2007年08月

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落131

131 It is not the prayers, the mantrums or the meditations that will bring this to us. But a re-birth into a fully conscious being of cause instead of the mental effect. In other words we must reverse the process of our learning. Instead of being mentally aware as an ego of the mind the mind must become aware of consciousness, as it has in the past of itself. For conscious awareness is the key that unlocks the storehouse of knowledge to the mind. It is the link between the Creator and creation.
131 このことを私達にもたらすのは祈りでもマントラでも瞑想ではなく、心による結果に代わって因による完全に意識的存在への生まれ変わることなのです。言い換えれば、私達は自分達の学習の過程を逆転させなければなりません。即ちそれまでの自分自身のように、心に属する自我として認識するのではなく、心は意識に気付く必要があるのです。何故なら意識への気付きは心に知識の貯蔵庫を開く鍵であるからです。それは創造主と創造物との間をつなぐ環(きずな)なのです。


【解説】
 大切なのは本文にあるように祈りや瞑想は意識の指導を受ける上で役に立たず、自ら因に対して完全に意識できる存在に生まれ変わることが必要だと言っています。また、この為には私達の従来の学習方法を反転させる必要があるとも言っています。
 何度となく目に見えない存在である意識を感知することが大切だと申し上げて来ました。しかし、その実現にはどのような分野でどのような努力をしたら良いのかについては、第1課の自動車の内部を意識しての運転の話が出て来ただけで、あまり具体的な例は示されていませんでした。
 しかし、本項では、意識的になる上で、祈りや瞑想は役に立たないと言っています。私の理解力では詳細な理由までは掴めませんが、これらの「業」の中には、多くの場合、個人(エゴ)の希望が前面に出るばかりで、心の解放にはあまり結びついていないのかも知れません。また、通常の学校での学習の動機付けは学習者のライバル意識を高めることを促す等、真の学習とは程遠いものであるようです。
 これに対して、既存の宗教修行も含めこれまでの私達の学習姿勢を一変させ、目に見えない存在である意識なるものに心を鋭敏にして、そこから全ての指導を仰ぐ自分に生まれ変わることが大切だと言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落130

130 Luther Burbank expressed himself well when he said that nature gave him the knowledge of how to improve upon vegetation. He stated that he was working with the Creator, and through His creation he saw Him face to face. Man will never be free from the drudgery he now is enduring, and the confusion in which he finds himself, until he returns unto the true teacher, the conscious director of all creation. We live in and are a part of its manifestation.
130 ルーサー・バーバンクは、自然が自分に植物に対する改良の仕方の知識を与えてくれたと言ってその実態を良く表現しました。彼は創造主と共に働いていることや、創造主の創造を通じて彼は創造主を間近に見ているとも述べていました。人間は真実の教師、すべての創造物の意識の指揮者の元に帰らない内は、現在耐え忍んでいる骨折り仕事や自分自身の混乱から決して自由になることは無いでしょう。私達は創造の現れの中に生き、その一部であるからです。


【解説】
 自然界のあらゆる動植物が創造主の英知の指導に従って、各々の成長過程を歩み、相互関係を深めることによって全体として調和ある姿を表現していることは前項までで述べられて来ました。
 ここでは、かつて人間としてこのことを実践した人物として、アメリカの植物育種家、ルーサー・バーバンク(Luther Burbank、1849-1926)を挙げています。ルーサー・バーバンクはカリフォルニア州サンタローザに植物改良の為の農園を持ち、そこで様々な新種の植物を造り上げました。米国では「シャスタディジー」「バーバンクポテト」等、有名な品種が現在でも数多く残っています。中でも有名なのは「棘無しサボテン」で、バーバンクがサボテンに「棘などはやして身を守る必要はないよ」と話し掛け続けることによってサボテンは次第に棘のない状態に変化していったとされています。(現在でも農園跡は記念公園として保存されています。Luther Burbank Home & Garden  http://parks.sonoma.net/burbank.html)。なお、時代はエジソンと同時期であり、エジソンらの一行が汽車でサンタローザのバーバンクを訪ねている写真が上記の記念公園に展示されています。
 さて、このバーバンク自身の言葉として”私は毎日創造主と直接、話しをしている”という主旨の発言がされています。何百、何千という若芽の中から、瞬時に目的の品種の要素を持つものを選ぶ等、言うならば「神かかり」的な選定作業があった訳ですが、バーバンクにとってはこのように、未だ結果が目に見えない段階から、数カ月後の姿が見えていたということなのでしょう。
 本文にあるように、私達が自然の指導を受け入れれば、無駄な回り道をせずに、目的を達成できるということです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落129

