2007年03月

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落022

022 The major purpose for man seems to be -- an unlimited Expression of Cosmic Intelligence -- as no other form seems to have that scope of ability. Yet to do this, every phase of creation must be understood. When Jesus instructed his followers to be "about the Father's business" he had reference to this way of life. And in order to do this one must study each manifestation from the lowest to the highest.
022 人間の主な目的は、宇宙英知の限り無い表現であるように思えます。他の形有るものがそのような能力の可能性を持つとは思えないからです。しかし、これを成す為には、創造のあらゆる段階が理解されねばなりません。イエスが弟子に「父の務め」にとりかかるようにと命じた際、彼はこのような生き方との関連で述べたのです。そして、これを成す為には、人は最低位から最高位に至るまでの各々の現れを学ばなければなりません。

【解説】
 人間の主要な目的は宇宙英知の表現者になることだと言っています。他の個々の創造物は生き物にせよ、鉱物にせよ、それらの固有の美しさを自ら表現しています。自然界にある全てのものは、いかなるものも、その種、特有のパターンや形式を保ち、その詳細な構造を調べれば、調べるほど、美しい側面が現れます。そして、その表現には種によって一定の枠があり、それ以上の変化を示すことはありません。
 しかし、人間はそれらの枠を超えて、宇宙英知を制限無く表現できる能力があり、また表現することが本来の人間の目的だと言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落021

021 There can be no question regarding the fact that we were born for a reason or purpose, and there could be many. If this were not true, there would be no need for human beings.
021 私達が何らかの理由或いは目的の為に生まれて来たという事実に関して何らの疑問はあり得ません。もしそれが真実でないとするなら、人類の必要性は無いことになるからです。

【解説】
 私達がこの世に生まれて来たのには目的があると言っています。そもそも人類の存在意義について考えることが必要だと言っているのです。しかし、「人類」という大きな視野でなくても、自分自身、本来、生まれて来た目的は何であり、それが今日までどのように達成して来たか、実際に努力されて来たかを自省することが必要です。
 人が生きて行く為には、日々必要な食物や生活に必要な資源等、多くのものが提供されています。まして、今日では地球環境問題とまで言われるように、人間が生きて行く上での影響は惑星全体にまで及ぶほど大きくなっています。
 それほどに、周囲に支えられている私達ですが、実は自分がこの世に生まれるについて創造主から託されたであろう自分の目的について、これまで考えたことも無いという方も多いかも知れません。
 しかし、遅すぎるということは無い訳で、御自身の目的についてもっと真面目に考察することが大切です。残念ながら、個人の内面のことは他人が立入ることはできません。死に至る前までに、その本来の道を自覚し、その方向に向けていくばくかの前進をしたいものです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落020

020 We of today have a greater responsibility for we have more to compete with and more temptations than those who lived in the earlier days. So a greater alertness and determination is required if we are to understand and fulfill the purpose for which we were born.
020 今日の私達はより大きな責任を有しています。私達には昔の時代より多くの競争があり、多くの誘惑があるからです。ですから、私達が生まれて来た目的を理解し成就するには、より大きな警戒状態と決意が必要とされるのです。

【解説】
 ここでは、昔の人々の素直さ、純粋さについて述べておきましょう。
 今から約410年前、1597年2月5日、長崎で殉教したキリスト教徒26人(10人の日本人を含む)に関する記録が現存し、日本でも出版されています(「日本二十六聖人殉教記」ルイス・フロイス著、結城了悟訳、聖母の騎士社1997年発行。当時日本に滞在していた宣教師ルイス・フロイスが記述し本国に報告した記録)。
 それによれば、キリスト教が日本に伝えられた当時、日本では大名をはじめ、庶民に至るまで数多くの人々がキリスト教に入信しています。その後、豊臣秀吉の禁教政策により、キリシタン弾圧が始まる訳ですが、その最初がこの長崎における26名の殉教事件でした。この本によれば、時の権力者(秀吉)が全国に君臨し、人の生死を意のままにする絶対的な権力者であったことがよく分かります。またその中で報告されていたキリスト教徒は実に心が素直で、信仰を受け入れています。当時の庶民の生活は今日とは比べようもないほど、貧しいものであっことでしょう。庶民の生活の中では、過度な競争も無く、互いに助け合うような誰もが貧しく質素な生活があった故に、素朴さ生まれたものと思われます。科学の発展も無い中で、人々は全てを自分の感性で受け止め、何が真実かを見極める必要がありました。そして、その判断が、時の権力者の意向に沿わないものであれば、命を賭けて自身の信念を貫くこともいとわなかったと言えるでしょう。
 一方、科学が発展し、民主主義国家の今日においては、権力者は様々な目に見えにくい手法で、民衆をコントロールしようしています。また、人々の実生活は、互いを利用して富を肥やすことを目指してしのぎを削っている毎日と言えるでしょう。その中で、今日、人間一人ひとりが生まれて来た本来の意義を達成するためには、更に慎重な判断と実行力が必要だと言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落019

019 Even Jesus had to go through many unpleasant experiences and made a mistake when he drove the money changers from the Temple. For he taught, judge not. But when he realized his mistake he knelt in front of the Temple and asked his Father for forgiveness.
019 イエスでさえ多くの不快な体験を経なければなりませんでしたし、あの寺院から両替商を追い出した時は過ちを犯しました。何故なら、彼は裁くなと教えていたからです。しかし、過ちに気付いた時、彼はその寺院の正面にひざまずいて彼の父に許しを請うたのでした。

