的に表わして来た古い想念パターンや習慣を打ち壊すことでしょう。生まれながらに怠惰である肉欲の心は、全ての結果の背後にある真の因を求めようと煩わされることなく、自分の感覚が接触したり経験したりしたことを通じて各感覚が作り上げた意見を受け入れるのです。


【解説】
 バイオリンは人に近い楽器であると以前、ある人から伺ったことがあります。よく見ると四つの弦があり、四つの感覚と似ていますし、演奏も身体と一体になって行われることもその理由と思われます。
 確かにこれら四弦がバイオリンの精妙な音色の源である訳で、私達の感覚も同様に各々が正しい調律を済ませれば、思いも寄らない世界を感知することでしょう。
 同じ楽器でも演奏する者の力量によって生まれる音楽には大きな違いがあります。私達自身が自分の四感をどのように調律し、各自美しい音律を出すことが出来るかが問われている訳で、自らの感覚を調和ある状況に保ち、表に現れた現象のみでなく、あらゆるものの背後にある因を知覚しようと努力することの報いは大きいと本項では述べているのです。

お知らせ

 大変残念なお知らせがあります。米国のマデリン・ロドファー夫人が、本年(2009年)5月26日にお亡くなりになったとのことです。本日、かねてより親交のあった熊本の友人から私に連絡がありました。皆様、御存知のようにマデリンさんはアダムスキー氏の最晩年にワシントンD.C.におけるアダムスキー氏の活動を支えた人物です。有名な近接撮影の8mmフィルムを撮影したり、アダムスキー氏の最期を見送る等、大きな貢献をされました。
 大変、明るい人物で、私も1982年にお会いし、その帰りにマデリンさんの運転する車の窓越しにスカウトシップを目撃する等、大変印象深い思い出があります。マデリンさんからは多くのことを學ばせて戴きました。とりわけ、上空の宇宙兄妹達への信頼に基づいたあの明るさは、多くの日本人が學ぶべき側面であるように思っております。
 いずれ機会があれば、改めて当時のインタビュー内容を皆様に公開したいと思っています。
 なお、マデリンさんのお別れ会は8月23日に催されるとのことです

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落086

086 When I realized this, I began to school myself by utilizing the law of patience. Even though at first my senses did not understand this law, I knew through discipline they would eventually obey. And by the very fact of acknowledging that they were subject to a higher law, they would in time understand the purpose behind each act; the Cause, (or Creator) behind effect. Therefore, my first step must be to coordinate my sense reactions to a unity with, and understanding of - Cause.
086 私はこのことを悟った時、私は自分を忍耐の法則を使って訓練し始めました。最初は私の感覚達はこの法則を理解しませんでしたが、私には鍛練によってそれらは遂には従うようになることが分かっていました。そしてそれらがより高次な法則に従うことを自覚した事実によって、それらはやがて各々の行為の背後にある目的や結果の背後にある因、(創造主)を理解するようになるのです。ですから、私の最初のステップは私の持つ感覚の反応を、因との一体と因の理解に向けて調和の取れたものにしなければなりません。


【解説】
 各感覚の訓練が必要だと、これまで述べて来ましたが、それではどのような面について訓練や学習が私達に必要なのでしょうか。生命の科学第1課にも同様な事柄が記述されてきますが、物事の背後にある原因、各創造物の存在の目的を知ろうと忍耐強く努力せよと本項では述べられています。
 その一番の研究の対象は私達自身であるように思います。その日の感情がどのように身体の各細胞に影響を与えているか、精神的な原因と実際の体調となって表れる結果としての私達の身体の関係等、本人が最も良く分かっているからです。
 また、各自の生涯を有意義なものとする為にも、研究対象は先ず私達自身にすべきことは良く分かります。各々自分の自我(心)とは長い付き合いです。その相棒を忍耐強く所定の方向に導くことは、自分の人生を豊かにするという、他には無い結果をもたらします。そしてその仕事は他の者では成し遂げられない各自の任務とも言えるのです。自らに向って忍耐強くあれと本項は述べているのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落085