129 With all of the intelligence we have today, no man can give the exact answer of how an apple or any fruit became such from a flower. This shows us that as great as man's intelligence is, it is still puny compared to what is manifesting in nature, the expression of the Creator.
129 今日、私達が持つ知性の全てをもってしても、誰一人として一つの花からりんご、あるいは何らかの果物がどのようにしてそのように成るのか正確な答えを出せる者はいません。このことは人間の知性が偉大だとしても、創造主による表現、自然における現れと比べればそれは依然としてちっぽけなものであることを示しています。


【解説】
 言う間でも無く創造とはそれまで形や痕跡が無い状態から、一つ一つ事物を造り上げて行く作業を意味します。芸術分野等が分かりやすい例かも知れません。しかし、目を自然界に移せば、実は私達が日常、食卓に上る様々な食品が、これと同様の由来、創造の過程からもたらされていることに気付きます。言い換えれば、自然界の産品の内、直接、地下から掘り出して精錬、製品化したものを除き、私達の身の回りには動植物に由来するものが多数存在します。それらはいずれも、元来は種から、あるいは受精卵から誕生し、生育したものを私達人間が自分達の都合の良いように収奪し、加工したものです。
 即ち、私達の生活のほとんどは、これら自然の創造的活動に依存しているのです。これを考えれば、私達はもっと深く、真剣にこれらの産品を提供してくれる多くの動植物に感謝し、またこれらの活動を指揮する創造主を尊ぶべきことがわかります。
 また、昨今では地球環境対策としてバイオマスの活用が進められています。生物(バイオ)を活用した燃料の生産がその主目的です。私達の生活は更に他の生物種の生命活動に依存度を増していることを認識しなければなりません。また、同時に創造主をもっと自分達の都合の良いように活用しようとする人間の身勝手さが更に進もうとしていることにも注意したいものです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落128

128 All nature is expressing intelligence in varying degrees, for there is not a form, even a grain of sand, that does not express the purpose for which it was created, even better than man. A blade of grass as a tender shoot will come through the hard crust of the earth as it uses the power of the cosmos and obeys the intelligence that directs it. Yet man finds it difficult to penetrate a hard surface.
128 全て自然は様々な程度に知性を表現しています。何故なら形有るものはどれ一つとして、砂粒一つでさえ、人間以上にそれが創造された目的をより良く表現していないということは無いからです。一枚の草の葉は、柔らかな若葉の時、地面の硬い塊を貫いて現れますが、それは宇宙のパワーを用い、それを導く知性に従っているのです。しかも人間には硬い地表を貫くなどということは困難であることが分かります。


【解説】
 ”英知を表現(Express)している”ということについては、度々述べられて来ています。しかし、ここで注意したいのは、著者が強調しているのは、結果物である生き物の最終形を見よと言っているのではないことです。「表現」という意味の中には無からその造形物に至るまでその個体がどのような創造の過程を経て今日に至ったかというプロセスを見よとしており、結果としての現状の造形美のみを意味しているのではないということです。これら造形物の成り立ち過程がどれほど素晴らしい内容であったかを知覚することが大事ということです。
 更に進めるなら、私達が英知の表現者になるということは、私達が英知の助力や指導を受け入れて、これまで試されたこと、実現したことのない事柄を世にもたらすことや、白いカンバスに崇高な絵画を描く等、創造的な仕事をすることでもあります。自然界における多様な生物種と同様に、各人の持つ才能や経験は異なる訳で、各自各々の表現が行われる中で、この惑星社会も豊かになると言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落127

127 So let us go back to the word intelligence; We may look upon a man that from all appearances represents intelligence, yet when he expresses himself we realize our mistake. Yet when looking upon an unassuming, unimposing man we find from his expression that he is quite intelligent. So we do classify intelligence by expression or action.
127 そこで知性という言葉について立ち返ってみることにしましょう。私達はすべての外見要素から知性そのものであるような一人の人間を見かけたとします。しかし、彼が自分自身を表現した時、私達は自分達が間違っていたことを思い知ります。しかし一方、謙虚で出しゃばらない人間を見るとき、私達はこのような彼の表現からその者がまったく知性的な人物であることに気付きます。ですから、私達は表現や行動によって、実際、知性を分類しているのです。


