257 Let us consider the meaning of this. Man has two souls, the soul of the sense mind, and the soul of consciousness. It is the sense mind that can be slain by lack of memory caused by adhering only to the so-called concrete effects. We can now see that memory is essential in order to have life eternal.
257 この持つ意味を考えて見ましょう。人には二つの魂があります。感覚の心の魂と意識のそれです。いわゆる具体的な結果にのみ追従することで記憶の喪失により滅ぼされ得るのはその感覚の心です。私達は今や記憶が生活を永遠に保つ為に不可欠であることは分っています。
【解説】
私達はこれまで、紙に書かれたもの、物体に表現された作品その他の結果物を永続するものとして自分の拠り所として来ました。しかし、それらは実はたまたまその時点で結果の世界に現された創造の結果物であり、変化する世界の中では容易に失われてしまうことに気付く必要があります。
この結果物に依存している心は記憶を蓄えることが出来ず、やがては自分自身を見失ってしまうと本項及び前項は警告しています。むしろ私達は土地や財産その他、成果物(結果)をあまりに大切にして来た結果、本来着目しなければいけない「原因」、即ち「意識」が伝える、形がまだ出来ていない純粋は知識に目が行かなくなってしまったということではないでしょうか。
先日も出張の途中、飛行機の窓から外を眺めていたところ、眼下に無数の雲の塊が広がっていました。もちろん、これらは結果物であり、現状は形あるものなのですが、未来永劫そこに存在することはありません。雲は付近の気流の流れから一時的に形成されたもので、遠からず、元の大気に戻って行く筈です。私達も自らが拠り所としている結果物の中身を良く知って、それら変遷する存在ではなく、それらを現出させている「因」の働きに自らを従わせるよう努めるべきだということです。
257 この持つ意味を考えて見ましょう。人には二つの魂があります。感覚の心の魂と意識のそれです。いわゆる具体的な結果にのみ追従することで記憶の喪失により滅ぼされ得るのはその感覚の心です。私達は今や記憶が生活を永遠に保つ為に不可欠であることは分っています。
【解説】
私達はこれまで、紙に書かれたもの、物体に表現された作品その他の結果物を永続するものとして自分の拠り所として来ました。しかし、それらは実はたまたまその時点で結果の世界に現された創造の結果物であり、変化する世界の中では容易に失われてしまうことに気付く必要があります。
この結果物に依存している心は記憶を蓄えることが出来ず、やがては自分自身を見失ってしまうと本項及び前項は警告しています。むしろ私達は土地や財産その他、成果物(結果)をあまりに大切にして来た結果、本来着目しなければいけない「原因」、即ち「意識」が伝える、形がまだ出来ていない純粋は知識に目が行かなくなってしまったということではないでしょうか。
先日も出張の途中、飛行機の窓から外を眺めていたところ、眼下に無数の雲の塊が広がっていました。もちろん、これらは結果物であり、現状は形あるものなのですが、未来永劫そこに存在することはありません。雲は付近の気流の流れから一時的に形成されたもので、遠からず、元の大気に戻って行く筈です。私達も自らが拠り所としている結果物の中身を良く知って、それら変遷する存在ではなく、それらを現出させている「因」の働きに自らを従わせるよう努めるべきだということです。
『霊的に進歩したければ多く愛すること』
ある人たちは、たとえひどく骨を折ってでも、神について長時間考えることができると、たちまち自分は霊的人物だと思ってしまいます。また自分の意に反して、それから心がそれると、たとえそれが良いことのためであっても、非常に落胆して、もうだめだと思ってしまいます。神の御業について黙想するのが恵みではない、というつもりはありません。しかし霊魂の進歩は、多く考えることではなく、多く愛することにあるのです。
では、どうすればこの愛を獲得することができるでしょう?私たちがひとりきりで神のことを考え、その甘美を楽しもうと思っている時間の中に、義務の仕事や隣人への奉仕が割り込んできます。神がご奉仕のために働くようにと明らかにお命じになるのに、神をながめていたいからという口実を使ってお断りするとは、なんということでしょう!進歩することのできる道はひとつしかないと考えて主のみ手をしばってしまうとは、神への愛に進むのに、なんたる方法ではありませんか。
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祈りに生きるとは、愛に成長していくことに他なりません。ですから祈りが単に考えるだけに留まるのではなく、ましてや、神と共に過ごす甘美さを楽しむことでもなく、愛することに変わっていかなければなりません。私たちは、このことをよく承知していながら、「微妙な自愛心が混じり込んで、神よりも自分の満足を求めていることが見分けられなくなっているのです。」とテレサは書いています。
しかし、本当に神を愛し始めた人には、この見分けがつきます。愛は、愛する方が何を喜ばれるかを、すぐに感じ取る能力を持っているから間違うことがありません。「愛が完全になると、それは愛するものを満足させるために、自分自身の満足を忘れさせる力を持つものです。」(創立史5)こうして、愛はますます深くなり、本物になっていくことでしょう。