2009年01月

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第12課-段落430

SCIENCE OF LIFE - STUDY COURSE
Lesson Twelve
Summation - The Rewards Of Continuous Progress
By GEORGE ADAMSKI

430 In the eleventh lesson we cautioned you not to leave any of your revelations out which were a part of you. The reason for this is very important for life is like a jigsaw puzzle and no part can be left out if you are to have a complete picture. And if you substitute something for the part you do not like the picture will not be as it should be. As we have lived a life of likes and dislikes this tendency will be present and one must over-come this to have a true picture of life. For should you substitute something to replace the things you did not like you would create a mystery and we want truth and reality.

生命の科学-学習コース
第12課
総括-継続する進歩の報い
ジョージ・アダムスキー著

430 第11課では私達は貴方に貴方自身の一部である貴方の如何なる啓示も追いやることの無いようにと警告しました。この理由は大変重要なことです。何故なら人生とはジグソーパズルのようなもので、完全な絵を得ようとするなら、如何なる部分も追いやることは出来ないからです。そしてもし貴方が自分が好まない部分を何か他のもので置き換えてしまったら、最終的な絵は本来あるべきものにはならないでしょう。私達は好き嫌いの人生を生きて来ましたので、この傾向が出るでしょうし、人は人生の真の全体像を得る為にこれを克服しなければなりません。何故ならもし貴方が好きで無い物事を何かで置き換えてしまうなら、貴方は一つの神秘を造り出すことになりますが、私達は真実と現実を求めているのです。

【解説】
 生命の科学最終章の冒頭、著者アダムスキー氏は各自、自分自身の真の姿に直面することを求めています。とかく私達は綺麗なもの、美しい物をたたえ、醜いと感じることを避けようとします。例えば、以前述べましたように、レストランで食事を楽しむことには関心があっても、その食品がどのような過程を経て来たかについては知りたくはない等です。
 おそらく、ある一定段階に到達し、その後、次の段階に移るには、そこでの整理が必要となるものと思われます。この12課ではこれまでの学習の歩みを振り返って、自分の理解を整理し、残された課題を各自導き出すことになるものと思われます。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落429

429 This does not include visions and travel only but also what we call telepathy. So you may not only get revelations in the form of visions but the impression of thoughts and what they represent. And remember we have not always been noble characters so some scenes and impressions may not be too pleasant to our present understanding yet they were a part of our development, a part of our life. So they should be accepted as a part of history and not rejected for they are you. How often have we said if I had my life to live over I would do things differently. We grow towards nobility by improving upon our past deeds.
429 この啓示とはイメージや旅行ばかりでなく、私達がテレパシーと呼ぶものも含みます。ですから貴方はイメージという形式のみでなく、想念やそれらが何を象徴しているかをも含めた啓示を得ることでしょう。そして覚えておいて欲しいのは私達はこれまで常には高潔な性格では無かったので、その光景や印象の中には今日の私達の理解にとって余り心地よいばかりのものではないことも有り得ることですが、それらも私達の発達の一部分であり、私達の生涯の一部なのです。ですからそれらは履歴の一部として受け入れるべきであり、拒絶すべきではありません。それらは貴方自身であるからです。私達はこれまで何度、もし自分の人生をやり直すことになるなら、物事を違ったやりかたでするだろうと言って来たことでしょう。私達は私達自身の過去の行為に基づき改善することによって高貴な存在に成長するのです。

【解説】
 ここでは第11課の最後として、これから私達が体験することになる啓示について解説しています。冷静に考えれば陶然のことなのですが、人間は一夜にして変わるというものではありません。長年積み重なってしまった各自の低レベルの体験にも由来する様々なイメージも出現して来ることを注意しているのです。
 しかし、多くは各々の人生や生活にとって有益なものであることは、少ないながらも私の個人的な体験からも言えますので、読者の皆様には安心して戴きたいと思います。
 むしろ問題はやって来る印象に素直に従って行動できるかどうかにかかっています。或いは客観的(即ち物理的)状況は苦しいと思われる中にあっても、光明を信じて前向きに生きて行けるかにあるように思います。そういう意味では植物や人間を除いた動物達はその生き方を貫いており、結果を心配する様子は一切ありません。百合の切り花達がつぼみの状態で花瓶に入れられた後、例え最後は枯れる宿命であっても、各々精一杯の花を咲かせる姿はその側面を良く表わしています。
 本課では生命の科学の集大成に近付いた章として具体的に意識と交わるとどのようなことになるかについて言及されて来ました。その具体的応用と実践は読者皆様に委ねられているところです。(第11課終わり)