【解説】
 私達は知性なるものをどのようにして見極めればよいのかを本文では述べています。
 これまでも自然観察の重要性を述べて来ましたが、その自然の中に息づいている「知性(英知)」については、単なる外見、外形上からでは見極められないと言っているのです。見極める為にはその者(物)が発する言葉の内容や動作、振舞いに内部に宿るものの本質が現れることから、これらを観察することで、その形有る物の本性を知ることが出来ると言っています。
 とかく、私達は外見の姿形、言い換えれば目に見える「結果」から大きな影響を受けてしまい、見えない内側の存在要素を見落としがちです。自然観察の目的は形状や様式を細かく分類して記憶することではありません。その者(物)の内部にあって表現や行動を司っている知性に気付くことが出来るようになることが、その目的です。観察のポイントは対象物の内側になるということでしょう。日本にも昔から動植物を描いた絵画がありますが、円山応挙らの作品は、今にも虎が動き出しそうな臨場感が表現されています。観察の結果、外見だけでなく、その生物が示す動作の特徴を表わしたもので、画家が動物の動作についてもよく観察していたことが良く分かります。私達の観察眼を対象物の外見に留めず、内側の知性にまで深める必要性を本文では述べているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落126

126 From experience we know that nature is governed by the Supreme Intelligence.
126 経験上、私達は自然が至上なる英知によって治められていることを知っています。


【解説】
 私達が自然から学ぶように、自然を観察するように度々、本文でも述べられて来ました。もちろん、春夏秋冬、様々な変化を見せ、その如何なる一瞬、いかなる細部にあっても自然界のものは皆、私達が観察すればする程、その美しさと繊細さを私達に示してくれます。このように自然の美しさや調和した中での活発な活動を目の当たりにすることによって、私達は各個体の美しさだけでなく、それらの間の絶妙な仕組みに感嘆してしまいます。
 しかし、このような自然の見方は、未だ浅いと本文では言っているのです。私達は自然界で生きる様々な生物達の活動を見る段階から、更に深めて、自然の活動を指令している英知の存在に気付くようにせよと言っているのです。各個体の消長に気を取られることなく、大自然を陰で支え、導いている英知こそが私達の探究の目的であり、その本質を如何に感得できるようになるかが、各人の訓練の行き着く目標です。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落125

125 Today we have scholars and learned men in all fields of endeavor, but all of them have to depend upon nature for their knowledge by studying nature's material and production of form life. And since man must depend upon nature for life itself, then it behoves him to let nature, rather than his ego, guide him. Or let his consciousness be his guide instead of his mind.
125 今日、私達の回りにはあらゆる努力分野において学者や知識人がいますが、彼等全ては自然界の物質や生命体の産生を学ぶことによって彼等の知識を自然に依存しなければなりません。そして人間は生命自体を自然に依存している以上、人間には自分のエゴよりは自然をして自分を導くようにする義務があるのです。言い換えれば自分の心に替えて、自分の意識を自らの導き手とすることです。


【解説】
 目下、地球規模の環境問題が顕在化しており、気候変動も次第に明らかになって来ました。これらは自然から搾取するだけの人間活動の急速な拡大がその原因にあります。現代社会は全てが、コスト即ち通貨価値によって支配されています。人間が勝手に与える価値によって物の評価が決まり、その物を生み出す過程については一切の考慮は払われていないのが現代です。他の生物種を勝手に養殖し、人間の都合のよいように密集し、管理されたケージで飼育されるニワトリは昼夜の区別なく光を当てられ餌を食べさせられて育ちます。そこで精一杯に卵を産み、安価な食品として食卓にのぼる訳ですが、一方の親鳥は幼鳥の顔を見ることなく、その後は肉にされ、文字通り身を裂いてスーパーの食品トレーに載る運命をたどっています。このような仕組みは全てこの惑星が造り出した地球人のシステムです。
 その仕組みの中に組み込まれている私達にとって、その仕組み自体を改めることは容易ではありませんが、少なくとも私達の生活の本質がこのように具体的に自然の生命の営みに依存していることは、最低限、知る義務があるでしょう。その上で、少しずつより調和した生き方を進める必要があります。自然界の最上位に位置する私達が自然をどのように見つめ、具体的な行動としてどのように振る舞うかが、惑星全体の波動、雰囲気、環境に大きな影響を及ぼすことにもなるのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落124

