219 Now let us observe how different types of thoughts manifest. If an angry thought enters the mind the facial expression changes to represent the anger. And if a happy thought is present it expresses, etc., etc. It is no different than a sculptor who molds out of clay a thought that he has in mind. So a thought whatever it may represent is like the sculptor for it molds the facial expression to represent itself. So we as intelligent beings desiring youthful, healthy, well proportioned bodies should always have that type of thought for it will mold the body according to its pattern. And a thought of newness especially along cosmic lines is important if the body is to maintain youthfulness.
219 それでは如何に様々な想念が体現するかを観察することにしましょう。もし怒りの想念が心に入り込むと、顔の表情は怒りを表わす為に変化します。また、楽しい想念が居合わせた場合にはそれはそれこれの表情を表わします。それは彫刻家が心の中で抱く想念を土からかたどるのと違いはありません。ですから想念がどのようなものを表わすにせよ、彫刻家のようなものです。それ自身を表現する顔の表情をかたどるからです。ですから若く、健康で良く調和した肉体を望む知性的存在である私達は常にその種の想念を持つ必要があります。何故なら想念はその想念パターンに従って肉体をかたどるからです。そして特に宇宙的分野に沿っての新規性ある想念は肉体が若さを保つ為には重要です。
【解説】
同乗記の中で宇宙の兄弟達が創造主の肖像画をいつも眺めているという記述を覚えている方も多いと思います。優れた芸術作品は私達に高い品質の印象を届けますし、私達はそれらの影響を受けて進歩の道を歩むことも可能なのです。
想念が個々人を変化させることは、私達の心が持つ潜在的な表現力を意味する訳ですが、問題はどの種の想念を取り入れるかにあります。広大無限の宇宙は私達に探究心を与えるのと同時に、創造主との距離を縮めるような感覚をもたらすものと思われますし、人類発展のカギは、狭い地表から抜け出て、広大な宇宙空間に進出することだと思われます。
優れた想念・印象を積極的に取り入れて、その印象に基づいて行動した結果、得る体験を通じて個人の記憶を蓄え、更には本人からも同種の想念を発する等、印象を通じたサイクルも実現するというものです。私達は印象の表現者であると同時に、他者に対しての想念・印象の発信者でもあります。自らへの影響の他に他者への影響も考え合わせれば、日々取り入れている想念の影響は極めて大きいと言えます。
京都広隆寺や奈良中宮寺の弥勒菩薩の半跏思惟像をはじめとする仏像は、それを見る多くの人々を魅了するものですが、その微笑の奥にどのような想念があるのかを考えて見るもの楽しいのではないかと思われます。
219 それでは如何に様々な想念が体現するかを観察することにしましょう。もし怒りの想念が心に入り込むと、顔の表情は怒りを表わす為に変化します。また、楽しい想念が居合わせた場合にはそれはそれこれの表情を表わします。それは彫刻家が心の中で抱く想念を土からかたどるのと違いはありません。ですから想念がどのようなものを表わすにせよ、彫刻家のようなものです。それ自身を表現する顔の表情をかたどるからです。ですから若く、健康で良く調和した肉体を望む知性的存在である私達は常にその種の想念を持つ必要があります。何故なら想念はその想念パターンに従って肉体をかたどるからです。そして特に宇宙的分野に沿っての新規性ある想念は肉体が若さを保つ為には重要です。
【解説】
同乗記の中で宇宙の兄弟達が創造主の肖像画をいつも眺めているという記述を覚えている方も多いと思います。優れた芸術作品は私達に高い品質の印象を届けますし、私達はそれらの影響を受けて進歩の道を歩むことも可能なのです。
想念が個々人を変化させることは、私達の心が持つ潜在的な表現力を意味する訳ですが、問題はどの種の想念を取り入れるかにあります。広大無限の宇宙は私達に探究心を与えるのと同時に、創造主との距離を縮めるような感覚をもたらすものと思われますし、人類発展のカギは、狭い地表から抜け出て、広大な宇宙空間に進出することだと思われます。
優れた想念・印象を積極的に取り入れて、その印象に基づいて行動した結果、得る体験を通じて個人の記憶を蓄え、更には本人からも同種の想念を発する等、印象を通じたサイクルも実現するというものです。私達は印象の表現者であると同時に、他者に対しての想念・印象の発信者でもあります。自らへの影響の他に他者への影響も考え合わせれば、日々取り入れている想念の影響は極めて大きいと言えます。
京都広隆寺や奈良中宮寺の弥勒菩薩の半跏思惟像をはじめとする仏像は、それを見る多くの人々を魅了するものですが、その微笑の奥にどのような想念があるのかを考えて見るもの楽しいのではないかと思われます。
『聖フィリッポ・ネリ』つづき
修道院に招待されて行くと、フィリッポは微笑を眼顔面一杯にたたえながら、有益な話で周囲の緊張をとき、今まで口びるをかたくとざしている修道者には語らせ、きびしい面持ちをしているものを笑わせた。なにかくよくよ考えている者や、悲しみに沈んでいる者は、聖霊の御働きをさまたげているのだと彼は考えていた。フィリポは「平安と喜び」こそ、聖性への踏み台であると信じ、まず自分がキリストの平安と喜びに生き、それを人にも伝えるようにしたのである。
こうして、フィリッポが、ローマで霊的活動を始めてから、どれほど美しい救霊の実りを結んだことだろうか。まもなく彼の霊的指導で、霊的事業はローマを越え、ローマ、ドイツ、イギリスなどヨーロッパ各地へ普及した。
また司教や枢機卿の地位につくことを再三すすめられたが、そのだびにこれを辞退した。高い寛徳の城に達する人ほど自分の奥底にひそむ堕落の危険をいっそう身にしみて感じるという。フィリッポも、しばしば「主よ、フィリッポに注意してください。もし御恵みをもって私をお守りくださらなければ、私はきょうでも御身にそむくかもしれませんら・・」と祈っていた。
こうしてたえまなく霊魂の司牧に働きつづけたフィリッポ・ネリは1595年、80歳で倒れ臨終の床では「わが最愛の主よ、私」の苦しみを増してください。けれどもまた私の忍耐の力を増してください」と雄々しく祈りながら、聖体の祝日に安らかに息を引き取った。