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落428

428 That is why the Holy Writ says have no false gods before Me. For every form whether it be man or anything else has gone through many experiences and many changes. If we accept life eternal there is just as much eternity in the past as we look forth to in the future. That is why Jesus said, If I was of this world I would fight for it but I am not of this world. If he came to this world is it not logical that we all have come from someplace else? For He made it plain that in the Father's House are many Mansions. But the human mind as an effect cannot know this unless it submits itself to consciousness which is the keeper of the records. And when it does the revelations come.
428 それが聖典が「わたくしをおいて偽りの神があってはならない」(訳注:365参照)と言う理由です。何故なら、あらゆる形有るものはそれが人であれ、何であれ、多くの体験を経ており、多くの変化を遂げて来ているからです。もし、私達が生命を永遠なるものであることを受け入れるなら、私達が未来の中へ前方を見るのと同様に過去にも多くの永遠があることになります。それがイエスが「もし私がこの世界の者であれがそれと戦うでしょうが、私はこの世界の者ではないのです」と言った理由です。もし、イエスがこの世界に来たとするなら、私達全員もどこからか来たこととするのは論理的ではないでしょうか。イエスはこれを父の家には多くの館があると平易に説明しました。しかし、結果である人間の心はそれら記憶の保持者である意識に自身を委ねない限り、これを知ることは出来ません。そしてそれが行われる時、啓示がやって来るのです。


【解説】
 ここでは前項(427)に対して、「偽りの神を持つな」という戒律の意味を対応させた解説が為されています。即ち、各自の感受力が高まり、意識との交流が始まるようになると、様々な想念を感じ取れるようになり、ますます直感的に行動するようになります。その時、前項でも述べましたように、人によっては指導霊のような存在を感じることがあるかも知れません。しかし、それは心が造り上げた架空のもので、ここで言う偽者の神ということになります。
 その原因として、各自はこれまで何世代にわたって生まれ変わりを継続しながら生きて来た訳で、それらの記憶に起因するイメージ、あるいは他者から発せられる印象から受ける影響を大きいものと想像しています。従って、これら幻影の存在に左右されてはならないとしています。ひたすら自身の半身である意識の声に耳を傾けること、意識こそ裏切ることのない指導者です。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落427

427 This is the only true entrancement that there is - a Cosmic principle where the mind and consciousness work together. All other phases of so-called entrancement are either illusions, wishful thinking or self hypnotism, especially when your mind is impressed with guides or highly developed souls. Beware when you get a feeling of a so-called guide for there is only one that you can trust and that is consciousness - the other half of yourself.
427 これが唯一存在する真の忘我であり、それは心と意識が共に働く宇宙原理なのです。その他の忘我と呼ばれる側面は、幻覚であったり、願望の想念や自己催眠であるかのいずれかに過ぎません。特に貴方の心が指導霊や高度に発達した霊と出会ったような印象を受けた時はそうです。貴方がいわゆる指導霊のような感じを持った時は気を付けなさい。何故なら貴方が信じられるものは一つしかなく、それは意識、即ち貴方の半身であるからです。


【解説】
 本課では(423)以降、意識と一体化する際の現象、entrancementについて解説が続いています。このentrancementについて従来はトランスと訳されて来ましたが、ここでは「忘我」と訳しています。ポイントは心が意識に同調し、その湧き起る印象の具体的表現者となる時、もはやそれまでの自我のガードは解放されます。その状態は「没入」や「夢中」とも言い表せる状態かと思います。これら意識と容易に一体化できる能力はブラザーズ(宇宙兄妹達)においては特出すべき能力となっています。同乗記の中で宇宙船の操縦に際し、ものすごい速さで鍵盤を叩く様子が記述されており、彼らブラザーズにとって必要となれば直ぐにも発揮できる能力となっているのです。
 しかし、これらの能力は地球では長らく神秘主義の範疇に置かれており、科学的立場からはいかがわしいものとして避けられて来ました。日本でも従来、多くが「心霊○○○」と呼ばれて来たところです。せっかく、これまで生命の科学を物質と精神の両面から自らを教材として学んで来た私達にとって、いざ、多少なりとも能力が付いて来た頃に各自に生じる新しい現象に間違った解釈を下して、再び神秘主義に戻ることはあってはなりません。そういう意味で著者アダムスキー氏はこのentrancementについて何度となく注意しているものと思われます。
 何事も夢中にならなければ良い結果を生み出すことは出来ません。後にその結果を見て、心は果たしてこれがどのようにして出来たのか分からない、自分でも不思議に思う程、無心、夢中の行動が必要だということでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落426