【解説】
 人の成長の過程に誤ちは多いものです。また、不本意な結果に終わることもしばしばでしょう。一方的な見方で相手を判断し、行動した結果、行き過ぎた行為となってしまうこともあるでしょう。
 良いものがよく分かり、世の中の悪しきものの本質が見えて来ると、とかく世間を批判し、正そうとする行動になります。
 しかし、大部分の人々が地上のどうしようもない世の中で生きて行かざるを得ないのも、この星の現実です。問題はこのように苦しんでいる人々に、いかに宇宙に充ちている生命の息吹きに気付かせ、本来の安らぎを提供するかにある筈です。
 行動を起さなければ何も進展しないということも確かですが、その行動は他者への哀れみやあたたかさに根ざしたものであることが必要なのです。自然界の営みが一見、無言であっても、全てが絶妙に調和して結果としては全く破壊の要素が見られないことにも留意したいものです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落018

018 Remember every act is perfect - be it good or bad - as we classify it. For every action calls for a full coordination of your mind, body and consciousness. So you grow into perfection by action and experience.
018 あらゆる行動は私達の分類によるところの良くも悪くもそれ自身、完全であることを忘れないで下さい。何故なら、あらゆる行動はあなたの心と身体、そして意識の完全なる整合を必要とするからです。ですから、あなたは行動と体験によって完全なるものに成長を遂げるのです。

【解説】
 実は「行動(行為)」は「心」+「身体」+「意識」の完全な調和があってはじめて成り立っていると言っているのです。そのもたらす結果、或いはその目的はとにかくとして、人が行為を行う場合に、この三位一体が完全に成立していなければ、実際の行動は出来ないと言っています。行為を分析すれば、それ自体には良し悪しは本質的に無いと言っているのです。どのような行為であっても、その行為には私達が本来、目的としている「完全さ」の要素が備わっているということでしょう。
 しかし、それだからと言って、どんな行為でもOKだとするのは、あやまりなのは言うまでもありません。心の指令と肉体各部の運動、それを支える目に見えないメカニズム等、「意識」と称せられる宇宙的な衝動のどれもが、協調して作用してはじめて、行動になるのです。
 まずは、日常生活において、自らの足の一歩を踏み出す際に、心が「先に行きたい」と思う想念と実際に「脚を前に進める」身体、そしてその脚の筋肉や体型のバランスを保つ一連の身体の動き等、様々な活動要素が円滑に調和してはじめて「歩く」という行為が行われます。そう言う意味からも、行為自体についても、どのような指示命令系統が身体に行われているか、感じ取る努力が必要かも知れません。
 いずれにしても、単に「○○すべき、○○したい」とする心の意思だけでは、体験することはできません。実際に行動する為には、「身体」と「意識」が調和されていなければなりません。
 よくある話に、自分に自信を無くした場合、最悪のケースでは、目前の階段の1段も登れなくなるような事態も起こり得ますし、催眠術にかかって自らの心の力が弱くされると、極端な場合、一歩も歩けなくなってしまうこともあり得ます。文中に述べられているように、私達は所詮、自らの行動とその結果として自らが経験する体験によって成長する以上は、体験を持つ為には、行動が必要であることは容易に理解されるでしょう。そういう意味から、自らの心(意思)を弱めたりすることからは、遠ざかる必要があります。
 好例なのは、スポーツ選手の演技です。彼らの俊敏な演技(行動)は、「心」が「意識」のレベルまで周波数が高まり、機能が向上した場合には、それほどに高速度で高レベルな演技(行動)ができることを示していると言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落017

017 Do not be afraid of making a mistake. But when you are aware of making a mistake, correct it as soon as possible, for if you do not, it could be a block in your progress. But do not feel badly, for that could cause you to be too cautious. Remember at all times that mistakes are the result of wrong application through which we learn the right procedure. And experience is necessary for the expansion of knowledge.
017 過ちを為すことを恐れないで下さい。しかし、過ちを為したと気付いた時は、一刻も早くそれを正しなさい。何故なら、そうしないと、それはあなたの進歩の障害になるかも知れないからです。しかし、くよくよ思ってはいけません。あなたを余りにも用心深くさせることになるからです。いつも過ちは間違った応用の結果であり、それらを通じて私達は正しい手順を学ぶということを覚えていて下さい。そして体験は知識の拡張に無くてはならないのです。

【解説】
 これまで経験が無い、宇宙的衝動を現象世界を現に支えている存在として認識し、その指示を受け入れるように自らの心を訓練するということは、師匠と弟子が四六時中、寝食を共にしている場合以外、容易なことではありません。まして独学で、一人、学ぼうとしている私達にとって、間違えることはむしろ当たり前のことです。Try and error による学習になることは自然の成りゆきです。
 しかし、ここで問題なのは、結果が失敗だった時の対応でしょう。思うように行かなかったことの背景には、様々な要因がある筈です。個人の責に因らない場合もありますし、自分の未熟さが現れた場合もあるでしょう。重要なのは、ここで自分の誤りに気付いた時、即ち、「自分のここが過ちであった」と自覚できた場合は、速やかに改めなさいということを言っています。実際には、人前で自らの過ちを認めることは容易なことではありません。自分のプライドを捨て去る必要もあります。無数の失敗への道がある中で、狭き門を行く為には、失敗への対応が重要であり、どのような場合でも全創造物の親である創造主の恩寵を自覚して、自らを素直に保つことができるかが、鍵となります。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落016

016 This awareness will enable a faster growth of understanding when used in everything that is done. And when the full awareness comes it will seem at first that there are two of you. The mental acting and the consciousness directing.
016 この気付きこそが為される全てに用いられるならば、理解力においてこれまで以上の急速な成長をもたらすでしょう。そして完全な気付きに到達した時には、最初の内はあなたが二人いるように思えるでしょう。活動しようとする心と指示する意識の二つです。

