081 Actually, both are right. The eyes did see the man, and the ears did hear the footsteps. If they had been properly coordinated or synchronized, the eyes would have told the ears what they saw, and in place of a flat contradiction, the ears would have accredited the report. When the ears heard the sound but the eyes did not see the man, the eyes, after scanning the hall carefully, would have admitted it was something they did not understand; yet have accepted the information given by the ears. In other words, instead of arrogantly accusing the other of telling an untruth, each would have conceded that they could have been mistaken.
081 実際には両者とも正しいのです。目はその男を見たのですし、耳はその足跡を聞きました。もし両者が適切に連携、或いは同調していたら、目は耳に対して自分達が見たものを伝えたでしょうし、単純な否認の代わりに耳はその報告を信頼に足ると評価したことでしょう。耳がその音を聞き、目がその男を見なかった場合でも、目はホールを注意深く見渡してそれが自分達が理解出来ない何かであることを認め、耳から伝えられた情報を受け入れたことでしょう。言い換えれば、他を嘘を言っていると横柄に非難する代わりに、各々は自分達が誤っているかも知れないことを認めるようになることです。




【解説】
 本項をはじめとする一連の例示に関して、著者アダムスキー氏は何故、かくも大きな紙面を割いて各感覚の間の言い争いを述べたのかについて、私達は再度考えることも必要でしょう。実は私達の感覚の統制こそテレパシー訓練の第一歩であるからです。
 私達は実際の他惑星人の姿について良く知るところではありません。唯一の知識は同乗記の一連の記述にあるだけです。しかし、その他惑星人の内側については、彼ら自身、あるいは他文明からの指導によって進化を遂げて来た結果、日常的にテレパシーによる交流が為されていることは間違いありません。
 その他惑星人達がおそらく最初に取り組んだ課題は自らの感覚の統制、融合であったということでしょう。それ程に視覚から嗅覚までの感覚を互いに融和させ、フィーリングに対して検挙に受け入れる態勢づくりは重要であり、如何にして感覚を謙虚なものにして行くかが大事なのです。そういう意味で、各自、自らの四感覚の驕りを排除し、想念・印象に従う態勢づくりが必要となるのです。