2009年07月

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 明日から今週いっぱい、夏休みを取る予定ですので、ご了承下さい。再開は来週早々の予定です。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落077

077 As I studied carefully the actions of these four senses, I realized that each one stands alone, contradicting and fighting with the others. Since each sense has a will of its own, it can, and does oppose the other three; and in so doing, it opposes the Cosmic Will. This condition will continue in man until he becomes a unified being; understanding himself in all his component parts.
077 私がこれら四つの感覚の行動を注意深く調べた結果、私はそれらが各々孤立しており、互いに反論し、言い争っていることがよく分かりました。感覚は各々自分の意思を持っておりますので、それは他の三つに対して反論できますし、そうしているのです。また、そうすることで、宇宙の意志に対抗しているのです。この状態は人が自分を構成する様々な部分の全ての中において自分自身を理解する一体となった存在にならない限り、続くことになるでしょう。


【解説】
 人が抱える問題が、その四つの感覚が互いに他を尊重せず、各々勝手に騒ぎ立て、裁きを行っていることにあると指摘したのは、アダムスキー氏が初めてです。私達は未だ、そのことの重要性について十分認識できてはいませんが、その真理は他惑星社会で実証、応用されたものを私達地球人に授けられたことを良く考える必要があります。つまりは、人間の問題は自身の中にあり、各自がそれと対峙すること以外に解決の道はないからです。
 また、これまで私達は感覚反応に由来する感情に従って生きて来ましたので、問題の各感覚反応自体に気付きにくいことも事実です。自分が毎日、どのような想念を抱いているのかにも関心を持たなければ、自分自身の問題も見えて来ません。
 様々な対象を親しく観察する中で、他の創造物と人間の違いや自然界における生命の発現に学ぶ所が多いものと思われます。四つの感覚をどのような方向性に束ねて行くのか、各自の工夫も求められている所です。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落076

076 Let me explain it in this way. The mind of the average human we encounter today expresses only the opinions gathered from the reactions of his four senses. Therefore, his so-called intelligence is hampered by his likes, dislikes, and autocratic judgment of all that he does not understand. He should not be condemned too harshly for this. It has been the accepted attitude for ages. We have allowed our four senses to be the domineering rulers, quarreling and dissenting amongst themselves; totally unaware of the Creative Force which brought them into being.
076 このように説明しましょう。今日私達が出会う平均的な人の心は只、その人の四つの感覚の反応から集められた意見だけを表現しているということです。その為、その人のいわゆる知性はその人の好き嫌いや、自分が理解しない物事すべての専制的な裁きによって妨げられています。しかし、人はこのことについてあまりに厳しく非難されるべきではありません。それが長年にわたって受け入れられて来た態度であるからです。私達は私達の四つの感覚が威張り散らす支配者達であることを許して来たのであり、それらは言い争い互いに異議を唱えながら、それらを産み落とした創造力に全く気付いていないからです。

【解説】
 私達の問題は、「裁き」にあるように思います。通常、その裁きは対象物を見た瞬間、耳に音が入った瞬間に私達に対しての感情として現れます。これはいわば各自のエゴの好き嫌いからなのですが、その反応の湧き起るのは実に速いものです。これらは長年の習慣から、私達が各感覚の代弁者になって来たことが原因です。物事の本質を知ろうとする代わりに手っ取り早く外見的な判断で済ませて来たからに他なりません。
 これでは表層の奥にある真理を悟ることは出来ません。それを改善する為には、この感覚反応にそのまま従うことなく、冷静に他の印象やより深く静かな波動に心を同調させる必要があります。本来、宇宙に流れている深遠な印象類に私達の関心を寄せることが必要です。空を行く雲や流れる水を見て、何を感じるのか、大自然の中に私達の求める生命力の現れを見るように心掛けることです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落075

075 Once I understood this, I knew that this force, born of Cosmic Intelligence, is the foundation of all life. Nothing need be added; all is present. But I, as a physical man, must recognize and begin to use this all-inclusive power. At this point, I took a closer look at my mind. To my surprise, I found it badly equipped and behaving like a tyrant ! I saw it was merely the spokesman for the sense reactions; not the Knower of Cause.
075 一度このことを理解するや、私には宇宙的英知から生まれたこの力が全ての生命の土台であることが分かりました。何も加えられる必要がなく、全てがそこに在るのです。しかし、肉体の人間としての私はこの全てを包括する力を認識し、応用し始めなければならないのです。この時点で、私は自らの心を注意深く見詰めました。その結果、驚いたことに、私は心がひどく身構えて暴君のように振る舞っていることに気付いたのです。私にはそれが因を知るものの代弁者ではなく、感覚反応の代弁者となっているに過ぎないことが分かりました。