426 This is no different than if you were to go back to the day of your birth, entrancing your mind or interesting it with your growth to the present day. Your consciousness would bring to mind the various stages of your development and experiences through which you have gone. And with this would come the many changes of facial expressions. And this is what happened to Jesus at that time for he was having the experience of realization while the disciples were just observing.
426 これは貴方が自分の今日までの成長に対して自分の心を忘我にするか、関心を持たせることによって自分の誕生の日に戻る場合と違いはありません。貴方の意識は様々な貴方の発達段階や貴方が乗り越えた体験類を心にもたらすでしょう。そしてこれと共に多くの表情の変化が生じるのです。そしてこのことがその時、イエスに起りました。彼は弟子達がただ見守る間、その具現化体験をしていたのです。

【解説】
 よく「表情」と言われるように人の顔はその内面を実によく表わす表現者です。本人が喜んでいるか、悲しんでいるか、怒りを覚えているか等、自然に表情として顔が表現する訳です。また、長年の本人の精神状態はその顔つき(表情が固定化したもの)も変化させるものです。
 私達は一生の中で様々な体験をし、その体験から多くを学びます。それらの中には苦しいながらもその結果、会得した真理もあるでしょう。そうした中、少しずつであっても私達は前進して行く訳ですから、過去よりは現在の自分は進歩している筈です。そういう意味でも過去を振り返るばかりでは意味はありません。本項に述べられている意味は、宇宙の意識には各自に対応して確固たる記憶が残されており、各自がその気になれば、いつでもその記憶を復元させ、その時の本人の姿を再現出来るということです。
 いつでも必要な時に過去を参照できるということは、記憶についても甦られることが出来ることを意味します。自分が体験したことが決して無駄にならないということも重要です。各自が地球でこの生涯を終えた後も自分の履歴としてその体験を引き継ぐことが出来るとことを覚えて置きたいものです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落425

425 In other words the Cosmic Mother and the Cosmic Father never wean their creation. When the mind does not understand this process it has a tendency to label the effects as the mystics have done. Let me give you an example of how the mind labels things it does not understand. For this we can use the experience of Jesus on the Mount of Transfiguration. His mind at that time was entranced by consciousness for he had given his mental will over to the will of consciousness as he became a listener and observer. And when he did this his face changed to represent the many individual forms through which his mind and consciousness had expressed before and he was fully aware of what was going on. And the disciples that were watching him observed the many changes of facial expressions and told him that to them he had appeared as Moses, etc. His answer to them was, "My life is the life of the many." In other words he had lived all of those stages of life and the consciousness reviewed the stages on the screen of his mind, thus bringing his mental life up to the present stage while the others observed.
425 別の言葉で言えば、宇宙の母と宇宙の父は自分達の創造物を決して乳離れさせることは無いということです。この過程を心が理解しない時、心は神秘主義者達がこれまでして来たようにその結果に偏見のラベルを貼ろうとする傾向になります。ここで心が自分が理解しない事柄に対して如何にラベルを貼ろうとするかの例をお示ししましょう。この目的の為、変容の丘におけるイエスの体験を例に用いることが出来ます。この時、イエスの心は意識によって忘我の状態にありました。イエス自らの心の意志を意識の意志の上に捧げた為、聴く者、観察する者となった為です。そしてイエスがこのことを行う時、その顔はイエスの心と意識が以前表現した多くの個人の顔かたちを再現しはじめたのですが、イエスは何が起っているのかを完璧に気付いていました。そしてイエスを見守っていた弟子達はイエスの表情が多くの変化を起こすのを観察し、イエスにイエスがモーゼやその他のように見えたと話しました。彼らに対するイエスの答えは「私の生涯は多くの生命からなっている」でした。別の言葉で言えば、彼はこれら全ての生涯の各段階を生きて来ており、意識がイエスの心のスクリーンにこれらの段階を回想させ、今日に至るまでのイエスの心の生涯を引き寄せ、それを他の者が見たということです。