【解説】
 私自身の体験で言えば、自分の行動を印象に従って行った為にうまく行った場合と、一瞬、躊躇して(おそらくは過去の経験と比べて「無理」、「あり得ない」と判断して、行動が遅れて失敗した場合があります。この場合、失敗と分かったのは、自分自身、その直前の印象に従っておけば良かったと思うからです。この時、いつも思うのは、この「気付き」(印象、衝動)は、私達の道しるべとして常に人生(生命、Life)の進むべき方向を指し示して下さっているということです。
 そういう意味では、私達は、これまでの「常識・非常識」に影響されること無く、空間を貫いて私達を通過する「意識」なる印象に従うことによって、大きく成長することでしょう。これらの事柄は、多くの宗教における「修行」にも通じるところでしょうが、この「生命の科学」の優れている点は、この「行」(訓練)を日常の実生活において実践することにあります。
 しかし、これらの「行」について実践した者の中には、精神分裂状態に陥った事例もあります。その詳細な事情は不明ですが、自分の理解力以上に背伸びした実践は禁物です。印象に敏感になるということは、良くも悪くも、自分の感知する領域が広がる訳で、自分自身の段階に近いものほど、共鳴しやすいのは、科学の道理です。(類は類を呼ぶ)
 従って、先ずは御自身がどのような指向性を保っているのか、自分の軸足を確実にして、その上で宇宙を貫く根本的なSource(源泉)に自分は同調するのだというしっかりした動機付けが必要です。
 多くの学習者は、今後、それぞれの人生において他者を導く役目も担うことになるでしょう。その時、その確かな礎があれば、相手を確かな方向に導くこともできるようになる訳で、自分の拠り所を何処に置いているかは、大切なポイントです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落015

015 This will not be easy at first since we have been taught to study with our mind and seldom recognize the consciousness or cosmic impulse behind the thought.
015 これは最初は容易ではないでしょう。私達はこれまで心で研究するように教えられて来た一方、めったに意識、想念の背後にある宇宙的な衝動については認識するようには教えられて来なかったからです。

【解説】
 ここで些細なことですが、原文中の"with our mind"について注意して見ましょう。日本語訳は「私達はこれまで心で研究するように教えられて来た」と表現しますが、原文では"with(~といっしょに)"であり、"by(~によって、~を用いて)"ではありません。原文の主旨を言い換えれば、私達自身が先ずあって、「その成長については、自分達自身の心(mind)と手を携えて、探究の道を歩むように教えられて来ましたね。それには大きな問題がありますよ。」と言っているのです。「心の他に、刻々と寄せて来る"想い"の奥底にある"意識"、神妙なる宇宙の衝動に気付くこと。それを受け入れることが大切だ」と言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落014

014 So this first lesson is the most important lesson of them all. One should learn through all of the lessons to follow that he is not studying effects alone but also causes, both at the same time. As you read and study the lessons from here on, make sure that you are using your mind and consciousness in full awareness of your study that you may see the effect and the cause behind the effect as a unit. Both are necessary to give us the things that we enjoy.
014 それゆえ、この最初の教科は全ての教科の中でも最も重要です。学習する者は以後に続く全ての教科を通じて自らが結果のみではなく、原因についても同時に研究しているということを学ぶべきです。あなたがこの教科を読み、研究する時は、あなたは御自身の心と意識をあなたの研究に全力で傾注して用いていることを確実にして下さい。そうすればあなたは結果と結果の背後の原因を一体として見ることができるようになるでしょう。原因と結果の両者ともが私達が享受する物事を私達に授ける為に必要なのです。

【解説】
  目に見えないものが大切だと言うと、すぐに神秘的なものに惹かれやすいものです。しかし、ここでは目に見える存在となっている結果(形あるもの、effect)とそれをもたらしている因なるもの(原因、cause)とを一つのユニット(一体)として見るように全力を傾けよと言っています。形に現れた諸物とそれを支える目に見えない存在を別々に見ることなく(言い換えれば、「物質と精神を個別に見るのではなく」)、融合したものとして捉えるようにと言っているのです。
 何故なら、その両面とも必要だからです。これは、この種の研究(哲学や宗教)を学ぶ者にとって、とかく因のみに目が行くことを戒めるものでもあります。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落013

013 Consciousness speaks in silence, or impressions, which is the language of The Supreme Being know as God, while the mind speaks the language of effects, which is sound.
013 意識は沈黙のまま、即ち印象によって話し掛けます、それは神として知られる最高位の存在の言葉でもありますが、一方で心は結果の言葉、音声によって話し掛けます。

【解説】
 最も重要なことは、「沈黙の声」とも言うべき「印象」を通じて、意識が私達に話し掛けていると言うのです。実は最高の存在である神の発する言葉というのは、印象を通じて人間その他の万物に伝えられておりますが、一方で「心」というものは、音声を通じて意思を伝達するとあります。
 つまり、力強く自然界、宇宙空間にあまねく力を及ぼしている存在(「意識」)は、言葉になっていない前の段階のある種、の凝縮された塊のようなエッセンスを持ったメッセージのようなもの(「印象」)を発しており、それらの片鱗を受容することによって、力を自然界が受けているということかと思います。
 それに対して、私達の思考は、この記事のように言語を通じて、基本的には「音声」をイメージした中で、記述され、整理されています。これは、心が発する言語が、基本的には「音声」言語に基づいていることを意味しているのです。
 しかし、意識を知ろう、意識の発するメッセージを聞こうとすれば、印象に注意深くならなければなりません。また、心自体が微妙な印象に気付くよう、鋭敏になる必要があります。そして、その印象なるものは、言語に左右されない、言い換えれば、言語以前の段階のものであり、当然ながら、万国共通語、生きとし生けるものすべてが理解出来る言語であると言うことができるでしょう。いずれにせよ、私達は、自ら、意識から発せられている印象に対して敏感であらねばなりません。また、そうした印象を通じて、意識との交流が生まれ、本来、授かっている能力を発揮することができるのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落012