【解説】
 本来は自らの中に備わっている全ての要素を持つ一大生命力に気付き、応用すべき立場にあるにも拘わらず、私達の心は自らの感覚の代弁者に留まっていると言っています。心は自分自身の中にある因なる生命力よりも、肉体を過剰に守り差別を繰り返す感覚反応の方に引寄せられるということです。常に結論を急ぐ心は微妙な印象の世界よりは、テキパキと判断を下す感覚に従う方を望みがちということです。
 しかし、感覚の判断は通常、低俗なものですし、それら表層の世界だけに生きていては本来の生命の息づく世界を見ることはできません。通常の感覚の範囲を超えた深淵な世界に私達も気付く必要があります。その世界や音や光を超えた印象の世界であろうと考えます。同じ風景、同じ対象物と相対していても、相手が生きていると実感するのは互いに印象レベルで交流が始まったことを意味します。
 同様に、自分自身の身体に対して私達はどれ程の関心と敬意を持っているでしょうか。これから訓練すべき自分の心の反応、毎日の肉体の中で行われている生命の維持活動等、全ての側面で最高の教材が私達自身であることは間違いありません。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落074

074 In man we find the same condition existing . . . four phases of action, or manifestation, aided and supported by the inexplicable force that causes impulse, or action, within them. It is therefore obvious that feeling is no more a physical sense, than is the activating force in nature one of the four elements.
074 人間においても同じ状況が存在することに気付きます。その内部に衝動や行動を引き起こす説明出来ない力によって助けられ、支えられた四つの行動、創造の側面の存在です。ですから、フィーリングは肉体の感覚ではなく、四つの要素における自然界の活性化力であることは明らかです。


【解説】
 人間についても、同様に4要素に分類できるとしており、これまで述べて来たように視覚、聴覚、味覚、嗅覚の4感覚が相似していると指摘しているのです。重要な点は、フィーリングが、これら4つの感覚器官を支えていると同時に、肉体全域の生命活動を活発化する為、無くてはならない役割を果たしていることです。
 宇宙の秩序性を考える時、大は宇宙空間における銀河や太陽系の形状と、小は原子核の周囲を回る電子群の形態等、様々な類似性があることに気付きます。人体も同様で、以前、何処かで他惑星人の宇宙船の内部構造が人体に類似していると指摘する話しも聞いたことがあります。また、曼陀羅等、宇宙全体を様々な要素で表わすことも古くから行われてきました。
 自然界の中に自分と類似した要素に気付くことは、改めて創造主を見い出す思いがして、感銘を受けるものです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落073

073 We know all things in the manifested world are based upon four elements; earth, water, fire and air. From combinations of these four elements are brought forth the innumerable variations of form. But within each atom comprising these elements, is a force which is indestructible and inexplicable. It is a definite, yet elusive something, that evades the best efforts of the research workers; and even the most sincere cannot define its character or its source. It is this activating force which gives impetus to creation.
073 私達は創造された世界の中の万物は四つの要素に基づいていることを知っています。土、水、火そして空気です。これら四つの要素の組み合わせから無数の形有るものの変化がもたらされました。しかし、これらの要素を構成している個々の原子の内部には破壊されることのない、また説明できない、ある一つの力があるのです。それは確固としたものですが、どこか捕らえ所のないもので、研究者達の最高の努力もくぐり抜けてしまいます。また最も誠実な者もその特徴やその源泉を定義することは出来ません。創造作用に刺激を与えるのはこの活性化力なのです。


【解説】
 本項では古代ギリシャ哲学の「四元素説」を踏まえて、物質を土(固体)、水(液体)、火(プラズマ)、空気(気体)の四分類した上で、各元素が秘めた創造への潜在力について述べています。著者アダムスキー氏が意図している事柄が何処にあるのか、十分には掴みとれていませんが、各原子が大きな力を秘めていると言っていることに注目しておくことが必要です。
 その持つ潜在力については、通常の科学では認めたく無い所でしょうが、現実に各生命体において日々実現している生命活動の全てにおいて、これら潜在力は無縁ではありません。もちろん、原子の中には莫大なエネルギーが秘められていること自体は、原子爆弾や原子力発電所において核物質から大きなエネルギーが取り出されている事実からも、分かります。
 私達自身、自らの内部あるいは周辺の各原子に、その秘めたる創造力を発揮してもらえる状況をつくることが出来れば、今までとは比較にならない大きな変化をもたらすことが出来ることは間違えありません。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落072

072 Man is a miniature universe; so let us analyze him in that light.
072 人間は小さな宇宙ですので、その観点から人間を分析して見ましょう。


【解説】
 「人は小宇宙である」と類似したことは古来から言い伝えられて来たように思います。アダムスキー氏も度々引用する「汝自身を知れ」の中にも同様な意味合いが含まれています。その意味する所は、各自の中には既にあらゆる物、全ての要素が含まれていること、また、それらが各自の肉体に留まらず、大宇宙と実は融合している存在であるということでしょう。
 人体には60兆個もの細胞があるとされています。それらがテレパシーによって互いに意思疎通し、全体としての調和を保ち、人体、或いは自然界というより大きな目的を果たす為、互いに奉仕している世界は一つの宇宙と言うことができます。
 また、植物等、自ら動くことがなく、割り当てられた場所で生きるものや犬や猫のように限られた地域で生涯を送るもの達も、皆、不自由な境遇を憂うことなく、毎日を喜びに満ちて過ごしている背景には、彼らは宇宙に繋がる意識を持ち、絶えず新鮮で楽しい印象類を感受できているからに外なりません。自己の肉体の微小な構成要素と大宇宙の両面から有意義な印象を受けている為に、他に必要とするものが無い状況であると思われます。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落071