085 Thus, if we're to become a peaceful unit within ourselves, we must constantly guard against these wayward senses, and subdue their criticism and prejudices; for these are the greatest causes of divisions in the family of human relations. Our personal judgments divide brother against brother - nation against nation.
085 ですから、もし私達が私達自身の内側で平和的な単位となるのであれば、私達はこれらわがままな諸感覚に対して常に監視していなければなりませんし、それらの発する批判や偏見を抑制しなければなりません。何故なら、これらは人間社会に分断をもたらす最大の原因となるからです。私達の個人的な裁きは兄弟に対して兄弟を、国家に対して国家を分断させるからです。


【解説】
 「心一つに」という表現がありますが、私達はこれら4つの心の分身を互いに協力、調和する体制を作り上げる必要があります。その為には、心が共に従うべき存在、意識あるいは創造主の意志を最重要視することが必要です。より大いなる者に対する受容的な姿勢を通じて、各々の未熟さを知る訳です。
 しかし、単なる憧れだけでは具体的な進歩に到達しません。日々の努力、少しずつの行動の積み重ねで各自は様々な体験を経て進歩して行けるというものです。逆に少しばかりの能力が生まれながらにして備わっていたからと言って、精進がなければ退歩、脱落は必定です。
 私達は当面、日常的な各自の感覚反応を監視して、行き過ぎないか、裁きはないかを見張っている必要があります。中にはその監視をくぐり抜けていつの間にか感情の波に自らが流されてしまっていたということもあるでしょう。少しずつ、自分の理解できる範囲で、毎日少しずつ歩む他はありません。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落084

084 It is these four avenues that make up the mind of man today. They are the jailers holding him to the realm of the effective world; and until he can loosen their shackles by conquering them through self-control, man will remain a slave unto their whims. It is through our senses that we pass judgment on conditions, persons, nations; not understanding the oneness of all with Cosmic Cause.
084 今日の人間の心を作り上げているのはこれら四つの大通りです。それらは人間を結果の世界の領域に閉じ込めている看守であり、人が自制によってそれらを克服し、彼らの足かせを緩めるまでは、人は彼らの気まぐれの奴隷のままでい続けることでしょう。宇宙の因とともに全てとの一体を理解することなく、状況や人物、国家に対して裁きを下しているのは私達の感覚を通じてなのです。


【解説】
 地球人を長年、この程度の文明に留めて来た原因は、感覚の奴隷として閉じ込められていることにあると言うことです。しかし、その直中にある私達は、そのことの重大性に気が付きません。地球という惑星においては誰もが同様な人生を送っており、感覚を拠り所とする生き方を送っているからです。
 以前、「禁断の惑星」というSF映画がありましたが、その舞台は地球です。ストーリーの詳細は割愛しますが、ヒロインの父親の科学者が本人が気付かない心の奥で、娘を守りたいが為、感情が強烈な力を発揮して探検隊員を次々に襲ってしまうという話です。この映画の持つ意味は感情の力は実に強力であるということでしょう。
 本書で学ばれている皆様は、私達が各々の感覚の反応(感情)に左右され、支配されていることが分かる筈です。この感情こそが問題で、私達は時として殺人を犯す程、感情に支配されがちです。これに対し、本項ではself-control(自制)によって状況を改善できると述べています。自分の感情や行動を自ら制すること、感覚反応を鎮めることが重要だとしています。
 「怒りは敵と思え」と言う言葉がありますが、心に「裁き」を抱かせず自己を冷静に保つことで、表面的な感覚に左右されることなく、より深遠な印象の世界が広がって来るということです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落083

083 Now do you see why I say the senses war with one another? how uncoordinated they are and how they pass judgment on each other?
083 もう貴方は何故私が感覚達が互いに戦い、またそれらが如何に協調性に欠け、互いに裁きを下し合っていると言うのか、お分かりになるでしょう。

