2007年07月

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落114

114 And remember you cannot have a manifestation or good results if you do not use both sides of the law. The objective and the subjective, or the negative and positive - male and female. You cannot use one and exclude the other and expect good results. Let us go back to electricity for an example. Electricity is one power consisting of two phases, negative and positive. One phase cannot be used in the absence of the other and give useful power. But when they are combined and balanced the manifestation is perfect.
114 ここで覚えていて欲しいのは貴方は法則の両面を用いなければ、創造の現れや良い成果は得られないということです。主観と客観、積極性と消極性、男性と女性がそれです。一方を用いて他方を排除しては良い結果は望めません。一例として電気について振り返ってみましょう。電気は2つの側面、マイナスとプラスからなる一つの力です。他方無しで片方を用い、有益な電力を得ることはできません。しかし、それらが統合されバランスがとられた時、そのもたらす創造の現れは完全になります。

【解説】
 ここではその普通の生活を送る上での注意点を述べています。もちろん意識による指導を常に受けていれば、このような注意も必要ないのでしょうが、私達の心得のポイントとして、法則の両面をバランスさせながら生活に生かせと言っているのです。
 自然界の法則には対比性(対極性)があると言っています。電気のプラスとマイナス、磁気のN極とS極、動植物の雌雄がそれです。また同様に人間の身体の例えば心臓の収縮・拡張の運動による血液の循環、更には呼吸における呼気と排気の動作等々の他、分子の振動にも当てはまる等、深遠な意味を持っているものと思われます。
 この両極性の片方を排除せず、その両方を素直に受け入れて行けば、成果が出ると言っているのです。これを進めて行けば、自分一人で行う精進には限界があると言うこともできるでしょう。自分と異なる性質、違う意見を持った者とも進んで交流し、バランスをもって相互に影響を与えあうことによって新たな成果が得られることをも意味しています。動植物を含め、様々な個体と接触することで世界が広がると言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落113

113 Also notice that we did not forbid you to live a normal life. All that is asked of you is - live a conscious life and not a mental one. And do, and use, all things in moderation. That is all that is necessary to fulfill the purpose of life. This is how our space brothers have grown in knowledge and live a heavenly way of life.
113 また、私達が貴方に普通の生活を送ることを禁じていなかったことにも注意して下さい。貴方に求められていることの全ては、心による生活でなく、意識による生活を送ることです。そして全ての物事を適度に行い、また用いなさいということです。それが生命の目的を成就する上で必要なことの全てです。この方法によって私達の宇宙兄弟達が知識において成長でき、今、天上の生活を送っているのです。


【解説】
 本文で述べているのは何も特殊な修行をするのではなく「通常の生活を行いなさい、但し心でなく意識を使って」ということです。確かに極端な修行や行為を行うことによって一時的には私達の日常感覚を超えたいわゆる神秘体験を得ることもあるでしょう。その時は既存の心が解放され、意識からの莫大な印象が流れ込むことになります。しかし所詮、その行為を長続きさせることはできません。すぐにも過去の一体験として終わってしまいます。
 問題は24時間、一刻一刻における私達の生活の中における心の反応なのです。本来の私達の心の進化の道を歩む為には「あせらず、怠けず」、意識の存在を少しずつ自ら確認し、意識の指導を求めながら歩むことです。
 道は長く遠くまでつながっています。以後、何代にわたって歩む道でもあるのです。しかし、労苦を求める訳ではありません。自然界の調和した姿を愛で、その一員として毎日の営みを楽しむ(enjoy)することが必要だとも言っています。釈迦も苦行の道からは悟りを開けず、少女が差し出したミルク粥を食べた時、生命の歓び(悟り)に気付いたとされています。私達は見えざる意識の指導を仰ぎながら、あらゆる事を調和をもって行うことが求められており、長い道程を各自のペースで日々、少しずつ歩むことが重要なのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落112

112 The thing that we ask you to do is - become aware of your real self, the eternal part of God, or The Creator. Let your mind become conscious of consciousness as your guide in everything that you do. Then the admonition "Man know thyself and you shall know all things," will be your reward. But the mind must learn to trust the consciousness at all times.
112 私達が貴方に実行して欲しいとお願いしたいことは、貴方の真実の自我、神の永遠なる部分、創造主に気付くようにすることです。貴方の心を貴方が為す全てにおけるガイドとして意識を意識するようにさせて下さい。そうすれば、訓戒「汝自身を知れ、そうすれば全てを知るだろう」を褒美として受け取ることになります。しかしその為には、心は意識を如何なる時も信頼することを学ばなければなりません。


【解説】
 精神集中や瞑想よりも、真自我(Real Self)を日々の生活の中で意識することが重要だと言っています。目に見えず、耳に聞こえない微妙な意識からの指導に気付くようにせよと言っているのです。
 別の言い方をすれば、次々にやって来る印象に自分の心を鋭敏にする為には、先ずは心自体を静かに落ち着かせ、内部の意見や偏見を鎮めることが前提となりますし、心自らが目に見えない存在からの指導に従おうとする誠実な志向性を必要とします。つまり、心を謙虚にさせること、自然や宇宙に対して畏敬の気持を育てることでもあるのです。
 こうした中で、印象に従う行動を積み重ね、最初の内は失敗も多い筈ですが、習熟するにつれて自分自身の中にある惜しみ無く与えてくれる目に見えない存在をますます信頼するようになり、全ての面で各自が自分の人生を次第に有意義なもの、創造主がお望みになる方向に発達させることができるようになることでしょう。
 これまで奉仕して奉仕して来たこの永遠の生命の贈与者に気付き、感謝すると同時にそのアドバイスを受け入れ、各自の行動の中で現世に実現することが、贈与者への恩返しでもあるのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落111