【解説】
 安易に神の恩寵という言葉を使いたくないのですが、本項では創造主や創造物を決して手放すことはなく、永遠の歳月を通して、支えて下さることを述べています。エゴは独立、一人立ち出来ると主張するかも知れませんが、その両親はいつまでもわが子を見守っているのです。
 本文ではイエスがいわゆる変容の丘で表わした奇跡について述べています。イエスが過去にどのような人間として生きて来たか、過去の記憶を甦らせると同時に、その時の表情を肉体の細胞が再現したということです。このようにアダムスキー氏は聖書の内容について様々な所で具体的な記述を行っています。その理由は一説に、アダムスキー氏がイエスの12使徒の一人、ヨハネであったとかつて言われたことがあります。その真偽は確かめようもありませんが、アダムスキー氏は自らイエスの時代に遡る過去世からの記憶を持っていたものと思います。イエスとのつながりの中で、これらの記憶はアダムスキー氏自身が自分の眼で見たことをここで表現していることに留意したいものです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落424

424 Remember your mind cannot absorb all inclusive consciousness in a moment so it must come in parts or different phases in the beginning until the mind is firmly developed in relationship to consciousness. i.e. A one inch hose will carry one inch of water but when the water comes out through the nozzle it separates into hundreds of drops of various sizes and shapes and each could be labeled as different according to our specifications. But each drop that falls upon vegetation gives moisture and life giving substance to that which it touches. Yet the essence of the drop of water unites with all the other drops of water as a whole, no different than it was in the hose. And the flow of Cosmic Consciousness is like the water in the hose. And it constantly separates itself for the service to be rendered to the lesser manifestations without which they could not live.
424 貴方の心は一度に全てを内在する意識を吸収することは出来ない為に、意識は心が意識との関係において確実に成長するまでは、最初は部分的或いは異なる種々の側面としてやって来るということを覚えておいて下さい。それは即ち、1インチのホースは1インチの水を運びますが、ノズルを通して水が撒かれる時は水は様々な大きさや形の何百もの水滴に分裂します。その一つ一つは私達の分類によれば各々異なるラベルを貼られるのです。しかし、植物に降り注ぐ一つ一つの水滴はそれに触れるものに潤いと命を与える物質を授けます。しかし、水滴の本質は他の水滴と共に全体として統一されており、ホースの中にあった時と何ら違いはありません。そして宇宙意識の流れもホースの中の水のようなものです。それはそれ無しには生きて行けない、より下等な生命の現れに自らを委ねるという奉仕の為に自らを絶えず分ち与えているのです。


【解説】
 植物や動物等、生き物にとって不可欠な水。1日のは始め或いは終わりにホースを使って木々や草花に水を撒いた経験は誰でもお持ちかと思います。ホースから無数に散らばる水滴は一つ一つの花びらや葉を潤し、個々の生き物に安らぎを与えます。それと同じことが私達一人ひとりの心に注がれる意識の恵みです。
 その雫の一滴はホースの内部から湧き上がる水本体と何ら変わるものでなく、皆同じ効能を維持しています。私達が受け止める容量に見合う量のパワーが与えられるということです。
 一人ひとりは意識からの恵みが絶えず与えられている故に生き続けられる訳です。水無しには動植物が生きて行けないのと同様です。聖書にはイエスが「渇き」について何度となく話しをされています。その渇きを絶えず満たしてくれているのが、この意識による無償の恵みなのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落423

423 What is meant by entrancement? The accepted idea of this is a misrepresentation of reality in the belief that a master is guiding one as spoken of before. Should such an impression or vision come to you during your development do not be alarmed for your conscious self will have this feeling when viewing other parts of consciousness.
423 忘我とは何を意味するのでしょうか。一般に容認された概念は、以前にも述べたように、ある聖者がその者を導くと信じて事実を誤って説明したものに過ぎません。貴方の進歩の過程でこのような印象や光景がやって来ることがあったら、怖れないで下さい。何故なら貴方の意識上の自己は意識の他の部分を見るとこのように感じるものだからです。