【解説】
 よくよく各感覚の争いについて、これまで述べられてきました。各自の精神発達の上でこれら各感覚の調和は最初の課題であるということでしょう。私達は通常、外界との接点としてこの感覚に頼っている訳ですから、その感覚を如何に自然と調和あるものとするかが、大変大事なことです。
 もちろん、これまでの学習から、私達の感覚器官の物事に対する姿勢には結果のみを見て、原因を見ないという重大な欠点がありますが、一方の背後にある因、意識を重要視しても、肝心の自らの心を作り上げている各自の感覚そのものの取組姿勢を受容的なものに改め、自ら謙虚にならなければ、「意識!、意識!」という空文句に終ってしまいます。とにかく、日常、私達が感受する一つ一つの中に各々背後にある原因や理由、事柄の経緯を知り、その物の存在意義を学ぼうとする姿勢が必要なのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落082

082 This same dissention exists in the relationship of the other two senses. The palate may savor the delicious flavor of certain rare cheeses; but in many cases, the nose is so outraged by the accompanying aroma that it interferes with the enjoyment of eating the delicacy. So it is very apparent that in their dealings with each other, the four senses are constantly bickering, contradicting, and trying to gain autonomy over the others.
082 これと同じ論争は他の2つの感覚の関係においても存在します。舌はある珍しいチーズの美味しい風味を味わうかも知れませんが、多くの場合、鼻はそれに伴う香りに憤慨し、その美味を賞味する歓びを妨げます。ですから互いの関係において四つの感覚は他に対して常に言い争い、反駁し、自律性を得ようとしていることはとても明らかなのです。


【解説】
 本項を読んで思い浮ぶのは、よくある仏像の構図です。片足で小さな邪鬼を押し付ける毘沙門天等の四天王像がそれです。像を良く見ると足で押さえ付けられている邪鬼はやんちゃでわがままな子鬼を表わしており、実は根っからの悪者ではないように見えます。確かに押さえ付けている四天王の方は厳しい表情をしていますが、その姿勢は鬼を殺そうとしている訳ではなく、あばれ回らないよう押さえ付けているにすぎません。
 人間の課題はまずはこの各自の4つの感覚を、より静かで落ち着いたものにすることです。その為には、時に厳しく自らを律することも必要なのです。その邪鬼達もやがて自らの真の役割を教えられ、主人に従うようになれば、もっと優れた才能を発揮するようになるでしょう。絵画や音楽、料理等、感覚本来の才能を発揮できる分野も多いからです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落081

081 Actually, both are right. The eyes did see the man, and the ears did hear the footsteps. If they had been properly coordinated or synchronized, the eyes would have told the ears what they saw, and in place of a flat contradiction, the ears would have accredited the report. When the ears heard the sound but the eyes did not see the man, the eyes, after scanning the hall carefully, would have admitted it was something they did not understand; yet have accepted the information given by the ears. In other words, instead of arrogantly accusing the other of telling an untruth, each would have conceded that they could have been mistaken.
081 実際には両者とも正しいのです。目はその男を見たのですし、耳はその足跡を聞きました。もし両者が適切に連携、或いは同調していたら、目は耳に対して自分達が見たものを伝えたでしょうし、単純な否認の代わりに耳はその報告を信頼に足ると評価したことでしょう。耳がその音を聞き、目がその男を見なかった場合でも、目はホールを注意深く見渡してそれが自分達が理解出来ない何かであることを認め、耳から伝えられた情報を受け入れたことでしょう。言い換えれば、他を嘘を言っていると横柄に非難する代わりに、各々は自分達が誤っているかも知れないことを認めるようになることです。