124 The most unfortunate part of man's learning is that his ego is impatient and tries to exalt itself above his teacher or Creator. And it is here that he makes his biggest mistakes, for he applies his will instead of Thy Will, and thus complicates things instead of simplifying them. He follows his mind which should be a pupil, instead of the consciousness which is the teacher and the life of every form. And yet his only salvation is to return back to Nature's guidance. For he can never become independent of it no matter how much he learns or how old he becomes. It will have to be nature by which he evaluates his knowledge.
124 人間の学習における最大の不幸は、人間のエゴが短気で自らを自分の教師である創造主の上に増長させようとすることにあります。そして人間がその最大の過ちを犯すのがここなのです。何故なら人間は「汝の意志」の代わりに自分の意志を用い、そうして物事を単純化する代わりに複雑化しようとするからです。人間は形有るあらゆるものの教師であり生命である意識の代わりに、生徒であるべき自分の心に従っています。そして人間の唯一の救いは自然の導きに立ち返ることです。何故なら人間は如何に多くを学び、如何に年老いても自然から独立することは決して出来ません。人間が自分の知識を評価するのは自然によらざるを得ないのです。


【解説】
 私達が多くの物事を達成できないのは、その努力に継続性が無く、容易に結果が現れない為に途中でその望みや努力を放棄してしまうことにあります。理由は本文にあるように私達に忍耐力が無いからです。物事が動き出すには様々な要素が働く必要があり、心が望んだとしてもその想念が作用し現実化するためには、ある程度の時間も必要ですし、本人の継続的な努力も求められます。畑に蒔かれた種が芽を出し実をつけるまでを見れば良く分かることです。
 継続があれば雨粒が岩をくり抜くように、思いは現実化するでしょう。問題はその思いを私達自身が途中で継続するのを止めてしまうせっかちにあると言っています。物事を実現するにはある程度のエネルギーが蓄えられなければなりませんし、目に見えないけれども周囲の状況にも働きかけも必要なのです。そういう意味ではやがて出る結果を待つことなく、途中で関心を他に移してしまう結果、私達の生活には何と無駄なことが多いことでしょう。
 試しに何か一つ自分の望みに相応しい願いを立てて見ましょう。それが他人に役立つことならなお結構です。その願いが正当なものであり、自分もそれを目指して、無理はせず、しかし休まず、諦めずに取組んでは如何でしょうか。きっとその願いは思いのほか、短時間に実現することに気付くでしょう。私達は生命の海の中に生きており、その流れに従って進めば、大きな苦労はなく、目的地に着くことができるからです。自我を宇宙本流の流れに調和させるための努力こそが重要なのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落123

123 Even today man is going into the depths of the ocean and into space, only to learn from nature.
123 今日でさえ、人間は海洋深く潜ったり、宇宙に進出していますが、それらはただ自然から学ぶ目的からです。


【解説】
 最近では多くの人々が海外旅行に出掛けて世界各地の歴史遺産等を見て回るようになりました。また、機材を身に付けての水中散歩や山歩きも盛んに行われているようです。これらは豊かな人々が増えつつある良い時代になった結果と思う一方で、これらの探究心の背景には自然そのものや歴史上の人物を尊ぶ気持、更には自分自身をその場に置いて自身でその現場状況を感じ取りたいという真摯な気持があるものと思われます。
 この探究の結果、得られるものはいずれも単に書物で読む以上に私達自身に確かな印象を植え付けることでしょう。また、天体望遠鏡による星空の観察というマクロの目から、植物や小動物等のクローズアップ写真(接写)のミクロな観察まで、自然観察は私達に毎回、多くの発見をもたらしてくれます。とりわけ、接写を通して創造物というものは細部になればなるほど、精巧につくられ美しい造形美がそこに広がっていることに気付きます。このように自然の美しさについて認識を深め、古来から伝わる偉人達の生き方を学び人々の願いを知ることで、私達自身も成長できる訳です。やがては私達の身の回りにあるものすべてが、私達の教師になる存在であることに気付くことができれば、毎日を楽しく学習、精進できることになるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落122