111 We are now in the third lesson and I have not asked any one to concentrate or meditate, as taught in other fields. If anything, these ancient methods have brought the unpleasant conditions that we today face in the world.
111 私達は今や第3課に入っており、私はこれまで誰一人にも他の分野で教えられているように精神集中や瞑想をするようにとは言って来ませんでした。むしろ、これら古代の手法は今日私達が世界で直面している不愉快な状況をもたらして来たのです。


【解説】
 この種の人間の知覚力・精神性の養成において難しいのは、教師側が伝える内容に対して、学習者が容易には理解できないということです。教師が自覚し、イメージしていることを言葉で生徒に伝える訳ですが、生徒に相当する理解力がなければ、形だけ、上辺だけの模倣が始まってしまいます。
 精神集中や瞑想も上級者にとってはごく自然な行為の一つですが、私達初心者にとっては有益ではないと言っているのです。つまり、ただでさえ、自己中心的であり、結果世界から大きな影響受け、恐怖に支配を受けて日常を送っている私達は、例え沈想したからと言って、何か素晴らしい想念が直ちに流れ込んで来るなどということはありません。むしろ、ますます自意識過剰、あるいは自己の醜さだけが自覚され、憂鬱な気分に陥るかも知れないのです。
 出典ははっきりしませんが、ある人が「あなたはこれ以上、自分に関心を持たなくてよいのです。既に十分過ぎる程、自分に関心を支払っています。」という主旨の発言をしていたことを思い出します。精神集中や瞑想は自己の殻の中で空回りさせる危険性もあることを本文では述べているように思われます。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落110

110 This shows that consciousness knows no fear - for it is the possessor of all knowledge. The mind does not have the knowledge and lives in fear. And as a result it has promoted all kinds of mysteries in relationship to life and its continuance.
110 このことは、意識は如何なる恐怖も知らないことを示しています。何故ならそれはすべての知識の持ち主であるからです。一方、心はその知識を持ちませんし、恐怖の中に生きているのです。そしてその結果、心は生命とその存続に関連してあらゆる種類の神秘を助長させて来ているのです。


【解説】
 不安や恐怖こそ、地球の人間が克服すべき最大の課題です。誰しもこの世に生まれ落ちた時は皆等しく創造主から才能や素質を授けられていた筈です。その創造主の子供達が成人し、造り上げたのが現在の社会です。そこには幼子を待ち受ける地上にはびこった既成の仕組みが大きく作用していることも確かです。しかし、人間の生涯は高々90年です。即ち、このスパンで、ほとんどの人間が入れ替わる訳で、過去の制度や仕組みに加えて、私達今日生きている人間こそが現在社会の諸問題発生の原因となっていることは間違いありません。
 その最も大きな問題が恐怖の問題だと言っているのです。恐怖心は人間の理性を失わせ、極端な場合には殺人や戦争をも引き起こします。この恐怖は実に巧妙に自我の心の中に入り込みますし、既存社会の体制維持の道具としても用いられています。
 何度となく申し上げることですが、一方で自然界の生物達は例え自らの生命の危機にあっても恐怖に支配されることはありません。自らの寿命が明日で尽きる場合でも、皆現在を楽しみ、まさに為すべきことを為しています。特に夏に野原に出て見ると、虫たちは短い夏を精一杯楽しむかのうように、休まず働いています。これら虫たちが知っている「生命の永続性」こそが、ある意味、人間が身に付けなければならない最大のポイントだと考えます。その生命の永続性をベースとして人間本来の進むべき方向に向けて、日々の生活を楽しみながら、必要な訓練を続けることだと言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落109

109 The Breath Of Life is proof of that, and it is given freely to all forms of life. For was not the first clay form of man activated into life by THE BREATH OF LIFE, breathed into its nostrils by the Creator? And it became a living soul, or a conscious being. A new born child is slapped on the buttocks and made to take the first breath, or it would not be alive. And notice here, the mind is only partially active, yet the baby is consciously alive. We know that a young mind knows no fear until fear is imposed upon it. Or until it begins to act with the mind and gets hurt, then fear takes over.
109 生命の呼吸はその証しですし、それは生命のすべての形有るものに無償で与えられています。人間に形取られた最初の粘土が創造主によって鼻から息を吹き込まれ、生命の呼吸によって生けるものになったのではありませんか。そしてそれは生ける魂、意識ある存在になったのです。生まれたばかりの赤ん坊がおしりを叩かれて、最初の呼吸をさせられますが、そうしなかったら、生けるものとはならないでしょう。そして、ここで注意して欲しいのは、赤ん坊の心は一部しか生きていませんが、赤ん坊は意識的には生きているのです。若い心は恐怖が押し付けられない限り、恐怖を知らないことを私達には分っています。あるいは赤ん坊が心といっしょに行動し、痛みを得るとその時から恐怖が支配するようになるのです。