【解説】
 既存の感覚が捉えられない要素があることを認めることが大切だと思っています。未知なるものに対して、各々の感覚が互いに情報を共有しながら、限界があるにせよ、その本質を掴もうとする姿勢が望まれているのです。
 一方、現実には感覚器官が取扱う形に現れている現象についての情報と同時に、まだ現実化しない状況下においても「こうした方が良さそうだ」と感じるような印象の把握も起ります。様々なケースにおいて印象を優先させて得た良い結果と、印象に重きを置かなかった為に得た失敗の経験から多くを学んだ後は、ある程度、今後起る状況について自然と感知出来るようになるものです。
 その為、既存の感覚器官については、もちろん身体活動の上で無くてはならないものとして大切にすべきことはもちろんですが、それら感覚に依存することなく、宇宙を流れる印象類の目に見えず、耳に聞こえないフィーリングの世界に各自の関心を寄せる必要があるでしょう。鏡の前で化粧に余念のない女性を見てわかるように、既に私達は十二分に自分自身について高い関心を持っており、結果の世界の変化に一喜一憂している訳です。むしろ、既存の物質化する前の段階、即ち原因の世界につながるインスピレーション(印象)の世界からもたらされる情報に重きを置く等、バランスをとった生き方が望ましいと言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落080

080 We will now reverse the procedure, and by remote control produce the sound of walking down the aisle. This time the eyes will accuse the ears of conjuring up an imaginary situation. Again, the argument will rage between the senses, each one sure it is right.
080 今度は手順を逆にして、遠隔制御を用いて通路を歩く際の音を出して見ましょう。今度は目が耳に対して魔法を使って想像上の状況を作り出したと非難することでしょう。再び感覚の間で各々自分が正しいと確信して議論が荒れ狂うのです。


【解説】
 大事なことは私達各自が各々の感覚(器官)の主人(あるじ)にならなければならないということです。4つの感覚はそれぞれ有能ではありますが、それらに全てを委ねていては王国は立ち行きません。それらは各々の一面から見た意見を主張して来るだけであり、それら家臣の述べる意見に耳を傾けることは大事であるにせよ、最終判断は主人が行わなければなりません。
 もちろん、これら4つの感覚の他に主人にはフィーリングという言わば情報機関からの支援があり、絶えず印象の形で居ながらにして必要な情報が寄せられています。
 これら両面から得た知見から、適切な判断が出来る筈だと言えるでしょう。もちろん、家臣への日頃の薫陶も大事な主人の役目となっています。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落079

079 The eyes see the man, but the ears hear no sound; therefore, the sense of hearing accuses the sense of sight of giving false information. The man is there, however, but due to their lack of respect for one another, neither the eyes nor the ears will concede that they could be mistaken; so the argument between them cannot be satisfactorily settled.
079 両目はその男を見ているのですが、両耳には音が聞こえず、その為、聴覚は視覚に対し嘘の情報を出していると非難しています。しかし、男はそこに居ますし、感覚同士、互いの尊重が欠けている故に、目も耳も自分達が間違っているかも知れないということを認めようとはせず、その為、彼らの間の議論は満足の行く解決ができないのです。


【解説】
 感覚同士が互いに尊重し合わないことが、そもそもの問題だということです。これは個人の間についても言えることです。他人や環境に左右されない自我の確立や独立性等、各自の意志を強くすることが求められる余り、自分の主張を押し通すこと、ディベート(議論)で相手の論点を打ち負かすことが能力が高いとされる風潮も生まれてしまいました。
 しかし、このままでは柔和や柔軟さを尊ぶ日本古来の生き方はやがて失われるかも知れません。訴訟社会となれば最終的に裁判で決着が着くまで争えば良いということにもなりかねず、平和はありません。
 ちなみに「『和を以って貴しとなす』(聖徳太子の十七条憲法第1条)の和とは「因」と「縁」の出会いの結果を言い、和とは単に仲良くではない。和を大切にするとは因と縁の出会い、つまり因縁の法を厳粛に受けとること。日本仏教の祖といわれる聖徳太子が、その因縁法をふまえて『和を以って貴しとなす』と示すゆえんがここにある。つまり、自己中心の我執、すなわち自己の利益・立場をごり押しするな。また自分たちだけの利益のために、徒党を組んでごり押しするな。「和」を大切に思うなら、因縁法(原因と結果)、すなわち、何故、何故を明らかにするために徹底的に話し合い(議論)をしなさい。ということである。(以下略)」という記事(http://www.dotcolumn.net/blog/index.php?p=66)が出ていました。原因と結果を明らかにしようとする等、「生命の科学」のエッセンスそのものではありませんか。真理は既に、聖徳太子の時代から伝えられて来たことを知ることが出来、嬉しくなりました。
 彼ら他惑星人社会では意思伝達はもっぱら印象によるものがほとんどでしょうから、そこに感覚による主張は入り込むことはなく、他惑星人の感覚は各自が生きる上で必要不可欠な存在とはなっていないものと思われます。また一人一人の感覚は十分コントロールされた中にある為、地球人のような極端な感情の起伏を示すこともありません。
 これら感覚の反応は死を前にして次第に消失して行く訳ですが、実は既存の感覚が消失するにつれて反対に多くの印象を感受し易くなるように思います。よく死の瀬戸際まで行った者が救命措置によって助かった後で、家族に「実は大変気分が良かった」「美しい景色を見た」等々の話しをする事例がありますが、この臨死体験は今までの感覚の支配が無くなる時に、代わってフィーリングが働き始めて、それまで感受できなかった印象類が一斉に入って来ることを意味しているように思っています。もちろん、私達は日常的に生きている最中において、これら宇宙からの印象を感受することを目的としていることは言うまでもありません。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落078