122 Let us assume that, the first man on earth did not have a teacher to guide him along the path of life, so he had to use nature as a teacher. i.e. As he listened to the winds passing through the trees with their varying types of leaves, he noticed that each produced a different sound. And as he listened to the birds and the rushing waters of the brooks and rivers, and other sounds that nature produces, he desired to reproduce the sounds. So he made a flute type whistle and later other instruments. Man innately desires to become as his Creator. So nature has been his greatest teacher.
122 ここで地球上の最初の人間が人生の道程を導く教師を持たず、自然を教師とせざるを得なかったと仮定しましょう。即ち彼は様々な形の葉を持つ木々の間を通り過ぎる風に耳を傾ける時、各々が異なる音を発することに気付きました。そして鳥達や渓流や川の水の流れやその他、自然が造り出す音に耳を傾ける時、彼はそれらの音を再現したいと思ったものです。そこで彼はフルートの形式の笛、そして後には他の楽器を作ったのです。人間は生来、自分を創造した創造主のようになりたいと願っているのです。ですから自然は彼の最も偉大なる教師であったのです。 


【解説】
 自然界に生きるもので人間以外は皆、各々創造主の導きのまま、その種族に託された生命を全うしているということを前節で述べました。ここでは人間は当初、地球に置かれた時から、どのように成長して行ったかを述べています。古代の壁画に残る動物の絵や、祭事用や人形の土器の遺物等、文字の無い時代の古代人の生活振りの一端は、世界的にも残っています。このようなものに加えて、本文では楽器の由来として、自然界における木々の枝が風でそよぎながら出す音等、自然の中で聞こえる様々な音を真似ることから始まったと解説しています。
 また、人間本来の性質として、丁度、幼児が大人の動作を真似るように、人間は自らを生んだ創造主の真似をしたがるのだと言っています。言い換えれば、自然を手本とするという基本的な原則は、古代から現代、更には未来永遠に連なるものと言うことができるでしょう。
 言い換えれば、自然は人間に多くのことを気付かせ、教えてくれるものだと考えます。青空の中を行く雲は大変すがすがしいものですが、それと同様な光景は古(いにしえ)の人達も同じ気持で観ていたことでしょう。多くのインスピレーションを与えてくれる自然ですが、自然自らが言葉を発して私達に語りかけることはありません。常に黙って只、その作品(光景)を見せるだけです。そこから何を学び取るか、真似るかは各人に架かっているということですが、少なくても、その意義を感受した者は自分の得た知見を自ら表現して他者の参考にさせる必要があるのです。それこそが、人類の進化を促進する原動力となるからです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落121

121 Ninety per cent of life as we see it is governed by the law of direct guidance. The 10% which is man, has separated himself from the law by using his free-will.
121 私達が見るところ生命の内90%が直接の指導によって治められています。残り10%の部分が人間なのですが、それらは自分の自由意志を使って法則から自分自身を分離させて来ているのです。


【解説】
 地球という惑星を文字通り支配しているのは私達人類(地球人)です。しかし、惑星上の生命体全体の中ではその存在は10%だと言っているのです。言い換えれば大多数の生命体が宇宙英知の直接的な指導に従っており、調和を保っている訳ですが、このお蔭でとりあえず、この惑星は調和を保ち、維持されているということでしょう。
 しかし、昨今では環境汚染は地球規模の気象変動にまで影響を及ぼす程の規模になって来ています。もちろん、この原因者は人間にある訳で、10%の存在が残り90%の生命の拠り所である惑星全体の行く末までも変えようとしているのです。また、その影響は環境問題のみに留まらず、惑星全体の精神波動により大きな影響を与えているものと思われます。自分達が発する想念が惑星全体の雰囲気を汚染して不安や殺伐としたものに低迷させている訳です。本来、創造主から贈られた楽園であった地球を現在のような状態にしたのも、この10%の存在ということになります。まさに10%という一握りの存在が全体を支配する構図です。私達人間の持つ本来の責任を各々が自覚し、その責任を全うすることは各人の義務であり、その影響を少しずつ広げて、少しでも惑星をより良いステージに導くよう心掛けたいものです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落120

120 When we say Nature, it is used as a representative of The Mother Principle of Divinity. For she is the one through which forms are born. This is the feminine side of life, while the Supreme Intelligence is the masculine. And the two are working as one to bring forth the many manifestations.
120 私達が自然と言う時、それは神の内の母性原理を代表するものとして用いられています。何故なら、そこから形有るものが産まれるからです。これは生命の内の女性的な面を示しており、一方で至上なる英知は男性面を表わしています。そして両者は多くの創造物をもたらす為、一体となって働いているのです。