【解説】
 座禅その他の沈想の際、良く分かるのは自分の呼吸です。私達は独りでに、何らの努力をせずとも、人体が生きて行く為に不可欠な呼吸、生命の息を休みなく行っています。これは各自が赤ん坊としてこの惑星に生まれた時に始まる永続する宇宙の活動の一つでもあります。私達は通常、その言わば目に見えない創造主から無償で授かった生命活動に対して、もはや当然のごとく見なしており、その有り難さを自覚しておりません。唯一、自覚するのは、水に溺れた時や臨終の時、言い換えれば自らの生命活動の終わりに瀕した時です。無くてはならないこの呼吸こそ、全創造物に贈られた生命の根源的な活動なのだと言っているのです。
 ありとあらゆるものが惑星上の同じ大気を身体に取り入れることによって、生命を維持している訳で、聖書にあるように人間の創造に関わるのがこの呼吸です。ヨガや禅の例を引き迄も無く、おそらく呼吸にはより深遠な意義と仕組みが隠されているものと思われます。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落108

108 Perhaps you feel that I use the word consciousness a great deal and place emphasis on it. And you may wonder, why? It is because the consciousness has been neglected through the ages while the mind has been exalted. And did Jesus not say that we are the Temples of the Living God? It could be said in this way, know yea not that yea are the embodiment of the living consciousness?
108 おそらく、貴方は私が意識という言葉を大変多く使用し、それに力点を置いているとお思いになるでしょう。そして何故だと思うかも知れません。それは何世代にわたり心が増長して来た一方で、意識は無視されて来たからなのです。そしてイエスは私達は生ける神の社であると言わなかったでしょうか? それはまたこのように言うことが出来ます。貴方は自分が生ける意識を体現したものであることを知らないのかと。


【解説】
 「意識」という表現は、アダムスキーが特別な意図を持って表現した言葉と考えられます。ある意味、人間、否、そればかりでなく、ありとあらゆる創造物に宿っている、より深い目覚め、感性、知覚その他の認識を示しています。実際に各自の内なる存在の中に表層的な自我(エゴ)とは別の、根源的で創造主につながっていて、各自の様々な機能を司っているものを「意識」と表現しているのです。また、この「意識」なるものは、私達が通常、使用する「意識」、例えば「○○を意識して」(即ち○○の所に自分の感性を置きながら)、あるいは急病人が倒れて「患者の意識はあるか」(即ち、患者が覚醒しており、精神あるいは感覚の基本的機能が無事かどうか)という時に用いる場合と極めて類似した要素があると考えられます。
 古来より、創造の真理は不変ですし、「意識」についても昔から存在していた訳で、多くの哲学者や宗教家がこの意識について、各々の時代や言語で語って来ました。科学が進化し、生命活動の仕組みが次第に明らかにされて来る中で、今日、私達は再度、原点に帰って、生けるもの、とりわけ自己の内部で「意識」がどのような活動を行い、私達の自我とどのように関わっているのかを深く観察することが重要となって来ました。他の自然が創造主の指導に従っているのに対して人間だけがその光明を見出せないでいるからです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落107

107 You may say here, it is a mess. Yet it is the product of the exalted ego or human mind. For it no longer allows itself to be guided by the consciousness or creator.
107 ここであなたは、それをめちゃくちゃだと言うかも知れません。しかし、それは増長したエゴ、即ち人間の心の造り上げた所産です。何故なら、エゴはそれ自身を意識あるいは創造主によって導かれるものとはしていないからです。


【解説】
 あらゆる物事に原因がある訳で、この混乱した世の中も、所詮人間のエゴが造り出してしまったものです。人間の増長した自我(エゴ)は創造主の導きの手から離れてしまい、その結果、何十世紀もの間、形を変えながらも流れ着いた先が現代ということでしょう。
 しかし、その問題の原因は明確だとしています。エゴが創造主の指導に耳を傾けなくなったことに原因があると明言されています。実は、これと同様の指摘は多くの哲学者、宗教者が異口同音に訴えていることなのです。Wayne Dyer(ウェイン・ダイヤー)も「貴方の持つただ一つの問題は、ご自身の源から離れてしまっている」ことだとも言っています。本来、最も身近な存在であるべき自分の中の宇宙的な存在、常に進むべき道を示して下さる導き手を受け入れないなどというもったいないことを私達は日常行っています。唯一、自我のプライドが捨てられない為や不安を払拭できない為に踏み込めないでいるのです。
 聖書では息子が放蕩の限りを尽くし疲れきって家に戻って見ると、両親は暖かく迎い入れてくれたとしています。各自が自我を自ら訓練し、日常生活を通じてより誠実に創造主に向き合うようにすることで、自我の増長を戒め、本来の道を進むことができることでしょう。その先には両親である創造主が暖かく迎えてくれる筈です。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落106

106 We can see the results, for the whole world is living under the cloud of fear one against the other. And no one trusts another human being.
106 私達はその結末を見ることが出来ます。何故なら、全世界が相互に対する恐怖の雲の下で生きているからです。そして誰一人として他人を信用してはいないのです。


