270 Jesus made the statement, ye have eyes yet see not, and also, the blind lead the blind. Yes, we do have eyes, as your home has windows. And the windows would say if they could speak, through me the forest is pictured. And if I became a mirror I would reflect the forest, but not its life.
270 イエスは、汝は目を持っているが見ていない、また盲人が盲人を導くようなものだと発言(訳注:マタイ15:14)しています。確かに、私達は皆さんの家に窓があるように目を持っています。そして、その窓がもし話すことができたとしたら、私を通してその森が見えるのだと言うことでしょう。そして、もし、私が鏡になったとすれば、私はその森を映すでしょうが、その生命までは映すことはありません。
【解説】
私達は本当の姿は何一つ見ていないのではないでしょうか。日常暮らしている中で、心は自分が得たイメージで判断し、深い部分の洞察を行なうことはほとんどしていません。その結果、うわべだけの自分の判断で事を済ませているふしがあります。
同じ対象物を一瞥しても、その把握内容は人によって大きく異なります。深い感銘を受ける人もあれば、全く気付かず通り過ぎてしまう人も居るのです。その違いは何処にあるのか。目には同じ光景が映っているのですが、本人に関心がない限り、光景を認識することすらない訳です。
見ていても真実を見えていないという意味では、私達は盲人ということになる訳で、多くの自称指導者が人々を導く姿を見て、イエスはこう嘆いたということでしょう。私達は一日も早く真の覚醒を遂げて、支援を待つ多くの人々の手助けとなる必要があります。
270 イエスは、汝は目を持っているが見ていない、また盲人が盲人を導くようなものだと発言(訳注:マタイ15:14)しています。確かに、私達は皆さんの家に窓があるように目を持っています。そして、その窓がもし話すことができたとしたら、私を通してその森が見えるのだと言うことでしょう。そして、もし、私が鏡になったとすれば、私はその森を映すでしょうが、その生命までは映すことはありません。
【解説】
私達は本当の姿は何一つ見ていないのではないでしょうか。日常暮らしている中で、心は自分が得たイメージで判断し、深い部分の洞察を行なうことはほとんどしていません。その結果、うわべだけの自分の判断で事を済ませているふしがあります。
同じ対象物を一瞥しても、その把握内容は人によって大きく異なります。深い感銘を受ける人もあれば、全く気付かず通り過ぎてしまう人も居るのです。その違いは何処にあるのか。目には同じ光景が映っているのですが、本人に関心がない限り、光景を認識することすらない訳です。
見ていても真実を見えていないという意味では、私達は盲人ということになる訳で、多くの自称指導者が人々を導く姿を見て、イエスはこう嘆いたということでしょう。私達は一日も早く真の覚醒を遂げて、支援を待つ多くの人々の手助けとなる必要があります。
『笑顔で生きるか愚痴を言っていきるか』
新約聖書の「マタイによる福音」にはイエスの次の言葉があります。
断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない、偽善者は、断食しているのを人にみてもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。かれらはすでに報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父にみていただくためである。そうすれば、隠れたことをみておられるあなたの父が報いてくださる。
イエスの言う「あなたの父」とは神様のことです。当時のユダヤ教の指導者たちは、現世利益ばかり求め続けていました。人知れず神様を信じて愛を深めようとするのではなく、自分の権力や名声ばかりを気にして生きていました。ですから断食をする時も暗い顔をして、自分がどれほど努力しているかを人にみせようとしていました。イエスはそういう偽善者のような態度を厳しく戒めたのです。
これは断食にかぎりません。私たちは逆境に立つと「自分はこんなに重荷を背負って、ここまで苦しみながら生きている」と誰かに愚痴をこぼしたくなります。確かに少しの同情は得られるでしょう。しかし、それではせっかく縮まった神様との距離が遠くなり、天に貯えてきた功徳が失われてしまいます。
生きて行く上では、誰にでも思い通りにいかないことがたくさんあります。そういう時、まずは「人生で理不尽な出来事がおこるのは当たり前のことなのだ」と現実を受け入れて、その状況に押し潰されることなく、逆に顔を洗って晴れやかに、にこやかに暮らしていく。大切なのはそのことだと思います。
私たちは問題にぶつかった時、生きる姿勢を自分で選び取ることができます。
愚痴を口にせず、苦しみを心の中で転がしながら笑顔で歩いていく生き方も選べます。反対に愚痴ばかり言って坂道を下降していくことも一つの選択肢でしょう。日常を振り返っても、愚痴をこぼした時は実に後味が悪いものです。それよりも自分の全てを知り、許し、助けてくれる神という存在を信じて話しかけてみることです。
司祭は少年期をふりかえりながら「どんな時も愚痴を言わない。いつも笑顔で生きて行く。そう決意さえすれば、うしろから大きな温かい手で支えて下さる方がいらっしゃることを身を以て感じることができます」
と話しています。
上るか落ちるかと言うとき、先ほどの聖書の言葉や、母親の言葉を胸に納めてれば、大きな勇気を奮い起こして現状を好転させることができます。苦しみのあるところには、必ずそれを超える大きな恵みが備えられていることに気づいていくのです。
信仰とは、神様を信じられないような辛い状況にあっても、なお信じることです。目には見えなくてもそういう存在がいると信じて語りかけてみてください。きっと大きな世界が開けてくると思います。
(自分を生き抜く聖書の言葉)より