【開設】
 全てのものがその惑星に属する物質から生まれ、また死する時も元素達は再びその惑星のもとに返される等、物質は循環(輪廻)を繰り返します。物質の構成要素である原子にまで遡れば、全ては形を変えながらも絶えず新しい創造物へ生まれ変わっています。自然の中では季節毎に動植物が入れ替わり立ち替わりに新しい姿を見せています。早春の芽吹きから始まって、陽春の草花、初夏の緑、盛夏の蝉時雨、初秋の紅葉、そして晩秋の落葉等、わずかの間に自然は実に様々な変容を見せてくれます。このように誰でも身近に観察できるのが自然における創造の姿です。私達自身も含め、まさにこれらは全て地球という同じ母体から生まれた兄弟達と言うことができるでしょう。
 また、本文ではこの活動を指導している英知、父性原理について述べています。この英知は目に見えない為にむしろ私達は気付くのが難しいと言えるかも知れません。しかし、材料が揃っていてもその作用のさせ方、加減が分からなければ何一つ造り上げることは出来ません。遺伝物質から正確に情報を読み取り、必要な成分を合成して行く為には私達が想像する以上に強大なパワーが作用していなければなりません。そのパワーの源(意識)の持つ力がこれらのあまねく創造の活動を支えているということです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落119

119 You may ask, how do we classify intelligence. Man classifies it as the result of actions or expressions. If we use this same classification, then we must admit that we are living in a sea of intelligence. All forms that live and express are using certain phases of it, and fulfill the purpose for which they were created. All of these lesser forms act automatically under the guidance of nature. Or we could say, by direct guidance of the Creator.
119 知性についてはどのように分類するのかと貴方は問うかも知れません。人はそれを行動や表現の結果から分類しています。もし私達が同様の分類をするなら、私達は自分達が知性の海の中に生きていることを認めざるを得ません。生きそして表現する形有るものは皆、その(訳注:知性の海)何らかの側面を活用しており、それらが創造された目的を達成しています。これら(訳注:人より)下位の形有るもの達は自然の導きの下、自動的に行動しているのです。言い換えれば、創造主の直接の指導によっていると言えるでしょう。


【解説】
 前前節(117)では、divide(分割する)、separate(分離する)ことの問題が指摘されました。それを受けての文節がこの項です。前前節を受けて、私達は分類(classification)についてはどのようにしたら良いか、言い換えれば分割や分離でなく、どのように分類することが望ましいかを示しているのが、本文だと私は解釈しています。しかし、この違いは微妙でもあります。「分割」や「分離」という概念には他者との違い、独立性を主張し、優位性を高める感覚があることが問題なのです。いずれにせよ、物事を良く冷静に観察する中で、それら自然界の対象物が、いずれも宇宙を貫く法則に従い、自分の意志を完全に宇宙意識に同調させていることが分かります。とりわけ、この英知の大海の中で多くの法則、多くの世界がある中で、各々はその住む世界に応じた法則の下に生きているということです。
 つまり、ハチであれば、ハチの住む世界に対応した自然界の法則(”掟”)があり、ハチ達はその与えられた規範の下、精一杯の生き方をしていると言うことが出来ます。これが創造主の直接の指導ということでもあるのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落118

118 As you can now see, man or his mind is in the process of creation, working towards a perfect manifestation by learning. And time is not involved, for there is no time in Eternity. So it then behoves us to study the various phases of creation that we may learn its reason for being. Then we will not judge our Creator, as we have in the past through lack of knowledge. For truthfully no man can judge his Creator or any of His creation. When man makes a thorough study of Life's purpose, understanding replaces judgment. For then man as the highest expression, becomes one with his Creator. And his intelligence is in line with the Creator's intelligence.
118 今やおわかりのように、人、すなわち人の心は学習を通じて完全なる創造の現出に向かって努力している創造の過程にあります。そして時間は関係ありません、永遠には時間が無いからです。ですから私達がその存在の理由を学ぶことが出来るよう、様々な創造の段階を学ぶことは私達にとっての義務なのです。そうすれば、かつては知識の不足から行って来ましたが、私達は私達の創造主を裁くことはしなくなるでしょう。何故なら、本当に人は自分の神や神の如何なる創造物をも裁くことは出来ないのです。人が生命の目的を徹底して研究する時、理解が裁きに置き換わります。そうなれば、人は最高位の表現者としてその創造主と一体になるのです。そしてその知性は創造主の知性と一致します。