【解説】
 エゴが造り上げた社会は自分しか頼りにせず、自立した個我が自由に生きることを保証された社会であり、一見もっともな理屈がありますが、一方では貪欲がまかり通る殺伐とした世の中になっているという方が真実に近い表現でしょう。
 基本的には他人は信用されませんし、また信用したら途端に食い物にされる社会です。確かにこのような社会で生きて行く為には先ず、相手を疑ってから対応するのは賢い生き方なのかも知れません。
 しかし、このような世の中の風潮は変えて行かねばなりません。未来の世代がより良い社会環境の中で生涯を幸せに送る為には何が必要なのかを考え、一歩でも実現させるのは今の世代の私達です。与野なカの人々にそのような社会の次痛言を訴えるのは政治や宗教の本分ではありますが、そこにも偽物と本物とがあり、容易に信託することも出来ません。アダムスキー氏は組織というものを信用しませんでしたし、自らも作りませんでした。ただ、多くの著作を残し、講演会を開いて大衆一人一人に真実を訴えたことはご存知かと思います。様々な機会を捉えて同行者を募り、一人一人の思いを発信し、共感者を増やして行く草の根の活動が必要なのではないでしょうか。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落105

105 This shows that there are two stages of intelligence in the human form. One the Cosmic - directing the functioning of the body. And the other - mental opposition that causes the suffering in the body. A Clergyman expressed this well when he said that humanity has become Un-Godly. This is true, for people no longer look to the Creator for guidance, and they do not have faith in the giver of life. And as a result, they exercise their free-will to the full extreme under the master of fear. So greed has taken over, and it is like a cancer which is bound to destroy this civilization if it continues. These are the fruits of the free-will, where one Will does not trust another. But how can it when the will of man does not trust the Will Of The Creator or consciousness?
105 このことは人体は二つの舞台があることを示しています。一つは人体の機能を指揮している宇宙的な存在、そして他は人体に苦痛をもたらしている心の反抗です。ある牧師はこれを人類は神を敬わなくなってしまったと言ってこのことを良く表現しました。これは導きをもはや創造主に求めない人々にとっては真実ですし、彼等は生命の贈与者に信頼していないのです。その結果、彼等は恐怖の主人の下、最大限まで自分達の自由意志を行使するのです。そのため、貪欲が支配するようになりましたが、それはもし続くならこの文明を滅ぼすことになる癌のようなものです。これは一つの意志が他を信用しない所に実る自由意志の結実の結果です。しかし、人間の意志が創造主の意志、あるいは意識を信頼しないとしたら、どうなってしまうことでしょう。


【解説】
 究極的には信仰心(faith)に行き着く問題なのかも知れません。自我の確立を大義として近代文明はそれまでの政治から文化まで、生活の隅々まで宗教が浸透していた中世に反旗を翻して新しい自我中心の文明を造り上げて来ましたが、その結果が現代社会なのです。
 確かに権威主義の暗黒時代は今日では完全に解消され、人々は自由を満喫できる時代となりました。しかし、今日、人々の日常にどれほどの精神的拠り所があるのでしょうか。自由意志からは自由競争、自己責任へと、個々の力量が最大限尊重される一方で、競争に敗れ、あるいは結果が予定通りのものでなかった場合、自我(エゴ)の心は直ちに自信を失い、落込んで何らの活力も生み出せなくなる傾向になります。これはまさに、自由意志の限界と言えるでしょう。
 もともと、この自由意志は自我の身勝手な意見に他なりませんし、本来、何ら創造的なものを生み出す力は無いことを最初に自覚すべきなのでしょう。これら自我の意志に依存することなく、もっと身体に宿る創造主の要素を身近に実感し、その指図を待ち、素直に受け入れることを目指すべきなのではないでしょうか。更には、この自由意志を内なる創造主の要素に寄り添わせるよう、創造主の言葉(印象)を大切なものとして受け入れ、合体させる覚悟が必要なのです。その為にも、自分の内部の宇宙的な存在を先ず、信頼して次ぎの一歩を踏み出すことが重要と言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落104

104 Fortunately there is a harmonious law that works through the body independent of the mind, or the body would not last the years that it does.
104 幸いなことに、身体の中には心から独立して働く調和ある法則があります。そうでなければ、人体はそのように何年も持続することは無いでしょう。


【解説】
 身体の中で働く自然の法則。これにより何度、助けられて来たことか。時々の結果に一喜一憂。失望と有頂天を繰り返すのが心の常です。そして失望の時、あるいは怒りの時、私達の心は自らの肉体をも痛めつけ、自暴自棄に陥りやすいものです。
 実は後から考えると、あの時何故あのような気分になる必要があったのか不思議に思うほど、心は時に暴走します。その心の暴走から身を守っているのが肉体内部で心の動きに従わない部分です。筋肉で言えば「不随意筋」。そもそも心臓や一連の呼吸作用等、到底不安定な心に任せられない重要な部分は皆、心とは別個に活動を行っているのです。
 心が異常状態になったら、まず客観的に心を落ち着かせることです。これまでの体験を振り返ってどう対処すべきかを考えさせ、アイデアを創造主から戴きましょう。私達各々が創造主から愛されていることは、この日夜体内で働いている無償の愛の奉仕活動から実感できます。また、そこまで考えるゆとりが無い場合には、ゆっくり休んで心が鎮まるのを待つのも良いでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落103