012 We must always remember through the entire course that the human mind or the senses have been depending upon effects, while the consciousness does not -- it produces the effects.
012 私達はこの全コースを通じて人間の心、諸感覚は結果に依存していること、一方、意識はそうではなく結果を作り出しているということを常に心に留めておく必要があります。

【解説】
 ここで、大事なことを最初に述べています。私達の精神的な部分を二つの部分に分かれると言っているのです。「心」と「意識」です。この内、心は実は諸感覚のことであり、それは結果に依存していること。一方で意識なるものはその結果を造りだしているというのです。
 この内、私達が理解し易いのは「心」でしょう。日々の生活を見れば、結果によって気分が作用されます。学生であれば受検の結果の合否とか、職業人なら会社における業績その他、多くの結果が求められており、その結果を確保する為に汲々としているが実態です。しかし、一方、意識について実はこの現実世界を根本から造り上げている存在にも関わらず、私達はその成果である結果だけを利用して、その存在に敬意を払わないで過ごして来ました。例えばトマト等の野菜です。私達は、毎日のように自らの健康の為、進んで野菜を食べます。トマトは商品として流通していますが、トマト自体は種から育って、花を付け実を付けた後、熟すまで成長する過程について、トマトを食べる者は誰一人、想像すらしません。自らの健康にとって大切だから、美味しいから食べるだけのことです。
 しかし、これを生み出した存在を知ろうとすることが先ず第一歩です。当然、創造物には創造主の勢いが本来、現れている訳で、トマトを見る時にそこから湧き出ているエネルギーに気付くことが大切です。食べるという行為は、自らの肉体を養うということ、食べた食物が自らの身体の中で活用され、自分にとって直接的に役立つことから、大変、分かりやすい事例です。この中で、私達の感覚に関する問題としては、味覚や嗅覚、視覚がこの食物については、関わって来ることでしょう。
 これらの感覚に依存して、グルメを追求する場合と、創造主が意識の力を通じて大自然から造り上げた作物との会話を追求するのとでは、大きな違いが出ることになるのは明らかでしょう。
 進むべき道を見誤らない為には、私達はこれまでの自分の心を少し引いて見つめ直すことが必要で、既存の感覚では捉えられない、最初は微妙な印象に気付くことが必要になることでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落011

011 This is the method that the planetarions or space people use in their development.
011 これこそが、惑星人達、スペースピープルが彼らの発達に用いている方法です。

【解説】
 かつてアダムスキーを通じて進化した宇宙人達が伝えたこの生命の科学が重要な著作である理由の一つが、この内容が進化した宇宙人の原動力になったそのものの哲学であるということです。人間の発達において必要なことは、表面的な知識ではありません。かつて太洋に沈んだとされるアトランティスやム-大陸等、失われた文明について、その当時必要であった知識等、今日では何の役にも立ちません。同様に、現代社会における約束事等、所詮、その時代の社会の都合で出来上がったもので、本来の人間が身に付けるべき、知識ではありません。
 私達は、既存の宗教や哲学を一旦、脱ぎ捨てて、まずは新鮮な気持で、この本に書かれている内容を幼児のように一つ一つ自分で身に付けながら、進んで行くことが、真の進化の道と言えるというのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落010

010 So we not only are going to develop our minds with the help of consciousness, but also expand our conscious perception at the same time. And in this way we shall see the Creator face to face through the mind and the consciousness as they become one.
010 それゆえ、私達は意識の助けを受けて自らの心を発展させようとしているばかりでなく、同時に私達の意識的な知覚力を広げようとしているのです。そしてこのようにして、私達は一体となった心と意識を通して創造主を面と向って間近に見ることとなるのです。

【解説】
 しかし一方で、現実の日常生活において、私達の行動を支配しているのは「心」です。目に見えない存在や耳に聞こえない指令に鈍感で、肉体の器官が認識できる範囲を拠り所として、私達は生活を送っています。その生活は、往々にして怠惰であるか、あるいは追い立てられているかのいずれかで、極端のはじからはじまでを行き来しています。
 ここでは、この問題の心なるものを意識の力を借りて、発展させよと言っています。しかし、その為にはどのようにせよとは、ここでは述べられていません。それではどのようにすればよいのでしょうか。
 意識を自らの心の教師とする訳ですから、先ずは、意識を信頼する必要があります。私達の心は意識の存在に普段、気付かないでいる訳ですから、その「見えないもの」の存在を「信じること」からしか、始まらないということでしょう。しかし、無闇に信じろと言うのではありません。意識の作用は、その結果として四季の移り変わりに対する動植物の反応や変化、更には自分自身の肉体が刻々と肉体の維持に懸命になって各細胞が活動しており、私達がその恩恵に浴していること自体、奇跡的な実証事例なのではないでしょうか。
 まずは、その自らの肉体の活動も含めて、意識の存在を認め、絶大な信頼を寄せることが、意識の恩恵に対する私達の感謝の心得でもあります。自分を取り囲む意識の存在に感謝すること、信頼を寄せることが第一歩です。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落009

009 We must follow this same procedure of study in order to know nature and thus be able to free ourselves from the mysteries that have surrounded us and made us an entity separated from our creator. Then we shall come into an understanding of Cause and Effect. And our mental senses will perceive all forms and their purpose. And consciously we will understand the cause back of the manifestation.
009 私達が自然を知るためにはこれと同じ手順に従う必要がありますし、そうすることによって私達を取り囲み、私達を創造主から分離した存在にしていた諸神秘から私達自身を解放することが出来るようになるのです。そうなれば私達は原因と結果の理解に到達することでしょう。私達の心の感覚は全ての形有るものとそれらの目的について気付くようになるでしょう。そして意識的に私達は出現の背後にある原因を理解することになるのです。