【解説】
 意識と一体化する時、我を忘れる状況になることもあるでしょう。その際、何か特別な者の存在、直接、各自を指導する守護霊のような存在を感じる場合もあるとしています。しかし、その守護霊なるものは各自がそう思っているに過ぎず、意識の一側面をそのように感じていただけだと解説しています。つまりは、そのような特定の霊は居ないということです。
 いずれにせよ、私達が独学でこの分野を進む時、本人の能力が高まるにつれて、これまで体験したことのない新しい現象が出て来る筈です。古来のいわゆる霊能力者達はそれら擬人化されて見えた存在を各々の守護霊として表現したものと思われます。これに対し、宇宙時代を生きる私達はもっと広く科学的な視点からこれらの現象を見詰め、より適切な見解を持つことが必要とされています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落422

422 I am only giving my experiences to show that man's innate ability is of his own consciousness and has nothing to do with mysticism. But rather it is an understanding of the law or the other half of oneself - the conscious part. 99% of humanity is living the mental side of life unaware of their conscious ability or conscious consciousness. Consciously you are free to go any place in the Cosmos but mentally you are anchored to one place. As I was anchored to the classroom but consciously I went to where I was needed. And the law is just as real on the conscious side as it is on the mental side. Consciousness is the permanent side while the mental is the changing side of life. Always changing because the mind is learning while consciousness is all knowledge.
422 私は人の生来の能力は自身の意識によるものであり、神秘主義とは一切関係が無いことを示す為に自分の体験を述べているだけです。むしろそれは法則の理解、自身の半身即ち意識の部分の理解と言えます。何故なら99%の人類は自分達の意識上の能力即ち意識的意識について気付かぬまま心の側で生きているからです。意識の上では貴方は宇宙の何処にでも行ける自由がありますが、心の上では貴方は一箇所に錨で繋ぎ止められています。私がその教室に繋ぎ止められていた時でも、意識の上では私は私を必要とする場所に行ったのです。そして法則は心の側でも意識の側でも現実に働きます。意識は永遠の側にありますが、心は人生の変化する側にあるのです。意識は全ての知識である一方、心は学ぶ過程にある為、常に変化しているのです。


【解説】
 ここでの大事なことは、私達各自は生まれながらにして、つまりは特段の努力をしたり功績を上げなくても、生来、宇宙を自由に旅するような意識の力を授かっているということです。しかし、授かっていることはそれを活用していることとは無関係です。日常、それに気付かず、各自の肉体に限定された心に従って暮らしているのが私達です。
 しかし、その心も学習の過程を経るにつれ、進歩するものです。人の一生はこの心の精進の道と言えるかも知れません。そうする中で、心は進歩しますし、場合によっては退化し、堕落することもあるのです。その結果、人の性格も変わり得る訳です。一方、意識は不変です。それを本項では「法」と表現しています。宇宙を貫く不変・普遍の原理、根源的な作用が私達の意識という概念のものの中に脈打っているのです。その法則に親しみ、理解することこそ、最優先の課題にしなければなりません。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落421

421 But when my interest was taken up with flying saucers these experiences ceased. For as Jesus said, you cannot serve two masters without neglecting one of them. But now as I start to teach again I am returning to my original service.
421 しかし、私の関心が空飛ぶ円盤に奪われた時、これらの体験は無くなりました。何故なら、イエスが言ったように貴方は片方を無視しないで二人の主人に仕えることは出来ないからです。しかし、今や私は教えを再び始めましたので、私は元の奉仕に戻りつつあります。