103 The Divine Will always expresses in perfect harmony and causes no distortion in any manifestation. That is why the human form under this will manifests so well. And yet it is abused more than any other form known, by the free-will or will of the ego. i.e. When one eats a meal, the mind or the will of man knows not what is to happen to the food in the body. And if the ego is in a happy harmonious state the food will be beneficial to the body. On the other hand, if the ego is disturbed, confused or tensed and out of harmony with the law, or consciousness, indigestion is bound to follow causing gas around the heart and constipation. Proving the Divine Will, will not lend itself to the distorted will of man. So man pays the price for the distortion through pain and suffering. And this is the only way that some people can learn.
103 聖なる意志はどの創造物においても常に完全な調和をもって表現し、如何なる歪みも生じさせません。それがこの下にある人体がかくも申し分無く現出している理由です。それに加えて人体はエゴの自由意志、つまりは意志によって他の如何なるものよりも酷使されています。即ち、人が食事を摂る時、心や人の意志は肉体の中で食物がどのようになるか知りません。もし、エゴが幸せな調和ある状態にあれば、食物は肉体にとって有益なものになるでしょう。他方、もしエゴが掻き乱され、混乱しあるいは緊張して法則や意識と調和出来なくなっている場合には、消化不良になり、心臓の周囲にガスを発生させたり、便秘を引き起こします。聖なる意志は人間のねじれた心にはご自身をお委ねにはならないとしましょう。そうであれば、人は痛みや苦痛を通じてこのねじれに対して代償を支払うことになります。そしてこれこそが、ある種の人々が学べる唯一の方法なのです。


【解説】
 創造物の中で人体が最も酷使されていると言っています。その原因は自我(エゴ)にある訳ですが、皮肉なことにそのエゴに最も近い存在が自身の肉体なのです。各自にとってご自身の身体は一生の連れ合い、まさに死ぬ時まで片時も離れない相棒です。その大切な肉体を痛めつけているのは、その肉体を心底必要としている自我自身ということになります。
 多くの病が心の意気消沈や不安等の不安定な状況の中で発する混乱した想念の影響を受けて発症します。もとより肉体に最も近い所に発信源がある訳ですから、その影響は甚大です。喜怒哀楽、ことごとくの表情として肉体は反応しますが、身体の内側でも呼応して様々な反応が起っていると本文では言っています。
 このように誕生してから死ぬまで、どのような想念を発し、その結果、どのような肉体にしてしまうかは、全く各自の責任で行われるべきものです。誰しも健康な身体で幸せな人生を送りたいと望んでいるのですが、それをどうやったら実現できるかは、誰も教えてくれません。多くの場合、手探りの試行錯誤によってそのポイントを自分自身で掴んで行くことになるのですが、少なくとも本講座を真面目に取組むことによって多くのヒントが得られることでしょう。これまで自分自身の半生を振り返っても、この点だけは確かなものとしてお伝えできると思っています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落102

102 All nature, with the exception of man, operates by the will of Cosmic Law. In plain, nature lends itself to the law, or the will of the Creator. Yet the form of man operates under the same law that nature does, while the free-will of man operates contrary to it.
102 すべての自然は人間を例外として除けば、宇宙の法則の意志によって動いています。簡単に言えば、自然は自分自身をその法則、創造主の意志に委ねています。一方で人間の身体は自然と同様、同じ法則の下で動きますが、人間の自由意志だけがそれに反して働いているのです。


【解説】
 自由とは通常、何物にも束縛されず、その者の望むことを発言し、行動することを言う訳で、一見誰もが「善し」とする人間の天与の権利とされています。
 しかし、世の中の有り様、過去の人類の歴史を覗く時、人間は太古の原始生活から今日の宇宙時代を迎える中で確かに科学技術は急速に発展し、途中、数多くの戦いにより破壊が繰り返されましたが、その文明は着実に発展しています。
 一方、人間の内側の進化は実にお粗末なものでした。毎日のニュースを見ても、人間の感情や欲望の果てに数多くの事件が連日のように起きています。これらの本質はいずれも、この人間の内面の進化が外側の文明の進化と比較して取り残されている為、かえって問題を拡大させているのです。また、社会自体の中で、他人を食い物にして財を為そうとする者を数多く生み出す等、極めて病んだ社会になっているのです。
 これらの根源がこの自由意志にあることを考えれば、如何にして目覚め、そのような脇道から這い上がるかが問われています。昔、荒野でヨハネが「悔い改めよ」と叫びましたが、それはこの人間の自由意志のわがままを矯正して、大自然の法則に寄り添った生き方をしろということだったのです。自らが本来、天から与えられた自由を如何に正しく用いるかが課題です。私事ながら、昔、中学生の当時、毎週の朝礼でカント哲学者でもあった校長天野貞佑先生が毎回のように「自由とは何か」についてお話になっていたことを思い出します。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落101