【解説】
 自らも含めて自然を知ろうとする時の手順として、言うならば全身全霊をもって自然を観察せよと言っているのです。私達にとって身近な「自然」とはどのようなものがあるでしょうか。例えば住いの近くの自然公園でも、街路樹でも良いのです。それらを観察、研究するということはどのようなことをすることを意味しているのでしょうか。
 例えば、わかりやすく言えば、春夏秋冬、木々は様々な装いを見せます。寒い北風の中では小枝の先の新芽は堅く覆われ、守られています。しかし、春の気配が感じられる頃、新芽はほころび、やがて目に鮮やかな新緑が顔を出し、辺りは新しい生命に溢れる季節を迎えます。そして逞しく育った青葉はやがて、生い茂り、夏の暑い日射しを遮り、木陰を私達に与えます。そして季節が再び冬を迎えようとする頃、木々の葉は緑から一変して赤や黄色の錦の色合いに変化し、やがて訪れる風に乗って、木々から離れ地に戻ります。
 このように、自然は絶えまなく、大きな変化を遂げています。そして木々をはじめとする植物の変化は季節変化に呼応しており、食物の源を植物に依存している私達、動物にとって、一年を通じた自然の営みにその存在を依存していることは言う間でもありません。
 私達は、ひょっとして自分達とこのような自然、更には自然を支えている創造主とは懸け離れている存在と思って来たのでは無いでしょうか。確かに、私達自身、創造主とは無縁なもの、人間は自然を征服する存在、自然を利用し、開発できる存在、地球を支配する存在であるとして来ていましたが、果して、そのような傲慢さで良いのでしょうか。
 アダムスキーは「私達が自然を知るためにはこれと同じ手順に従う必要があります」と言っていますが、もう少し厳密に訳せば、「私達は自然を知る必要があり、そのためにはこれと同じ手順に従う必要がある」と言っているのです。先ずは「これと同様(即ち医者が人体を観察するよう)に、自然を観察せよ」と言っています。
 その観察を通じることによって、自然と私達との距離が縮まり、例えば植物の感性に近いまでに感受性が高まり、これまで自然の神秘とされてきたものが、私達の日常生活の中で生かせるような、生活が送れるようになるのかも知れません。実は、そのように「目に見えない印象」、「耳に聞こえない囁き」といったものが、本来自然の中に飛び交っていて、これらの「原因」となる力ある存在が、密接に私達に作用する状況に私達自身が高められるならば、素晴らしいことです。私達の心の感覚をそのレベルまで感性を高め、同時に形になっている現物の存在と関連づけることが重要だと言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落008

008 Some doctors go deeper when studying the manifested form of man and observe him with his consciousness. Thus he perceives the invisible or cause back of the effect. In this way he learns the purpose of every artery, muscle and organ and how each is related to the whole form. Thus when one part is out of order he knows what to do.
008 医者によっては人体の具現化された姿を研究する際、深部まで探究し、自らの意識でその人体を観察します。そうすることで、彼はその結果をもたらす目に見えない、或いは背後にある原因を知覚するのです。このようにして、彼はあらゆる動脈、筋肉そして組織、また各々が如何に全体と関連しているかを学ぶのです。このことにより、身体の一部分が乱れた時に何をすべきかが分かるのです。

【解説】
 私自身、医者ではないので、詳細は不明ですが、通常、医者が診察を行う場合、医者は患者の顔色をはじめとする外見を観察し、その訴えを聞きながら、真実の病気の原因を掴もうとしているものと思われます。
 この場合、患者の身体の中について見ることはもちろん出来ない訳ですから、こうした制約条件の中で、自分の経験も含め、この患者がどこを病んでいるのかについて、それこそ、全身全霊で探っているのです。
 その時、医者が観察に使用しているのは目に見えない原因を察知し、把握しようとする医者自身の意識なのです。その際に重要なのは、各部と全体との関係についての理解だと言っています。万物の相互関係を理解することこそ、学ぶべき内容です。
 また、ここでは、医者が患者を診察する際に、自分の「意識」を用いていると述べています。ここでより、詳しくアダムスキーの言う「意識」について、関連資料を用いて述べて見ましょう。
 アダムスキーは「意識とは何か」( From Cosmic Bulletin, December 1971. )の中で次のように述べています。
"Consciousness is the foundation of all creation. It is not a physical thing yet it measures all expressions of physical forms. Without it no form could be or exist for consciousness is life itself. It is the power which gathers the elements into the formed state and it is the intelligent force which caused the awareness and animation within the form. Consciousness is that tremendous power which is referred to in the Scriptures as the Holy Ghost. It is a dweller, as power, within that which is created, perpetuating the growth of the form by the constant action which is the law of Its being."(中略)
"Everything from the mineral to the God Kingdom is changed, moment by moment, by the everlasting activity of consciousness. It is the avenue of progress; the stream of life laden with ideas which drop into the consciousness of mortal man with great rapidity and which may be used or discarded, depending upon the understanding of the individual. Consciousness speaks the language of the Soul, for it is the Soul. This Infinite language is soundless, yet it roars with the voice of thunder, reverberating with a tremendous force upon the mortal being, producing a state of awareness as to the idea that lie within him -- idea which only he himself knows unless he expresses them in words, and which even then may not be understood by another.
Consciousness is the very substance of all forms, yet itself is formless. It is the ruler and the keeper of all elements which compose it in field of form action, for through this intelligent force the elements which make the form becomes conscious. It builds forms and disintegrates forms, yet it knows neither life nor death. It is motionless, yet it is the all-active power by which the universe is maintained; placeless, yet it is everywhere for outside of it there is nothing; inert, yet composed of unlimited power."(後略)
 つまり「意識とはすべての創造の基礎です。それは物的なものではありませんが、物的な形有るものすべての表現を計るものです。それ無しではいかなるものも存在することはできません。意識こそが生命そのものであるからです。それは各々の元素を形有る状態に取り集める力であり、形有るものの中に知覚や活動を引き起こす知性的な力です。意識は聖書の中で精霊と呼ばれるとてつもない力のことです。」(中略)
 また、意識については、「鉱物から神の王国まで全てが意識の永遠に続く活動によって刻々変化しています。それは進歩の大道であり、人間の意識の中に落される巨大なスピードで生命の流れであり、それらは個個人の理解次第で活用されるか、捨て去られるかすることになります。意識は魂である故、魂の言葉を話します。その無限の言葉には音はありません。しかし、それは雷のような声で響き渡っており、人間に対してとてつもない力で反響しており、人自身の中のアイデアに対して気付く状態を造り出します。そのアイデアは彼が言葉で表わさない限り、彼自身しか分からないアイデアでもあります。しかし、それでさえも、他人には理解されないかも知れません。」
 「意識は全ての形有るものの本質的なものですが、それ自身は形はありません。それはそれを成すすべての要素の支配者であり保護者です。この知的な力を通じて形あるものを造り上げている各元素が意識を持つようになるのです。それは形有るものを形成し、また分解します。しかし、それは生や死を知ることはありません。それは動くものではありませんが、宇宙が維持されているすべての力です。どこにあるというものでなく、あらゆる所にあり、その外側には何もありません。そのもの自体、不活性ですが、それでも無限の力から成り立っているのです。」(後略)