071 These unfortunate individuals, rather than being envied, should be pitied. For the little sentinels who stand guard constantly throughout the body to flash warnings to the brain - nature's switchboard - of any unusual condition, are our staunch friends. Let us say we run a splinter in our hand. These sentinels, or nerves, immediately set up a clamor, informing the brain that a foreign substance is exerting pressure upon the surrounding tissue. We then relieve the pressure by removing the splinter and the wound will heal. But if the brain had not received this information because the nerves were not functioning properly, we would have been unaware of the splinter until the body, in trying to expel it, had caused the area to fester. But it is a physical condition; and lack of this nerve feeling has no more to do with a person's telepathic receptivity than the color of his eyes.
071 これら不遇な人達はうらやましがられるよりは、哀れまれるべきです。何故なら、どのような異常時であれ、自然界の交換機のように脳に警報を発するべく、体中を常に警備に立っているその小さな歩哨達は私達の信頼する友人達であるからです。私達が手に棘を刺したとしましょう。これらの歩哨達、神経はすぐさま大声を発し、脳に異物が周囲の細胞組織に圧力を加えていることを伝達します。私達は次にその棘を取り除き、その傷はやがて癒えます。しかし、脳が神経が適切に機能していなかった為にその情報を受け取らなかった場合には、私達は肉体がそれを追い出そうとしてその部分を化膿させようとするまでは、その棘に気付かなかったことでしょう。しかし、それは肉体の状態であり、この神経によるフィーリングの欠如は両目の色以上に各自のテレパシー感受力に関係するものではありません。


【解説】
 肉体の神経ネットワークを司る各神経細胞は私達にとって信頼できる存在であり、彼らのお蔭で肉体が守られています。しかし、それらいわゆる触感要素の有無自体は各自のテレパシー能力とは関係が無いと言っています。つまり、フィーリングと触感とは同義語と言ってはいても、テレパシーを司るフィーリングは、これら肉体の感覚とは基本的に異なるものだと言うことでしょう。ちなみに目の色とは虹彩の中のメラニン色素の量の違いで起るとされています。一般に青い目は褐色の目と比較して極端にメラニン色素が少ない為に形成されるとされていますが、目としての役割にはいささかも違いがありません。
 テレパシーにはついては、同乗記の中で金星から来た母船で以下の説明がアダムスキー氏に為されています。

 「しかし万人にはっきり伝えていただきたいことが一つあります。今までここで話してきたテレパシーによるコンタクトは、地球人の言っている”心霊”や”降霊術”的なものとは全然違うということです。テレパシーは一つの心から他の心への直接のメッセージなのです。いわゆる心霊現象については別な機会に説明しましょう。」
 「このメンタル・テレパシーを私たちは送信者と受信者という二点間の”意識が一体化した状態”と呼んでいます。これは私たちの各惑星では最も普通に用いられている伝達法で、特に金星ではそうです。私たちの惑星では個人から個人へ、惑星から宇宙船へ-それがどこにいようとも-、そして惑星から惑星へのメッセージを伝えることができます。前にも申しましたように-これは特にはっきり記憶していただきたいのですが-地球人の言う空間または”距離”は全然障害にはなりません」(「宇宙からの訪問者」、訳者 久保田八郎、ユニバース出版社、昭和56年発行、p.164-p.165)

 つまり、両者の意識がつながることによって距離に係わり無く相互の想念が伝わるという訳です。他惑星人はテレパシー能力に秀でているとされています。言葉を発することなく相手の心の状況を理解できること、また遠く離れた友人にメッセージを伝えることは極めて日常的に行われているとされています。私達地球人がそのようなレベルに達する為には、この意識を拡大させ、印象を受け止めるという私達の受信器の感度を高める必要があります。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落070

070 Not in the least. This is a purely physical condition caused by the malfunctioning of the nervous system; and has no more bearing upon the operation of the Life Force, or true feeling, than if the individual is born without a finger. The senses of sight, hearing, taste and smell, work normally in these people. The degree to which anyone registers pain is dependent upon the nervous system; the more sensitive the system, the more intense the pain felt.
070 全然そのようなことはありません。これは神経系統の機能不全によって引き起こされた純粋な肉体の状況であり、個人が指1本欠けて生まれたとしても生命力、即ち真実のフィーリングの作用には何ら問題が無いのと同様です。視覚や聴覚、味覚や嗅覚はこれらの人々の中で正常に働いています。人が痛みを表わす程度は神経系統に依存しています。その系統が高感度であればある程、その痛みは強烈に感じるのです。