101 And the ego must learn how to apply the impressions that come from the guidance of the THY WILL which is the conscious will, instead of the will of the mind. If a harmonious life is to be enjoyed, the will of the mind must submit its will to the will of consciousness, then the THY WILL is done. The difference between the two is - the conscious or THY WILL does not force itself. It is kind and mellow in its expression, while the ego will is aggressive, domineering and self-centered. Conscious will knows no fear - the ego will fears all through life and makes many mistakes.
101 そしてエゴは心の意志に代わって意識の意志である「汝の意志」の導きから来る印象をどのようにして応用するかを学ばねばなりません。もし、調和ある生活を謳歌するなら、心の意志は意識の意志にその意志を委ねなければなりませんし、そうすれば汝の意志が行われるでしょう。これら2つの違いは意識あるいは汝の意志はそれ自身を強制しないことにあります。その表現はやさしく、豊潤ですが、一方、エゴの意志は攻撃的で横暴、自己中心的です。意識は恐怖を知りませんが、エゴはその生涯を通じて恐れており、多くの過ちをおかすのです。


【解説】
 まず、ここで述べられている印象の応用について考えて見ます。自分の心が発するにせよ、意識に起源を置くものにせよ、私達が「印象を応用する」とはどのようなことを言うのでしょうか。端的に印象を、「思い付き」や「アイデア」「ヒラメキ」というように表現すれば、応用するとはその「アイデア・ヒラメキに従って行動する」「そのアイデアに基づいて何らかの作業や過程を経て発展させる」あるいは「それに基づいて何らかの方向に向かって行動する」等の行為を行うことを意味しています。もちろん、その印象が正しい、誤りのないものであれば、良い結果を得ますし、単なる心の欲望、恐怖心から来るものであれば、結果は望んだものとはならない筈です。
 そこで問題なのは如何にして心に浮かぶ印象が何処に起源を持つものかを識別するかにあります。極端に警戒して心を閉ざすことはかえって逆効果。どうせ自分の心から来る想念はロクなものではありません。むしろ心を広げて様々な自然の要素に関心を広げ、印象を数多く取り入れることの方が良さそうに思います。
 私達のささやかな日常生活の中にも天気の変化や季節の移り変わりがありますし、注意して見ると様々な動植物の世界も身の回りにあります。この限られた空間の中にも立派な宇宙がある訳で、それらを観察することによっても宇宙から来る印象、意識からのメッセージを心に取り入れることが出来ます。画家、熊谷守一(1880~1977)は30年もの間、自宅から出ることなく15坪程の庭の動植物を観察して数多くの素晴らしい作品を残しました。どのような環境に暮らそうと、私達は皆、宇宙そして創造主に包まれた中に生きていると言うことです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落100

100 As we observe the harmonious blend in nature, we do not find the same in man. The reason for this that man has a free will and he must learn how to apply the law of the Creator. Through which he will learn the right and wrong usage of it, if he is to become an instrument of full expression. And this is the purpose of his being. He must school his ego sense mind in coordinating all of the senses, as we explained in the previous lesson. This is comparable to a musician tuning the strings of his violin that each may blend with the other, if a harmonious melody is to manifest.
100 私達が自然の中で調和した融合を見る一方で、人間にはそれと同じ(調和)を見ることはありません。この理由は人には自由意志があり、人は創造主の法則を如何にして応用するかを学ばなければならないからです。人は完璧な表現ができる一つの楽器になる為にはその過程を通じて正しいあるいは誤った応用例を学ぶことになるのです。そしてこれこそが、人の存在の理由なのです。前課で述べましたように、人は自分のエゴの感覚心を全ての感覚と調和するよう鍛練しなければなりません。これは調和あるメロディーが現出する為には、音楽家が自分のバイオリンの各弦を各々が他と融合するように調律するのと同様です


【解説】
 ここでは人の心の調和について述べています。人間には自由意志が与えられていますが、その理由は様々な体験を通じて、法則の正しい適用、誤った応用を知る中で、自らの心を調和させて行くよう定められているからとしています。
 本文にあるようにどんな名演奏家でもその持つ楽器が正しく調律されていなければ、演奏出来ないのと同様です。自らの楽器の発する音を低音から高音まで発する音を聴き比べながら、各々がその弦(や鍵盤)の放つべき正しい音を発するよう調整するのと同様です。
 これはまた、曲の演奏とは異なり、地味ですが必要な作業です。これと同様に私達の日常生活の中でも、私達の心をどのようにして調和させるか、調律するかが問われています。「調和」の大切さについては各自、認識されている筈ですが、それでは具体的にどのようにしてということになると、各自、回答はまちまちかと思います。
 一つの試案としては、極端な心の感情を避けること、常に自分の心の状況を観察(相)すること、自然における動植物達がどのようにして調和した生活を送っているかをよく自分の目で観ること、日々の生活を精進し、人間として尊敬すべき人物のお話や書物を読んで自分の生活に応用する、等々が考えられます。
 人間は本来、最高の創造物とされています。その潜在的な能力は薄べったらな心の横暴の中で、埋もれています。毎日の少しずつのこのような訓練によって、各自、自分の隠れた才能に気付き、本来の能力を発揮する中で、調和ある発展ができるものと思われます。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落099