 各人はこのような、力ある知性を本来、有しており、自らを構成させていることの背景にある宇宙を貫く知性と連動している力に気付く必要があるということでしょう。その力に気付くこと、私達の自然観察に応用することが重要ということです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落007

007 When one studies to become a doctor he does not study just a man's eyes or nose, but he studies every intricate part of the body. This includes every nerve, muscle, etc., and their purpose or function.
007 人が医者になるために学習している時、人の目や鼻のみを研究することはせず、肉体のあらゆる入り組んだ部分をも学びます。これにはあらゆる神経、筋肉等、及びそれらの目的や機能についても含まれます。

【解説】
 ここでは、人体の一部が何らかの症状が出て、病を自覚した時に対応を図る医者とはどのような事項を学ぶ必要があるかを述べています。通常は、目が痛ければ、眼科にかかります。しかし、医者は目についての知識だけあれば済むというものではありません。
 例えば、糖尿病。これは膵臓からでるインシュリンと血液中の糖の関係であることは一般の人でも今では知る知識です。その糖尿病が原因で目の網膜に異常をきたして、視力が低下する事例があります。この場合、目の視力回復には糖尿病を治療しなければその進行を止めることは出来ません。つまり、症状は目に出ているかも知れませんが、その奥にある病気の原因は糖尿病という全身の病から来ている訳です。
 このように、本来、人体のあらゆる臓器が相互に関連し、互いの影響を受けていることをまず、理解する必要があるということです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落006

006 As stated, we cannot see Him as a person for he embraces all, and manifested creation is the Effect from His Cause Intelligence.
006 先に述べたように、創造主が全てを包み込んでおり、創出された創造物が創造主の因なる知性から出た結果物であるが故に、私達は創造主を一人の人間のようには見ることは出来ません。

【解説】
 私達が最も信頼を寄せるべき存在、感謝すべき対象である創造主について、上記の記述は、創造主は「全てを包み込んでいる」と言っています。ちょっとした言葉ですが、その持つ意味合いは新鮮です。つまりは、貴方にとっても、私にとっても、その周囲は創造主によって包み込まれているという、何と暖かいいたわリであることか。
 しかし、包み込まれているが故に、私達本人には、その存在を特定の人物のようには見えないというのです。赤子がその母親に抱かれているようなものです。私達、創造物は創造主の結果物である為、自分と同じレベル(或いは次元)では生み主を自分と同様な像として見ることができないというのです。
 一方では、古来より神(創造主)の像を建立し、あがめるという偶像化が行われており、それなりに、各自の信仰の対象として機能して来ておりますが、実は、本来は、創造主を人間のように表わすことはできないということを述べているのです。実は、創造主は、離れた場所に像として建立するよりも、もっと私達自身の身近に居るということに気付くべきなのでしょう。自分の周囲に片時も離れず、いらっしゃるということなのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落005

005 As we cannot see the Creator the God of the Cosmos in person, we then must study Him through His creation. And this manifests in what we refer to as nature, for it is the embodiment of His Supreme Intelligence.
005 私達は創造主、宇宙の神を個人的人物として見ることはできない以上、私達は創造物を通じて創造主を研究する必要があります。そしてこの創造物は私達が自然と呼ぶものの中に現れているのです。何故なら自然こそが創造主の最高英知の体現であるからです。