【解説】
 仮に触感が無くなったとしても、四感の動作には影響を及ぼさないとしています。それは触感を司る身体の神経系統とは別に、各感覚器官に固有の神経系統が各々備わっていることを意味するものと考えられます。しかし、それでもフィーリングの要素がこれら諸感覚はもとより、意識の深層部分で働いていることが大事な所だと思っています。
 例えば、目を閉じて無音無味無臭の空間に端座する時、私達は周囲に自分の意識を広げ、宇宙からやって来る印象類をキャッチしようとしますが、その際に行っている動作は、丁度、カタツムリがその触角を様々な方向に傾けながら、必要な情勢判断を行い、自分の進行方向を定めることに似ています。私達は触覚(フィーリング)を使って自分の進む方向を絶えず探りながら、必要な情報を得ているように思います。即ち、生きて行く上でフィーリングが大切な訳で、早期に事態を予測することが出来れば(印象に従った生活を送れれば)、効率的な人生を送れることになります。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落069

069 The question may arise: How do you explain those rare individuals who are born without feeling? They suffer no bodily pain, even from severe injuries. Will this impair their telepathic ability?
069 疑問が生じるかも知れません。フィーリングを生まれながらにして持たない稀な人々についてはどのように説明するのかと。彼らは例えひどい怪我をしても肉体の痛みに煩わされません。このことは彼らのテレパシー能力を損なうことになるのではないでしょうか?


【解説】
 仮に触感(肉体の感覚)が無い場合は、テレパシー能力は損なわれるのかという問いかけです。結論は後続(070)に譲りますが、痛みを感じないことは一見、良いことのように思いがちですが、実は大変、危険なことです。例えば、歯科医で麻酔後は、しばらくは食物を摂ることを禁じられます。それは痛みの感覚が無いと、食べ物をそしゃくするという日常的な行為でも自らを傷つける危険性が高いからです。つまり、それほど、いわゆる触感は生活において大切な身体に対する警戒状態を受け持っている訳です。
 その意外に大きな役割を持つ触感ですから、それが無くなれば、当然テレパシーに通じるフィーリングも損なわれると考えるのが普通ですが、その実態はどうでしょうか。答えは次項に述べられています。

 さて、今回はここで、少し余談に入ります。今から3年前、2006年の頃のお話です。私が父を連れて台湾へ観光旅行をした時のことです。滞在した花蓮市のホテルの部屋で朝、何気なくテレビを見たら尼寺の朝の修業風景が放映されていました。一人の尼僧が修業の尼僧達に綿々と講義をしており、尼僧達はその講話を一生懸命聞こうとしている状況が映し出されていました。画面では漢字の字幕が出ていた為、ある程度の意味を把握することができました。その後、番組はその団体が行っている様々な社会慈善事業を紹介しており、哲学宗教面における大陸との違いを思い知りました。
 また、台湾の花蓮空港では多くのチベット仏教僧を見かける等、ある意味、花蓮は仏教の聖地であるのかも知れません。実はその後、そのことについては、調べる余裕もなく、旅の行程が進み、最後の宿泊先である台北のホテルに着くことになりました。そのホテルの部屋の机には聖書の外に「静思語」と題する1册の本がありました。内容は仏教語録のようなもので、釈證厳(Master Cheng Yen)という尼僧が著者であり、中国語の語録に英語、日本語、スペイン語の訳語がついているものでした。その本の解説からその著者がテレビで見た花蓮で活動していた団体を主催していることが分かりました。当時の私としてはこの本を大変気に入った為、ホテルの支配人にその本を1册分けてもらい、日本に持ち帰りました。その後の調べで、その慈善団体(慈済Tzu Chi)は仏教をベースとして台湾国内はもとより広く、海外でも活動し、1991年には団体を主催する釈證厳さんはフィリピンのマグサイサイ賞を受賞していることが分かりました。様々な場所、様々な分野で人々を導く活動が行われているということです。
 ちなみに「静思語」の一節(典蔵版p.202-203)を参考までにご紹介しましょう。
 ”家庭不能只追求豊富的物質生活
  應著重心心霊溝通
  使親子、夫婦間和諧、圓満”
"Do not just seek
a rich material life for your family.
It is more important for parent and child,
and husband and wife to communicate and
nurture harmonious and close relationships."
「家庭生活において、ただ物質的な豊かさを
 追求するだけではならない。
 むしろ「心の通じ合い」に重きをおいて、
 親子、夫婦の仲が円満にいくよう心
 かけるべきである。」
 "No persigas solamente una vida
de riquezas materiales para tu familia.
Es ma's importante que haya comunicacio'n
entre padres e hijos,
asi como entre esposo y esposa
y que mantengan relaciones
armoniosas y cercanas."
 以上、長々と紹介しましたが、内容はテレパシーと無縁ではありません。原文にある「心霊溝通」の意味は単にコミュニケーションという意味の外に、テレパシーに重きを置くとも読み取れます。つまりは、物質的な豊かさを追求するだけではダメで、もっと互いの心が通じ合える、即ち互いに相手の心が分かるようなテレパシックな関係になることを求めているように私には思えるのです。そのようなテレパシーの効用として、互いに誤解が無く、人間関係も円滑になるということを意味していると解釈できます。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落068