099 Man's mind could be compared to a detector tube in the T.V. set which cannot function until the power is turned on. And consciousness is the power and intelligence that motivates the mind through the process of the breath of life. And without this breath which we call air, nothing could live. Not even a grain of sand, for everything depends upon it. As it manifests through the various forms it brings forth a complete melody, expressing life in its fullness.
099 人間の心は電力が投入されない限り、機能できないテレビの検波管に例えられることが出来るでしょう。そして意識は生命の呼吸という過程を通じてその心を活性化する力であり知性です。そして私達が空気と呼ぶこの呼吸が無ければ、何物も生きることは出来ません。一粒の砂でさえもです。何故ならあらゆるものがそれに依存しているからです。そしてそれが様々な形あるものを通じて姿を現している為、それは生命を豊かに表現する一つの完璧なメロディをもたらしています。


【解説】
 前節で私達は創造主の意志を実世界に表現する役割を持っていると述べました。ここでは私達の心はラジオやテレビの中の部品の内、取り入れた電波から音声や映像を必要な信号として取り出す検波管に例えています。私達の心の中を創造主からの印象が通過する時、私達の心(検波管)はそこから自分達に分かる波動成分を取り出し、表現していると言っているのです。
 また、その基となるのは、人間の呼吸であるとしています。正確なことは分かりませんが、通常の呼吸という動作の中に私達の心を活発にする何らかの重要な作用があるものと思われます。ちなみにヨガでは呼吸を重要視しておりますし、呼吸法を通じて身体の柔軟性を高め、姿勢の矯正を通じて身体及び精神の総合調整を行いますが、これも根本的には呼吸法という手段を通じて、心の訓練を行おうとしているものと思われます。全てのものが、文字どおり同じ大気を呼吸しており、その呼吸の中に創造主からのメッセージを吸込み、発現する要素が係っていることは、実に良く考えられた素晴らしい仕組みではないでしょうか。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落098

098 So it is with man. For he has all the potentials of expression built in, as it were. And he must inhale and exhale the breath of life to be of service. Should he cease breathing he would become a stilled instrument without any motion. Yet to inhale and not exhale the continuous state of life expression would cease. THE BREATH OF LIFE must pass through the form continuously for it to be active. It is comparable to the ether waves that feed the television set. Notice that the breath of life and the ether waves are everywhere and know no barriers, but they need an instrument to express through.
098 それは人間にも当てはまります。何故なら、人は内部に言わば全ての表現力が組み込まれているからです。そして人は役立つ為には、生命の呼吸を吸込み、吐き出さねばなりません。人がもし呼吸を止めたとしたら、何らの行動もしない静止した装置になってしまうでしょう。また、吸込むだけで吐き出さなければ、生命の継続状態は止まってしまうでしょう。「生命の呼吸」は形有ある物が活動的である為には絶えず体内を通っていなければなりません。それはテレビを養っているエーテル波に例えることができます。注意して欲しいことは、生命の呼吸もエーテル波も何処にでも存在し、それを妨げるものは無いのですが、それらは表現される為には道具が必要なのです。


【解説】
 本稿では更に人体とテレビの関連性を解説しています。著者アダムスキーは呼吸の重要性について様々な箇所で言及しています。ここでも同様に、人間は生命の呼吸を続けることが必要だと言っています。具体的にはどのような事を示唆しているのでしょうか。原文"Inhale"は息を吸込むことで、これは様々な印象や教えを自分自身に取り込むこと、場合によっては資料収集も該当するでしょう。
 一方、"Exhale"(息を吐き出す)とはどのようなことを指すのでしょうか。昔、習ったラジオの原理はアンテナを通じて電波が受信器は取り込んだ電波を装置内に通すことを行っています。これは人間の場合に当てはめれば、宇宙に行き交っている生命力という電波を人体に取り入れ、通過させることによって、体内の某かの装置を活用して、そのメッセージ内容を体現するということになるでしょう。
 この場合、むしろ難しいのは"Exhale"側のことで、とかく人間はアンテナを張ることには熱心なのですが、取り入れることが出来た情報やアイデアについては自分自身の中に留めがちです。しかし、それらのいわゆる所有欲に捕われず、得た有益なメッセージを放出し社会に還元することによって、更にますます情報の流れが加速するようになるのです。創造主の意志発現の道具に徹することが、本来、求められる人間の在り方なのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落097

097 We can use the television set again, as a good example. The set in itself has no power or intelligence. But there are instruments in it equivalent to the brain or mind of man which cannot act until the power is turned on. When this is done, intelligent expression follows. Let us say that the intelligence is inhaled into the set through the ether or radio waves which carry the message. And as they come into the set the expression takes place, and not only the message comes through, but the individuals are shown as a living image on the screen. As I understand it, there are 80 different frequency channels in this nation over which programs are carried. Each channel is separated from all the others, yet some are so close that they encroach upon another. This calls for a very fine instrument to keep them separated. All channels use the same power and the same law, but there are sets that can only pick up a few channels. Yet all must depend upon the power and the ether waves to be of service. And they must inhale and exhale the waves to have the continuence of the program.
097 テレビ受像機を再び好例として述べましょう。テレビ自体には電力も知性もありません。しかしその中には電力が入れられない限り行動出来ない人間の脳や心に相当する装置があります。それが為されると、知性的な表現が続いて起るのです。メッセージを運ぶエーテルもしくは電波を通じて知性がその受像機に吸込まれると言うことにしましょう。そしてそれらが受像機に入るや、表現が起りますし、スクリーンに個人が生きているイメージで映し出されます。私の知る限り国内には番組を放送している80の異なる周波数チャンネルがあります。各々のチャンネルは他と分離されています。この為、それらを分離し続けるにはとても繊細な装置が必要になります。全てのチャンネルは同一の電力と同一の法則を用いていますが、中には数チャンネルしか受信できないテレビもあります。しかし、全ては機能を発揮する為電力とエーテル波に依存しているのです。そしてそれらは番組を継続する為にはこれらの波を吸込み、吐き出す必要があります。


