177 This is where duality sometimes comes in. For you may love someone dearly and yet you do injury to them. This conflict is caused by memory cells of a lower nature, and those of a higher nature. If we knew something about our self we would combine these memories in relation to each other instead of the extremes with nothing between to support either of them. This lack of understanding is the cause of mysteries and misunderstandings. And when we hurt anyone we hurt ourself for we are all the same. We do this because our mind has not been trained to act as a good catalysis. This can only be done when the mind knows the reason for life.
177 ここが二重性が入り込む所以です。何故ならあなたは誰かを愛おしく愛しているかも知れませんが、それでもあなたはそれらを傷つけるかも知れません。この矛盾は低次な記憶細胞と高次な記憶細胞とによって引き起こされているのです。もし私達が私達自身についてなにがしかを知っていれば、私達はこれらの記憶を相互に補完することなく極端に走ることを止めて互いに関連づけてこれらの記憶を統合させることでしょう。この理解不足こそが神秘と誤解の原因なのです。また、私達が誰かを傷つける時は私達は自らをも傷つけることになります。何故なら私達はすべて同じ存在だからです。私達の心が良い触媒として行動するよう訓練を受けていないが故に私達はこのようなことを起こしているのです。その心の行動は心が生きて行くことの理由を知るようになる時にはじめて実現することになります。



【解説】
 釈迦が完全な悟りに至る前、菩提樹の下で瞑想していると、前に様々な様相を見せる敵が現れ、釈迦に挑みかかります。それに対し釈迦は落ち着いた態度でそれらを諭し、それらを消え去らせます。その時、現れた"敵"は釈迦ご自身の中にある要素だとされています。つまり、本項で言う自らの身体内の細胞に記憶された低レベルの記憶かと思われます。
 しかし、心がそれらの本質を理解できれば、たちどころにそれら低レベルの要素は中和され、体内から消滅することにもなるでしょう。私達がより高次な存在となる為にはどうしてもこの段階を踏まねばならないことにもなります。
 東南アジア(ラオス)の仏像のほとんどは、坐像で左手を手の平を上にした状態で自らの膝の上に、右手を手の甲を右膝から地面に触れるように下げていますが、そのポーズは釈迦がその悟りの際にしていた形であると伝えられています。
 つまり、仰ぎ見る仏像は釈迦が悟りを得た瞬間のお姿を表現しているとも言えるでしょう。私達自身にある二重性の本質を見極め、それらを調和に導き中で、湧き起る想念のレベルを向上させることが出来るものと思われます。