068 Inasmuch as each of the four senses possesses this element of feeling, which is an intelligent force having the ability to react in a conscious state to expressions of itself, or in other words, the element that registers each contact of existing vibration, we must admit that telepathy is certainly not outside the normal operation of the recognized sense organs. For it is through the feeling channel, regardless of the avenue of reception, that thought becomes known.
068 この四つの感覚が意識的状態の中でそれ自身を表現する為に反応する能力、言い換えれば存在する振動との接触を毎回記録する要素を所持しているからには、私達はテレパシーは確かにこれまで認識されている感覚器官の通常の作用の外にあるものではないことを認めねばなりません。何故なら、感受の経路に係わらず、想念が知られるのはそのフィーリングのチャンネルを通じてであるからです。


【解説】
 私達の四感は基本的部分でフィーリングの要素が関与していることは、今まで述べられた通りです。本項では更に、テレパシー、即ち想念を感知する能力はこれらフィーリングを通じて行われることから、各四感の通常の認知作用の中に、テレパシーも含まれると言及しているのです。
 つまりは、目で対象物を見る時、その画像や網膜によって読み取られますが、合せてその視覚というチャンネルを通じて、視覚の中のフィーリングの要素部分では、想念や印象を同時に感知することが本来出来るという訳です。これは、後年執筆された「生命の科学」で言う「原因と結果を同時に見る」ことと同じ意味を持っているように思います。つまり、私達は目で結果を見るのですが、その視覚に関連するフィーリングの要素を活発化させ、発達させれば合せて「印象」も同時に感知することが出来ると言うことです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落067

067 Feeling and touch being practically synonymous, I will continue to use the word feeling to denote the so-called fifth sense.
067 フィーリングと触感は実際上、同義語であることから、私はその言葉(訳注:フィーリング)を、いわゆる第5感を象徴する為に用い続けることとします。

【解説】
 前述(066)のようにフィーリングと触感が各々対象物或いは対象となる情報と接触する際の各段階における反応過程を表現したものと言えることから、ここでは両者は同義語だと述べられています。
 ここで大切なことは視覚、聴覚、味覚、嗅覚の4感はその外界との接触にあたっては必ず初期の段階でtouch(触感)的な要素があるということで、その接触的な過程が無ければ何事も始まらないということです。そういう意味では、このフィーリングは各感覚の基礎的部分を支えていることになります。しかし、その一方で既存の4感を超える潜在力を持っており、テレパシー能力はこのフィーリングが機能することであると述べられて来ました。日常的に各自のフィーリングを活用しているか、活用したいと努力しているかが、何よりも重要な所です。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落066

066 We can only know motion through the law of comparison, which is actually the law of contact, or the relationship between one phase of expression and another. When we touch an object with our fingers, we receive an impression of that object because of the pressure created through the contact of a lesser with a greater vibration. Likewise, we receive visual impressions or auditory impressions through the contact of light or sound vibrations with the retina of the eye or the ear drum. We are made aware of atmospheric conditions and temperature changes through the contact of atmospheric cells with the cells of our body. All of this proves that touch is merely the nerve reaction to contact.
066 私達は比較の法則を通じてのみ運動を知覚することが出来ますが、それは実際にはある表現の姿と他との接触の法則、あるいは関連性であるのです。私達が指である対象物と触れる時、より低次な振動がより高次な振動と触れることによってもたらされる圧力が原因となってその対象物の印象を感受します。同様に私達は光あるいは音の振動との目の網膜や耳の鼓膜との接触を通じて視覚の印象や聴覚の印象を受け取るのです。私達は大気の細胞と私達の肉体の細胞との接触を通じて大気の状態や温度の変化を知るようになります。これらの事柄全てが触感は接触に対する単なる神経反応であることを物語っているのです。


【解説】
 私達が通常、生きて行く上で感知する周辺との係わりあいの中で、最初に身体に接する際の状況が、ここで説明されています。運動(動き)を感知するのは変化が認知されるからであることは「相対性理論」にも遡る内容を示唆するものですし、圧力をより高い振動を感知する為としているのは、分子運動論にも相通じる内容となっています。
 映像や音声が目や耳の各々の器官に接する際、最初に作用するのが、このような触感(touch)と呼ぶ神経反応であり、それらは本書で言うfeelingの極く最初の段階に位置するものであることが分かります。
 なお、原文中に大気のcellとあるのは、広大な大気層の中で人体に触れるのは極く小さな領域の空気であり、それらを人体における細胞に見立てた表現となっており、訳文としては、そのまま「細胞」と表現しています。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落065