【解説】
 自然(nature)に体現されている創造主を知ることは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。
 自分の体験で言えば、早春、舗装道路の割れ目から紫色のスミレがそっと咲いていたかと思えば、しばらくするとスミレの花は姿を消して、新たな草が勢い良く伸びている。道路脇の草地には一斉に同じ小さな花をつけた草が繁る。2週間も付近を通らないとあたりの景色はすっかり変わっています。それほど、草花の変化は大きいのです。春に咲き誇っていたポピーは5月の末には実をつけた後、枯れて行きます。そしてあたりは、より逞しい夏草の時期を迎えるのです。
 これらの草花の移り変わりを見るにつけて、これらひとつひとつの草花に誰がどのように指令を出しているのか、不思議に思います。離れた場所であっても全てが調和して各々の生命を全うしている。実に不思議。
 それらの草木は、人間の都合によって刈取られることも多いのですが、それでも何事も無かったかのように、残った切り株から芽を出して来ます。この粘り強さは人間も真似したいものです。
 「創造物を通じて創造主を研究する」とはどういうことを意味するのでしょう。前述の続きで言えば、「自分自身を通じて創造主を研究する」ということになります。ある意味、それは研究材料が最も手近にあり、その反応も自ら良く分かり、一刻一刻の人体の生命活動を通じて、その創造主が元来、授けた意味や役割も含め、自分を理解できれば、最も効果的な研究ができる筈です。まして、最高英知の体現である人間としてダイヤモンドの原石磨きと同様に、自分自身を純粋にできれば、研究=実益、更には他者に対する貢献も大いに期待できるかも知れません。日常の観察から、自分自身を観察し、創造主を意識できるまで感性を高めることは、本人自身を高めことにも繋がることでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落004

004 We, as his highest creation are intrusted with that responsibility. The study should be no different than a careful observation of a famous painting would be when the artist is not known in person. For the more that it is studied, the better one understands the mind responsible for the painting.
004 最高位の創造物である私達は、その責任を任されています。その研究は画家を個人的に知らない場合に著名な絵画を注意深く観察するのと違いはありません。研究が進むにつれて、人はその絵画を描いた本人の心をより深く理解することになるのです。

【解説】
 日頃、私達の周囲には何気ない存在であれ、様々な創造物が取り巻いています。しかしながら私達は日々の「仕事」に追われていて、多くの場合、その存在に気付くことさえ無いのではないでしょうか。自分が歩いている足下にどのような草花が咲いているか、あるいは咲こうとしているのか、歩道の石の裏にひっそりと暮らしている虫達の営みを知ろうなどとは思わないのが普通です。
 それよりは、会社での言い訳や交渉相手への説得方法等、毎朝の通勤でさえ、足下の自然など、確かに目には入っているのですが、その認識力は無く、むしろ心はその日一日の仕事のことで頭は一杯なのかも知れません。或いは、自分が好きな音楽を聞きながらの場合には、上空が如何に素晴らしく晴れ渡っているのに、何一つ気付く事無く行き過ぎてしまうのが我々です。
 そのような無神経な者に創造主は創造物を委ねているというのです。本当にもったいない話しです。本人は知らないのですが、本人自身は元来、最高位の創造物であるというのも、驚きです。もっと、私達は、自らの価値を自覚しなければならなりません。そして、宇宙に存在する創造物に対する本来の責任についてもっと自覚する必要があることになります。
 そのためには、まず、自らも含めた「創造物」を良く観察・研究する必要があるというのです。丁度、絵を観賞するように。もちろん、大自然や他の存在物でも研究対象は良いのです。しかし、それよりいつも身近にあって、直接観察できる存在、もっとも身近な「創造物」を対象にした方が良いことは明らかです。それは、言う間でも無く、自分自身ということができるでしょう。この創造物は、毎日、鏡で見ることができますし、何処に居ようと、常に本人と一緒です。その日の心の動き、身体の働きと心の関係、等々、様々な生きた研究材料が、自分自身である訳です。自分自身を良く知ることが、もっとも早道であると言えるかも知れません。
 自分自身の内面や外観を関係づけて、冷静に、かつ繊細に学ぶことが重要なのでしょう。そうする過程において創造主を知り、感謝することが最も大切な「学習」であり、「研究」なのです。何の為に哲学を学び、宗教の門を叩くか、その究極の回答が、この創造物を通じて創造主の心を知り、私達が賜った贈り物である人間の責任というものを理解することなのです。

【参考】
 上述の「画家の心を理解する」に関連した資料としては以下の書籍があります。
 * 田中 穣著「生きる 描く 愛する 42人の名画家物語」婦人之友社( 明治、大正、昭和の美術史にのこる42人の足跡。画家達の織りなす運命の物語と代表作を、一冊にまとめた保存版!画家の心の内と、名画の由来を後生に伝える語りべとして取り組み、7年にわたり『明日の友』に連載したシリーズ「心は億万長者」の集大成。)

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落003

003 And in dealing with the religious or spiritual side, one should not be disturbed regardless of his faith. For the Creator whom we call God, created everything that is known and yet to be known. And to know the Father of all creation, one must study His creation and its purpose.
003 また、宗教や精神的な側面を取扱う際には、人は自身の信条がどのようなものであっても妨害を受けるべきではありません。何故なら、私達が神と呼ぶ創造主は、知られている、そして今後知られることとなるあらゆる物を創造したということ。そして、全ての創造物の父を知るために、人は父の創造物とその目的を研究しなければならないからです。

【解説】
 自然界の創造物を探究することは人間にとっての義務でもあります。
 この世界の鉱物、草木、動物等、全てが、創造主が無償で創造したと言っているのです。
人間はとかく、これらの「資源」を利用し、利用価値の無いもの、あるいは邪魔になるものは”雑草”や”害虫”として排除して来ました。
 しかし、あらゆる創造物を知り、その目的を探究することが大事であると述べています。そこにはこれまで気付かなかった創り主の意図について知ることにも繋がる大事な一歩です。
 ここで、何故、アダムスキーは「宗教や精神的な側面を取扱うについては、人は自身の信仰にかかわり無く妨害を受けるべきではありません」と言っているのでしょうか。それは、この種の探究は、あくまで自分1人で行う探究の作業であり、傍から「こうすれば良い」「こうしてはダメだ」等、指図されるべき事柄で無いことを意味しています。それは個人の内面から湧き起る印象や感性にも関わるもので、いわゆる頭脳で学習するような内容で無いことを指しているからです。自分で発見し、感得することで、自らの理解力や感性を高めることができるからなのです。
 贈り主からのプレゼントを受け取る際に、受け手がその贈り物の価値を知り、贈り手の気持ちを理解することは最低限の礼儀であることは言うまでもありません。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落002