【解説】
 私達は言うなれば、本来備わっている知識、優れた能力について教えられることがない為、既存の体制の中で作り上げられた結果の世界の中で、次第にその備わった生命感覚が失われて行きます。果たしてどれだけの人が人生の最終日に「自分は自分の人生の目的を精一杯果たして来た」と言って、安らかに臨終の時を迎えられるのでしょうか。
 しかし、生まれでる赤子には本来、託されているその生命の目的がある筈です。動植物が自然界で各々の役割を持っており、相互に競い合いながらも互いに補完しあう連携した活動を行っていることを考えれば、それらよりもの能力があり、技量も格段に高い人間が、自らの目的を知らぬまま人生を終わるということは、本来あってはならないことです。本文では各自に「a thorough study of Life's purpose(生命の目的について徹底した研究)」をするように促しています。自分の目的は他人に教えてもらう訳にはいきません。第3課の後半に至ったこの時期に、腰を落ち着けて自ら探究することが望まれているのです。
 日本国内には多くの著名な仏像が現存します。その仏像は建立以来何百年が過ぎており、作者に建立にあたっての意図を直接伺うことはできません。しかし、脈々とその仏像が慕われ、大切に保存されている中で、後世の私達はその像をよく観ることで、仏像に寄せた作者の意図を推し量ることができることでしょう。まして私達各人は現在、生きている訳でその存在の目的は自らの責任で、突き詰める必要があります。自己を通じて刻々現れる生命活動をよく観察して、自己の真の目的について知ろうとする気持が大切です。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落117

117 Instead of gathering all form life into the sea of consciousness we have divided and separated, and this is why we cannot see God's life manifesting through us and all form life, as our space brothers do. For when they look upon a form, be it of man or any other expression, they do not see just the form, they see the consciousness that supports the form. This is seeing the Creator expressing through the form when the THY WILL and not the mind will is done. Their world and all life on it are conscious manifestations of the Creator, and are so honored.
117 すべての形有る生命を意識の海の中に集めることをせず、私達はそれらを分割し分離して来ましたが、これが私達の宇宙兄弟達がしているように私達やすべての形有る生命を通じて神の命を見ることができない理由です。何故なら、彼等が形有るものを見る時、それが人間であれ、他のどのような表現物であれ、彼等は単に形だけを見ることはなく、彼等はその形有るものを支えている意識を見るのです。これが心の意志でなく汝の意志が行われている時、形あるものを通じて創造主を見ているということです。それらの世界とそれの上に成り立つすべての生命は創造主の意識の現出であり、そのように栄誉を受けているのです。


【解説】
 自然を観察することを何度も本文を通じて勧められて来ました。自然界の動植物の観察を通じて確かにそれらがひたすら活動しており、何らの悩みも無いばかりか全体として調和した一連の自然の循環の中にあることを確かめることができます。
 一方、私達はその自然観察も往々にして植物の名前であるとか、昆虫の種類の呼び名を覚えることに片寄りがちです。確かに一つの分類名がわかればその種の特徴を記した図鑑等からだいたいの知識が得られますし、そのことによってその種については「わかった」「知っている」としがちです。しかし、本文ではこのような従来からの分類学の手法は誤っていると言っているのです。つまり、私達はその相手の外見上の形態だけに捕われて、その内面にある生命の本体、意識には無関心になっていることの問題を指摘しているのです。
 以前、ある絶滅危惧種の渡り鳥(コアジサシ)の保護活動をお手伝いしたことがありますが、その時、鳥の観察を通じてまじまじと思ったのは、この鳥達は皆同じ顔をしているように思えたことです。このことはある意味、当然なことで、分類学が成立するように多くの生物種はその種の中では極めて類似した顔かたちをしている訳です。そこで思ったのは彼等はどうやって相手を識別するのだろうかということと、人間に写し代えた場合、各自が皆同じ容姿を持ったとしたらどうなるだろうかということです。もちろん、その場合は各自は益々、自分の内面性を磨くことになることでしょう。つまり、鳥達は外見でなく、内面を見通して自分の相方を見分けているのだと思います。
 とかく私達は外見で人や物の価値を判断しがちです。しかし、このような形態の違いはそれを支える宇宙生命の大きさに比べれば、大した違いでは無いのです。生命の根源にある分子群であるDNAの違いもごくわずかだと聞いています。私達は自然を観る時、植物や動物等に関わらず、すべて同一の生命体の現れ、同胞として接し、各個体と交流が出来るように寛容の心を向けることが大切だということです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落116