065 It has been brought to my attention by many individuals that the fifth sense, as it is generally understood, is not the sense of feeling, but that of touch. This does not change the theory, as each of the four senses possesses this faculty of feeling, or element of conscious-contact, without which there would be no awareness. Touch is a bodily nerve reaction, while feeling is the cardinal Life Force. It is through the conscious-contact of this Life Force that sensation is produced.
065 多くの個人が、その第5感覚は一般に理解されているようにフィーリングの感覚ではなく、触感の感覚ではないかということを私に知らせて来ています。これはその理論を変えるものではありません。何故ならその4つの感覚もフィーリング、即ち意識的接触に関する要素の機能を有しており、それ無しには如何なる感知能力もないことになるだろうからです。触感は肉体の神経反応である一方、フィーリングは基本的なる生命力なのです。感動が作り出されるのはこの生命力の意識的接触を通してです。


【解説】
 繰り返しになりますが、通常、私達は第5感を「触覚」と呼んで来ました。これは本文でも言われているように単なる肉体の神経反応である「触感」をそう呼んでいるに過ぎません。その奥にあるフィーリング機能こそが、この第5感の本来の姿であり、このフィーリングの作用により意識的接触が起こることによって"sensation"(「感動」)と称するような「反応」が起る訳です。このsensationなるものについて、どのような内容であるかの説明はありませんが、フィーリングがそもそも感知するということは、このsensationと表現されているような心への働きかけだとイメージできます。
 大事なことは、これらsensationが心によって認識されることであり、フィーリングを拡大させるということは、心が自分のフィーリング能力の潜在性を信じることから始まるように思います。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落064

064 It is through this so-called fifth sense that telepathy works; so if we continue to cling to the idea of feeling as a bodily sense, the definition of telepathy is incorrect, and science has been sidetracked. The act of thought-transference, clairvoyance, premonition, or whatever term you choose to use for invisible perception, is a perfectly normal function of the feeling element expressing through the brain, with the cooperation of the mind.
064 テレパシーが働くのは、このいわゆる第5感を通じてです。ですから、私達がフィーリングの概念を一つの肉体内の感覚であるとする概念に固執し続けるなら、テレパシーの定義は間違ったものになり、科学は横道にそらされていることになります。想念の転移、透視、予感あるいは目に見えない知覚に対して貴方がどのような名前を選ぶにしても、それが心の協力の元、脳を通じて表現されるフィーリングの要素による全くの通常の機能なのです。

【解説】
 ここではフィーリング(第5感)がテレパシー作用を司っていることを明確に述べています。中でもフィーリングが従来、私達が決めつけていた肉体上の触覚に留まるようなものでなく、更に広く印象類を感受し、距離にかかわりなく移動する知覚チャンネルというような機能を果たすものであるという点が重要です。
 また、詳しくは解説されておりませんが、このフィーリングの感受も私達自身の心の協力が必要であり、脳を通じて表現されることもポイントになるでしょう。つまりは、その感覚を発達させる為には、私達自身の心が第5感であるフィーリングの持つ潜在力を認め、それに協力する姿勢が重要となる訳です。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落063

063 Let us now deprive man of one of his four senses, such as sight. Does this affect the life force in the body? Not at all! We can go further and deprive him of two, three, or even all four; yet he will still be a conscious, living being. Though the actual organs of sense are not functioning, he is conscious of knowing joy or sorrow, peace or pain, and he is able to receive mental impressions and visualize them perfectly.
063 では人からその4つの感覚の内の一つ、例えば視覚を取り去って見ましょう。これは肉体内にある生命力に影響を与えるでしょうか? 全く有りません。次に進んでその者から二つ、三つそして四つ全部を取り去ることも出来ますが、それでもその者は意識ある生きた存在であり続けることでしょう。実際の諸感覚器官は機能していないにも拘わらず、その者は喜びや平安、或いは苦痛を知る意識を有していますし、心的印象を感受し、それらを完全に映像化することが出来ます。


【解説】
 私達は日常的には、外界との対応にもっぱら視覚、聴覚、味覚、そして嗅覚の四感を使っていますが、それらが仮に無くなっても私達自身の生命体は引き続き生きて行くことが出来ます。確かに失明したら、或いは中途失聴者になったら、その後の生活が大変不便なものになることは間違いありません。しかし、呼吸をはじめ、食物の消化吸収及び排泄等、身体維持に関する重要な部分は、元々これら感覚や自我の意志とは離れた所で行われているのです。各細胞は真っ暗な場所で、音にはよらずに相互に意志疎通を行っているのです。
 こう考えると、これら4つの感覚は人間の表層を取扱っているに過ぎないことが分かりますし、私達はこれら表層の感覚を観察して、誤った反応、勝手な意見をチェックする必要があります。表層の結果に一喜一憂するのではなく、物事の本質、深層にこそ関心を向けなければなりません。そこに第5の基本的感覚であるフィーリングの役割が現れて来るものと思われます。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落062