002 When we speak of life, we mean in every phase of life's expression. In plain -we are going to explore life.
002 私達が生命について語る時、私達は生命が表現するあらゆる側面を意味しています。簡潔に言えば、私達は生命を探究しようとしているのです。

【解説】
 ひとくちに「生命」(或いは「いのち」「生活」)と言っても、その意味するところは広いものです。木の芽が成長し、花がつぼみをふくらませてやがて大輪の花びらを広げるように、自然界にはどんな鈍感な人間でも気付くような生命の営みがあります。また、一方では音楽に心震わせる感性もあるでしょう。形にならないものも「いのち」の表現である訳で、生命とする対象分野は広いものです。
これらの様々な対象をひっくるめて、ここでは「生命」と言っており、それらを含めてあらゆる生命の側面について、その根源から論じています。言うなれば、「生命」とはそもそも何であるかについて踏まえた上で、生命そのものを探究しようとしていると言うのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落001

001 This course on the science of life will get deeper as we proceed with the study.
001この生命の科学コースは学習を進めるにつれて次第に深遠なものになるでしょう。

【解説】
 この講座(「生命の科学コース」)はある種の通信教育として、開発されたものと聞いています。アダムスキー氏の哲学3部作の内、最晩年のものです。関係者の間では最も重要視された講座であり、全12課にわたる課程を経て地球人に必要な基本的知識が身に付くように工夫されたものとされています。
 1963年6月付の同名のアダムスキー氏の論説「生命の科学」(「死と空間を超えて」:昭和43年11月発行、久保田八郎訳、P.87-88)に以下の記述があります。
「(略)私は目下、”生命の科学研究講座”を設ける準備をしています。それはこれまでに教えられてきた如何なる精神科学とも異なるでしょう。それは万物のすべての分野とそれを支配している諸法則を包括することになります。宇宙人が現在の進化の状態に達したのはこの生命の科学によるのです。
 人間がこれまでに研究してきた神話は事実によって置き換えられ完全に排除されるでしょう。しかしこのためにだれも自分の信念を捨てたり変えたりする必要はありません。それはちょうどエンジニア−になろうとして勉強している人が自分の信念を捨てる必要がないのと同じです。
 私のいう生命の科学の研究は多数の人にとって容易ではないでしょう。それには生命の哲学が含まれていて、しかもあらゆる信念は哲学に基づいているからです。この研究を行おうとする人はすべて或る一つの事柄を理解する必要がありますので、ここでそれを明らかにしておきたいと思います。すなわち、この研究から何かを得ようとするならば各人はオープン・マインド(注:寛容の精神)とハッキリした論理的な考え方を持たねばならないということです。自己の既成知識を持ち込んで心中に混乱を生じさせてはいけませn。われわれは研究者にたいして他の人々の教師になってもらいたいからです。
(中略)
 以上はイエスの言った言葉『幼児のようにならなければ天の国へ入ることはできない』の意味です。天の国というのは生命の真実の知識のことです。これが”生命の科学研究講座”を設けた理由です。それは研究者を向上させて教師とし、他人を助けるのを可能ならしめることにあります。
 オランダの女王は私にむかって次のように言ったことがあります。『あなたの平易な言葉と表現の仕方のために、素人でもあなたの言っている事柄の真実性を感じることができます。長いあいだ人間を混乱させてきて、しかも人間を不安な生活に縛りつけていた神話的な言葉を用いないで、あなたは人間に生命の真実さをもたらしています』。人間は一人の主人をだまさないで二人の主人に仕えることはできません。人間がだましている相手は通常自分自身です。”生命の科学研究講座”については、最後的な計画ができ次第に詳細をお知らせします。」
 また、アダムスキー氏の論説「新しい地平線の彼方へ」(「死と空間を超えて」:昭和43年11月日本GAP発行、久保田八郎訳、P.134-135、及び「空飛ぶ円盤とアダムスキー」:1975年7月有信堂高文社発行、久保田八郎訳、p.202)に以下の記述があります。

「1964年に始まった”生命の科学”は今回第12課をもって完結し、ブラザ−ズも私もその成果に満足しています。講座を研究してその知識を応用した人の大部分は自己の能力を著しく拡大しています。実際、多数の読者が奇跡的な物事を行っています。このことは今後もずっとこの講座が大きな価値を持つことを示しています。宇宙の原理の研究と応用に終りはありません。これについて大いなる努力を払ってくださったブラザーズに感謝してよいでしょう。これは私達の精神生活ばかりでなく行おうとするあらゆる物事にあてはまります。この講座の研究だけでもよき未来を建設するのに役立つでしょう。
 これまで講演会でたびたび申しましたように、私たちに直接関係があるのは円盤の目撃ではなく、生活改善のためにブラザーズがもたらした知識です。目撃などというものはみな大同小異です。この知識なくしてはよき世界を期待することはできません。よき世界の建設こそ私達の義務です。政府が私達にかわってこれを行うことはできませんし、また惑星人に関する情報それ自体がこれをやりはしません。情報と知識は実行されない限り価値はないからです。(後略)」

 アダムスキー氏存命中に、どのような形式でこの講座が運用されていたか、今となれば知る由もありませんが、通常は1課毎に印刷テキストが送付され、何らかのテスト或いは感想文の返送を経て、学習者と教師(アダムスキー氏)がやり取りをする中で、講座を進ませるような仕組みであったと思われます。
しかしながら、現在、このような仕組みが取れなくなっており、各自が自習する中で、本書のようなノートを通じて、各々の理解力を伸ばすことが必要なのです。その意味で、お役に立てれば幸いです。
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