【解説】
 各自の関心がどの方向に向いているかによって、流れ来る印象分野も異なるということでしょう。また、「二人の主人」について言えば、自分が「意識」を主人とするのか、或いはこれまで通り「心」を主人とするかは大きな問題です。これまでの経験からも、ご自身を「心」に委ねてしまったら、身体はすり減り安らぎはありません。しかし、意識を主人にすれば、今迄の自我のプライドは失いますが、スムーズで無駄の無い人生、喜びが湧き出る生活が生まれます。そのどちらの主人に仕えるかは本人次第なのですが、少し考えれば、仕えるべき主人は明らかでしょう。
 本文ではアダムスキー氏がUFO分野に従事した時には前項(420)のような体験をしなくなったと述べています。アダムスキー氏自身の関心が人々に宇宙哲学を教えることから離れた時、そのような現象が消えてしまったと言っているのです。他人を支援したい、助けたいとする気持が具体的現象として相手に幻の姿として具現化する現象が起った訳で、その強い意志があってはじめて意識による移動が実現するものと思われます。宇宙意識に身を没入させてはじめて、本課で言う意識による旅行が可能になるものと思われます。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落420

420 And now I will explain what I mean by a thought form. Man is a thought manifestation of consciousness like a shadow is a manifestation of a form. So in the classroom I was manifesting as a solid form and at the bed side I was manifesting as a shadow of that form. A thought form can be sent and felt at any distance while a solid form cannot. This has happened many times even outside of the classroom. When I was lecturing in Pasadena someone would ask my help for a sick friend. I would deliver the lecture on a normal bases and at the same time go to the bedside of the sick person. I did not need to know the person nor the address for consciously I was in both places. When I next met the person that had asked for my help she was happy for the friend had improved immediately and in a short time he was out of bed and well on the road to recovery. My experiences are not limited to sickness alone for I have been able to help out in other types of trouble. These things did not take place during my sleeping hours but when I was active with something else. So this has been my experience with conscious traveling.
420 そしてここで、私が想念の形態と言うことで何を意味したかったかを説明しましょう。影が形あるものの現れであるように、人は意識による想念としての現れです。ですから、その教室の中で私は固体の形態として現れており、ベッドの脇ではその形態の影として現れていたのです。想念の形態は如何なる距離にあっても送られることが出来、感じ取られますが、固体の形態はそれは出来ません。このことは教室の外でも数多く起りました。私がパサデナで教えていた時、誰かが来て病気の友人を助けて欲しいと私に求めて来ました。私は通常の通りのレクチャーを行う一方、同時にその病気の人物のベッドの脇に行ったのです。私にはその人物やその住所知る必要はありません。何故なら意識としては私はその両方の場所に居たからです。次に私の助けを依頼したその人物に会った時、彼女はその友人が直ぐに良くなり、わずかの内にベッドから離れて回復への道程に進むようになったことで喜んでおりました。私の体験は病気に限られてはおりません。他の種類のトラブルから助け出すことが出来たからです。これらの出来事は私の寝ている間には起らず、私が何か他のことで活動している時に起っていました。ですから、これは意識による旅行に関する私の体験であった訳です。


【解説】
 ここでは前項のような事柄をアダムスキー氏は何度となく行っていたと述べられています。つまりは相手から請われれば例え見知らぬ人に対しても、献身的に援助を行っていたということです。具体的に意識を投影することがどれ程精力を要するかは存じませんが、少なくもその対象に気持を合わせ、ある意味、一体化させながら必要な教えを優しく伝えるような作業であったろうと想像するものです。そこには必ず相手に対する思いやりがありますし、相手に対する関心がなければなりません。つまりは誠実さが必要なのです。
 アダムスキー氏は実に誠実な人物であったとされています。今日残されている少人数グループの間の質議応答の記録によっても、氏が実に広範囲な物事に精通し、相手の質問に誠実に回答していることが分かります。氏は1952年の公式コンタクトの以前から多くの人々に本講座に似た真理探究と精神開拓の活動を行って来ました。その中に既にこの生命の科学の下地が作り上げられていたということです。
 請われればどんなに離れた所にも瞬時に出向いてその者を励まし、助ける存在は、仏教で言う阿弥陀如来に似ています。本項で述べられている内容は浄土(他の惑星)を願う人々にそこに渡る上で必要な知識を授け、現世(地球)で生きる力を与える存在について解説しているものと考えています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落419