062 But what of the so-called fifth sense? If we deprive man of feeling, as we have done with sight, hearing, taste and smell, what is the immediate result? He lapses into unconsciousness, and will remain in that state until feeling is restored. While he is in this state, the organs of sense are still in the body and in perfect condition. The eyes, nose, palate and ears are uninjured, yet they do not see, smell, taste, or hear. And if feeling is complete]y withdrawn from the body, that person dies. Therefore, it is quite apparent that each of the four senses is dependent upon feeling for its existence.
062 しかし、いわゆる第5番目の感覚とは何でしょう? もし、人間から私達が視覚や聴覚、味覚や嗅覚について行ったように、フィーリングを取り除いたら、どのようなことが直ちに結果となって現れるでしょうか? その人は無意識の状態に陥り、フィーリングが回復されない限りはその状態に留まるだろうということです。その人はこの状態にある間、それら感覚器官は肉体内にあり、完全な状態にあります。両目は鼻、舌や両耳は損傷を受けていませんが、それらは見たり、匂いを嗅いだり、味わったり、聞いたりしないのです。そしてフィーリングが肉体から完全に取り去られるなら、その人物は死にます。ですから、この4つの感覚各々はその存続をフィーリングに依存していることは、まったく明らかなのです。


【解説】
 そもそもフィーリングとは私達にとってどのようなものと言うことが出来るでしょうか。他の4感と同様な表現をすれば、振動や圧力、熱や痛み、かゆみ等を感じる機能がとりあえずの作用と言えます。ここで注目したいのは、これらの受容器は他の4感のように特定の部位に存在するということはなく、全身にわたって広く分布していることです。つまり、肉体全域についてこの感覚は警戒するネットワークが出来ていることになります。また、「痛い」「熱い」等、身体の安全に関わる事態にはそれ相応の警告を出しますが、これらの反応自体にはほとんどの場合、好き嫌いの反応は起らないことも特徴として挙げられます。
 このようにフィーリングを全身にくまなく行き渡る神経のネットワークとすれば、私達はそのネットワークを通じて自分自身の各部位の状況を常時監視し、その部位とのコミュニケーションも出来るというものです。そういう意味から更に発展させれば、フィーリングが本来の精神感応という意味で離れた相手とそのネットワークが繋がる機能を併せ持つことも類推できます。またこのネットワークを通じて自分の意識を自由に移動させ、離れた地点の状況を観ることも可能であるように思えます。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落061

CHAPTER Ⅲ
Feeling - The Cardinal Sense
061 According to popular belief we possess five senses sight, hearing, taste, smell and feeling; each of which, we know, has the ability to act independently of the others. We can see objects without using the senses of hearing, taste or smell. We do not need hearing, sight or smell to decern sweet from sour. Our olfactory organs work admirably without the help of ears, eyes, or palate; and sounds can be received through the auditory canal exclusive of the other three senses. This all goes to prove that the four senses work independently of each other.
第3章
フィーリング - 基本的な感覚
061 一般に信じられていることに従えば、私達は5つの感覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚そしてフィーリングを持っていますが、それら感覚の一つ一つは私達が知っているように他の感覚とは独立して働く能力を有しています。私達は聴覚や味覚、嗅覚を用いずに対象物を見ることができます。すっぱいものの中から甘いものを識別するのに聴覚や視覚あるいは嗅覚を必要とはしません。私達の嗅覚器官は耳や目、舌の手助け無しに見事に作用しますし、音響は他の3つの感覚を排除したまま聴覚の内耳導管を通じて感受されることが出来ます。これら全ては4つの感覚は互いに独立して働いていることを示しています。

【解説】
 ここでは日本語訳の問題として、本文中にある「feeling」について確認して置きましょう。元来、通常の人間の五感という意味からは、feelingの日本語訳としては「触覚」と訳すべきものです。確かに何物かと触れた場合や痛みやかゆみを感じる等は触覚の機能ということになります。
 しかし、本書においてはfeelingには「感じる」というような精神面に拡大した感覚の意味合いも多く含まれており、訳語として「触覚」とすべきかどうかは迷う所です。本書においては訳語によるイメージの誤解を最小限にする為、敢えて「フィーリング」とカタカナ表記にしてあります。なお、今後出て来る本文(065)にも触感とフィーリングの違いについても言及されているところです。
 さて、各自の中でこれら各々の感覚は他とは独立して反応していることは、互いの立場等の関連性を見ようとすることとは正反対であり、家庭の中にあっても各自が勝手に意見を主張し合う場合と似ています。家の主人である私達がどのようにしてこれらを調整して行くかは、まさに修身斉家治国平天下の最初の段階と言えるのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第2章-段落060