【解説】
 本稿では人間をテレビに例えています。前回、学んだように、私達は意識を通じて生命力と知性の両方を創造主から授けられています。テレビを機能させるに必要な電力を送っている発電所も、電波によって番組を放送している放送局もテレビとは遠く離れていますが、同じ創造主が送り手なのです。電力と電波の二つとも目に見えませんが、この二つがテレビを機能させていることに違いはありません。
 この例えを進めて行くと、私達(テレビ)は創造主(放送局)からのメッセージを再現し、地上世界で表現することで本来、大きな役目を担っていると言えるでしょう。その為には、確かな電波の発信源にアンテナを向けて送られてくる精緻は信号を注意深く検波し、メッセージとして再現する機能を果たすことが必要です。もちろん、テレビ自体も性能を向上させなければなりません。同じ番組を映す場合でもテレビ受像機の性能によって見る者に与える影響は大きく異なります。一人一人の表現能力を磨き、ブラウン管からプラズマ、液晶テレビ等々、受像機(各人)も進化させなければなりません。しかし一方では、テレビはあくまで道具であり、電力と放送電波がその活動の源泉であることを自ら認める必要があります。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落096

096 The Creator gives us the power of life, and intelligence through the avenue of consciousness. The personal ego mind can use this in accordance with the law or it can transgress the law and receive either bad or good results, as with the electricity. Every individual has been granted this free will.
096 創造主は私達に意識という大通りを通じて生命の力(パワー)と知性をともに与えています。個人のエゴ(自我)の心は法則に従ってこれを利用できますし、法則を逸脱することも出来ますが、その結果、電気の場合のように良い結末あるいは悪い結末を得ることになります。各自は皆、この自由意志を許されているのです。


【解説】
 私達が心を鎮め、静かに自己の存在を見つめる時、私達は言わば、空間に広がったある種の感性に取り巻かれていることに気付きます。通常の私達にはこの程度の認識でしかありませんが、この感じこそ、本書で繰り返し述べられている「意識」を示しています。実際にはこの意識は無言ではありますが、とてつもない可能性を秘めており、宇宙の生命の源に通じている存在です。
 さて、本稿では、その意識を通じて、生命の力と知性の両方が私達に贈られていると言っています。力(パワー)のみならず知性もです。つまり、肉体(物質)を備えた者(人間)にとって、この意識により必要な要素は全て与えられていることになります。今日では、電力線で電気(パワー)の供給のみならず、情報もやりとり出来るようになっていますが、この意識という経路を通じて、私達は創造主から喜んで与えられている贈り物(ギフト)を進んで受け取り、贈り主(創造主)が本来望んでいる生き方に応用する為に、各自努力すべきなのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第3課-段落095

095 i.e. An electric socket is made to hold a light bulb and not for a finger to be placed in it when the current is on. Even when it is not, should one be standing in moisture, he can receive a shock. If one gets hurt or has an unpleasant experience by the misuse of the law, he cannot blame the man that is willingly giving him the power. He can only blame himself, either for ignorance of the law, or aggression on his part.
095 即ち、電球のソケットは電球を固定する為に作られたもので、電流が流れている時に指を入れる為のものではありません。指を入れなくても、湿った場所に立って(ソケットを触った)場合にはショックを受けるかも知れません。仮に法則の誤用によって痛い目に逢ったり、不愉快な体験をしたとしても、電力を喜んで送っている係員を責めることは出来ません。自分自身が法則について無知であったか、自分の無謀な行為について自分自身を責めるべきなのです。


【解説】
 私達は自由勝手に動き回るやんちゃな子供のようなものです。しかし、法則は全ての末端においても等しく働く訳で、例外はありません。誤った法則の使用は当然、誤った結果をもたらします。
 本文では電球のソケットに指を入れる例が述べられていますが、実際にはどのような事柄が想定されるのでしょうか。宇宙の隅々から支えている法則の誤用の例としては、「ねたみ」や「うらみ」「不安・心配」「恐れ」等の人間の心が放つ想念があると考えます。それらは内容の善し悪しに係り無く、いずれ現実(結果)世界に作用することでしょう。それほどに想念の放つパワーは大きいものがあると思われます。しかし、同時にそのパワーは発信者自身にも相手と同様に作用します。従って、よく「怒りは敵と思え」と言われますが、それはそうしたマイナスの想念は相手のみならず、自分にも帰ってくることを指摘しているのです。
 このような法則の誤用は、法則について無知なことに原因があります。因果応報、私達は否応なく、宇宙の秩序、大法則の直中に生きており、その法則を自ら理解しようと努力し、自然と調和して生きることが大切なのです。
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