116 And we have become lost in our own mis-creations by separating ourselves from our consciousness which is of the Creator. We have become intellectual giants, but moral morons from a conscious point of view.
116 そして私達は創造主である私達の意識から自分自身を分離することによって私達自身が造り出した誤った創造の諸物の中で迷子になってしまっているのです。私達は知的には巨人になっていますが、意識の観点からは倫理上、低能に成り下がっています。


【解説】
 私達の最大の問題は意識から自分自身を分離させてしまったことにあると言っています。自我(エゴ)を増長させ、自我のみで人生を送って行けるとして、やりたい放題に人生を謳歌して来た結果が、現在の混乱した状況と言えるでしょう。様々な時代を通じて多くの賢人達がこのことを指摘しています。(例:Wayne Dyer,は講演の中で"貴方の唯一の問題は貴方自身の源泉から自分を分離させてしまった、You've separated from your sourceと述べています)。
 本文ではまた、私達は知識の面では巨人になっているとも言っています。何世紀にもわたって私達は自然を研究して来た結果、自然界を支える宇宙の諸法則について、利用出来そうな結果面では着実に成果を吸収して来ました。その結果、今や遺伝子操作技術から原子炉まで多くの技術を確立しています。しかし、自然界で起っている調和した生命活動の根幹には私達が無視して来た宇宙の創造主の意志があり、創造物はそれらの指導に従って行動していることを私達は忘れ、目を向けておりません。それらの指導が無ければ、多くの動物達が災害を事前に察知して避難したり、渡りの時期を決めること等、出来ない筈です。私達は先ず、前提となるこの目に見えず、耳に聞こえないけれど私達の最も身近に居て、絶えず私達を抱擁している意識なる存在に心を向け、敬い、慕うことです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落115

115 So it is with the law of the Cosmos. Positive Thinking, that you may have heard about, has hurt more people than it did good. God's purpose cannot be divided and give good results. Nor can one judge His laws and omit parts of them, be it through lack of understanding or egotistical aggression, which has been done through the ages. People judge the Creator's creation without knowing the reason for each part. And in this way they have been judging the Creator and exalting the ego mind above His Intelligence.
115 ですから、それは宇宙の法則についても言えることです。陽性の考え方(ポジティブ・スィンキング)は、貴方が聞いたことがあるかも知れませんが、それが為す良い事以上に多くの人々を傷つけて来ました。神の目的は二分されて良い結果をもたらすことは出来ません。人は理解力の不足に由来するにせよエゴの侵略行動に由来するにせよ、神の諸法則を裁いてその一部を除くことをしてはならないのですが、それを長年行って来ました。人々は創造主の創造物を各々の部分の存在理由等を知らないまま、裁いて来ました。そしてこのようにして、人々は創造主を裁き、自らの自我の心を創造主の知性の上位に置き増長させて来ているのです。


【解説】
 ここではいわゆる東洋の「陰陽」に類似したことも示唆しているように思われます。
 陽性(Positive)の考え方は一見、積極的、行動的で好ましいように思われがちです。しかし、私達の劣った心の段階では、それは断定的になったり、更には攻撃的になったりする大きな問題要素を持っていると言っています。陽性は過度になれば、相手の立場を考慮することなく、相手を非難し、裁くことを平気で行うようになります。また、極端な場合には残虐な事件を起すことにもなりかねません。戦争はその端的な例です。
 このように陽性の考え方を突き詰めて行けば問題がある訳ですが、反対に陰性(Negative)の考え方についてはどうでしょうか。陰性の考え方は、想念を受け入れようとする開かれた態度である一方、自ら積極的に働きかけることはしない為、常に受け身の対応となります。その結果、様々な他の主張に耳を貸す一方、自らの意見の発信を行わず、他に影響を及ぼすことができないことになります。即ち、陰陽のどちらか片方を取り入れることでなく、両者をバランスさせながら発展させることが必要なのです。
 しかし、まずは陽性の考え方に注意しなければならないと言っているのです。本文では、特に陽性の考え方を自我(エゴ)の増長に結びついているとしており、先ずは創造主に対して心を謙虚にすること、どちらかと言えば陰性の考え方を最初のステップとするよう、助言しているものと考えられます。
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