419 Many times when I was teaching in the early thirties a student would be sick and would not be at the class, yet on the following week when they returned he would report that he had not missed the class. For I was at the bedside giving the instructions yet I was not missed in the classroom. I was there before the students giving instruction through my mind and body while at the same time my consciousness was at the bedside of the one who was sick. It is like using two speakers with one microphone. Consciously I was conveying to the mind in my body that which was given to the students. In one place I was a solid form and in the other a thought form.
419 1930年代の初期、私が教えていた時に何度となく一人の生徒が病気になりクラスに出席することが出来ないことがありました。しかしそれでも、翌週にある次の授業にはその生徒は決まって自分は授業を受けられなかったことはないと報告するのでした。その理由は私は彼のベッドの脇に居て、教えを授けていたからというのですが、私はクラスに出席しなかった訳ではありませんでした。私は当時は生徒達の前で心と肉体を通じて教えを授けておりましたが、同時に私の意識は病気の一人のベッドの脇に身を置いていたのです。それはマイク1つで2つのスピーカーを繋げているのに似ています。意識的に私は私の肉体の中にある心に生徒達に教える事柄を伝えておりました。一つの場所では私は固体として形あるものでしたが、他の場所では想念の形態であったのです。


【解説】
 本課の一連の講話の中で、アダムスキー氏の体験として、意識を用いることの応用事例として同時に複数箇所に身を置くことが出来ることを伝えています。もちろん、肉体は一つなのでその占める場所は一箇所に限られていますが、意識は自分が文字通り「意識する」ことが出来れば、距離に関わり無く身を置き、相手に影響を及ぼすことが出来るということです。
 よく考えれば、これは相手をイメージ出来れば直ちに遠く離れた相手と意識的な交流を果たすことが出来るというもので、テレパシーの原理でもあるようです。このことは遠く離れていても相手が今何を考えているか、楽しんでいるか、苦しんでいるか等々を感知することでもあります。地球の日常生活においても時として、家族の間で「虫の知らせ」、「胸さわぎ」等で表現されるように、少しは気付かれているものです。
 問題は、より多くの人々に平安を授け、苦しみや痛みを取り除く手助けとなることを如何に日々の各自の精神活動の一つとして行うかにあります。その祈りの姿の具体例の一つが仏像でもある訳で、遠く離れた仏国土にあっても、多くの惑星の民を救う為の沈想の姿には例え如何に鈍感な私達でも幾ばくかの感動を覚えることでしょう。万物に関心を持つこと、意識を向けることが大切だということです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第11課-段落418

418 Man can have this same alertness from the conscious sea of life when his mind is aware of its possibilities of receiving impressions from anywhere in the Cosmos. When this phase is understood and used man can be anywhere he wishes to be, either near or far away. For the Real You remember is the consciousness. The mind and the body are instruments which you use.
418 人はその心が宇宙の何処からの印象でも受け取ることが出来ることに気付いた時、その生命の意識の海からこれと同じ覚醒を得ることが出来ます。この側面が理解され応用されると、人は近くにも遠くにも自分が望むどのような所にも身を置くことが出来ます。何故なら、真実の貴方という存在は意識なのですから。心と肉体は貴方が用いる道具です。


【解説】
 よく”気付き”とか”悟り”とかという言葉が聞かれます。長年、求道者が精神的な探究を通じて或る日、人生(生命)の本質について見極まることが出来た、言い替えればポイントとなる宇宙を貫く原理を発見した際に自覚する境地を指した言葉だと考えます。その境地こそ、本稿でいうalertness(ここでは「覚醒」と訳しました)だと思われます。
 また、私達の本質的な部分である意識はこの生命の海に属しており、心も肉体もその本質を支える為の手段や道具に過ぎないと言っていることも重要なポイントです。とかく私達は自分の心や肉体のその時々の状況に影響を受けがちですが、それが「道具」に過ぎないということになれば、仮に道具を磨き、整備することは大切であることに変わりは無いものの、人生を送る上での第一は各自の主人公である意識の活動にもっと思いを致し、その自由な発達を心掛ける必要があることが分かります。
 意識に持つ潜在力を信じさえすれば、自分が望む所はどんなに離れていても瞬時に身を置くことが出来ることになれば、後は各自の思うままに自由に活動し、見聞することが出来ることになります。聖書の中のイエスの言葉「見ずに信じるものは幸いです」(ヨハネ20:29)が思い出されます。

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 本日、無事出張先から帰国しました。
 明日からブログを再開できるかと思います。
 長らくお休みしてしまいましたが、本年も宜しくお願いいたします。
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