078 Here are a few examples of how the senses disagree. First, let us use this fanciful situation. In a hall seating a thousand people, imagine we have sensitized the floor to the degree where an insect falling upon it would register a sound loud enough to be heard by all; and to implant this information strongly in the minds of those present, we have conducted a number of experiments demonstrating the sensitivity of the floor. So if, by the trick of using heavily padded soles, we have a man walk down the aisle without producing the sound of accompanying footsteps, the following imaginary conversation might take place between our eyes and ears.
Eyes: "I see a man walking down the aisle."
Ears: "Impossible! I hear no sound."
Eyes: "But I tell You he is there. He's about half way down."
Ears: "It's your imagination. We both know how sensitive this floor is. I'd hear anyone walking down the aisle."
078 ここで各感覚が如何に互いに意見が合わないかを示す若干の例を挙げましょう。この空想上の状況を採用しましょう。千人の人々が着席しているホールの中で、一匹の虫がその上に落ちても全員に聞こえるようなだけの大きな音が記録されるような位に床の感度を高めたとして、その情報を強くそれらの人々に植え付ける為に、私達はその床の感度を実証する数多くの実験を行って来ました。そこでもし、靴底に厚い当て物をするというトリックを使って、一人の男に足取りに伴って発生する音を出すことなく、通路を歩かせたとすると、私達の目と耳の間で以下の想像上の会話がなされるかも知れません。
 目:「通路を歩く一人の男が見える。」
 耳:「有り得ない! 全く音がしていない。」
 目:「しかし、言って置くが、その男はそこにいる。もう半分の所まで来ている。」
 耳:「それはあなたの想像だ。私達二人共、如何にこの床の感度が高いか知っている。もし誰かがその通路を歩けば聞こえる筈だ。」


【解説】
 これまでの講座から、私達は自己の感覚に支配された奴隷になっていることを学んで来ました。しかし、感覚反応に自分が完全に組み込まれている為に、そもそも私達自身と自分の感覚との違いを自覚することは難しいのです。また、その心の中の葛藤というものも、突き詰めれば矛盾する二つの感覚の意見に由来するということを本項は示しているものと思われます。
 一方、自然界を観ると、動植物達の行動には葛藤や迷いは認められません。草は刈り取られる間もなく、新しい芽を出しますし、虫達は迷うことなく花を訪れ、蜜や花粉を集めるのに忙しく働いています。そこには歓びこそあれ、悲愴感は一切ありません。彼ら人間以外の創造物はもちろん、各々の鋭敏な感覚を有し、それらを各々の生存活動に不可欠なものとなっています。しかし、彼らと人間との最大の違いは、彼らはその存在を100%創造主に委ねているということだと思っています。一瞬一瞬、油断の無い自然界の中で生きて行く彼らにとって、かくも落ち着いて短い各々の生涯をひたすら全うしようとしている背景には、自らを守ろうとする感覚器官以上に創造主に全幅の信頼を置いていることがあるように思えます。
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