060 I realize this is throwing a bombshell in the face of age-old theory, yet the idea that physical man is a four-sense being can be logically demonstrated.
060 私にはこれが大昔からの理論目掛けて爆弾を投げ付けるものであることは分っていますが、肉体としての人間は4つの感覚による存在であるとする見解は論理的に証明され得るのです。

【解説】
 人間の心を構成する感覚は4つであり、残りの一つであるフィーリングは印象を伝達するテレパシーの機能を有しているとする主張はこれまでにない内容でした。私達は既に「生命の科学」他のアダムスキー氏の著作から、人間は4つの窓を持つ部屋の中にいる者のようだと教えられて来ました。その窓が各々勝手な判断をしたり、視野を狭めれば、部屋の中の人間は外界を正しく理解することは出来ません。
 しかし、実際には私達にはフィーリングという本来備わった能力が秘められており、そのフィーリングの感受性を高めれば自ずと部屋の壁は取り払われ外界との一体感が広がるものと思われます。
 重要な点は、この潜在能力を秘めた感覚が、既に私達一人一人に備わっていることであり、従来の4感を成長させながらも、生活のかじ取りをこのフィーリングに従ったものに転換することが必要だということです。そうする中で、やって来る印象に的確に従うことは、私達の中に本書で言う「警戒の状態」を作り上げることにもなり、宇宙意識に心を向けることにもなる訳です。次回から第3章に入ります。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第2章-段落059

059 In other words, feeling is the creative force within all forms. So the definition of telepathy as being a sixth sense, was entirely wrong. Man is not a five-sense being . . . but a four! The fifth sense, or feeling element, through which telepathy actually works, is not a sense; but an intelligent force giving all manifestation conscious alertness.
059 言い換えれば、フィーリングとは全ての形有るものの内側にある創造的な力なのです。ですから、第6感であるとするテレパシーの定義は完全に誤っていたのです。人は5感の存在ではありません。そうではなく、4感の存在です。第5の感覚、即ちテレパシーがそれを通じて実際に作用するフィーリングの要素は感覚の一つではなく、全ての創造物に意識的警戒状態をもたらす英知の力の一つなのです。

【解説】
 ここで大事なことはフィーリング(感じ)自体が創造する力を有していることだと思います。人間の視覚、聴覚、味覚、嗅覚という4感が現象(結果)から物事を捉えるのに対して、フィーリング(感じ)は現象を創り出している意識の世界に由来するからです。そのフィーリングという印象の受信は、それがそのまま創造主にも直結する経路でもあるのです。
 おそらく、フィーリングが伝達、発信される世界とは、空間の距離に関わり無く、一体化できるもので、このフィーリングを通じて人は万物と一体になれるものと思われますし、物事を創造、実現するパワーを得ることになります。それ程に重要なのがこれらの印象への感受力であり、私達は本書を通じて自分が学ぶべきテレパシーなるものの本質を十分理解しておく必要があります

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第2章-段落058

058 Pursuing this train of thought, I made a vital discovery. If one asks an expectant mother whether she can foretell when the little form within her is about to turn, she will answer, "No " She cannot direct the movement of the baby, and the knowledge it has turned comes to her as an alertness, or feeling, after the action has taken place. Therefore, it is the intelligent force which transmits the information to the mother through her sense we call feeling.
058 この一連の思考を追って行く中で私はきわめて重要な発見をしました。もし人が妊婦に彼女の体内の小さな胎児が何時向きを変えるか予告することが出来るかを聞いても、妊婦は「いいえ」と答えるだろうと言うことです。彼女は赤ちゃんの動きを指図することは出来ませんし、胎児が向きを変えたとする知見は一つの警戒、或いは感じとして、その行動が起ってから彼女にやって来るのです。従って母親に私達がフィーリングと呼ぶ彼女の感覚を通じて情報を伝えるのはその英知ある力と言うことになります。


【解説】
 自分の身体の中で起っている変化について、心は容易には知覚出来ません。実際には人体を維持するため、大規模かつ活発な諸活動が日夜続けられていることに対し、私達の心はあまりにも鈍感だということです。ましてガン細胞の増殖等、身体の存続にとって由々しい事態になった時、身体は一斉にそれへの対抗措置を図るものと思われます。本来なら、最も近い自身の体内から発せられる自身の生命にかかわる情報に対して私達はもっと鋭敏になっておく必要があります。
 実は各細胞は宇宙英知の指導を受けて行動するほかに体内の維持の為、必要な情報をやり取りしているものと思われますが、その際には互いに印象という言語を用いているものと思われます。そうなれば身体には約60兆もの細胞から様々な情報が飛び交っていることにより、大変にぎやかな状況ということになります。それら活発な生命活動の中にあって、身体の主人(あるじ)である心だけが結果の世界の音響が聞こえず、目に見える変化が未だ現れていないという理由だけで独り宇宙の活動から乖離した心境に留まっているのです。
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