204 Never allow the mind to become emotionally affected to the point where it wants to tell the world what has been revealed to it. For when the time of revelation does come - it will be given calmly and modestly. The tricks that the mind has cultivated and accumulated will appear from time to time and try to show the other fellow how much it knows. This is definitely wrong and should this occur it is time to remember - do unto others as you would have them do unto you. The mind has been dwelling in untruthful things for ages and when the real truth is brought to it, it does not like to accept for it built its foundation on mistakes and does not like to have them disturbed. And as said before, this does not mean that mistakes are of no value, for they show us the right way to act. But one mistake is not to be covered up with other mistakes. It is to be corrected immediately.
204 決して心に明かされたことを世間に告げようというところまで心が感情に動かされるのを許してはなりません。何故なら啓示がやって来る時、それは静かにそして控えめに与えられるからです。長年心が培い蓄積して来たたくらみが時折現れて、同僚に如何に自分が知っているかを示そうとします。これは絶対によくないことであり、万一起こった時は、次のことを思い出して下さい。汝が他人にしてもらいたいと思うことを他人に為せです。心は長い年月、嘘で固めた中で生きて来ているので、実際の真理がやって来た時、過ちの上に基礎を置いており、混乱されたくない為にそれを受け入れたくないと思うのです。しかし、以前申し上げたように、その過ちは価値が無いとしているのではありません。何故なら、それは行動すべき正しい道を私達に示してくれるからです。しかし、ひとつの過ちは他の過ちによって包み隠されてはなりません。直ちに直されねばならないのです。
【解説】
心は知ったかぶりをしたがるものです。しかし、こと印象に関する限り、厳に慎まなければならないことを本項では、特に戒めています。自分だけが知っていることを他の者に喋って自らが他よりも物知りだと自慢したいというレベルが私達の心な訳です。
しかし、大切な知識を含むその印象は大事に取り扱われるべきで、それが最適に活用される状況が整った上で応用されるべきことは言うまでもありません。同じアイデアは武器の製造や相手を支配する道具にも利用され得ることにも注意しなければなりません。
感受した印象をそのまま口にするのではなく、適切な時期に心がそれを十分理解出来る状況になった時に応用されるべきな訳です。
いずれにしても、私達は失敗を繰り返しながら、前進する訳で、例え失敗したからと言って、その原因を分析し、次に活かせられれば、その失敗は役立つ経験の一つにすることが出来ます。印象感受についても同じこと。私達は感受ばかりでなく、その後の活用方法についても学ばなければなりません。
204 決して心に明かされたことを世間に告げようというところまで心が感情に動かされるのを許してはなりません。何故なら啓示がやって来る時、それは静かにそして控えめに与えられるからです。長年心が培い蓄積して来たたくらみが時折現れて、同僚に如何に自分が知っているかを示そうとします。これは絶対によくないことであり、万一起こった時は、次のことを思い出して下さい。汝が他人にしてもらいたいと思うことを他人に為せです。心は長い年月、嘘で固めた中で生きて来ているので、実際の真理がやって来た時、過ちの上に基礎を置いており、混乱されたくない為にそれを受け入れたくないと思うのです。しかし、以前申し上げたように、その過ちは価値が無いとしているのではありません。何故なら、それは行動すべき正しい道を私達に示してくれるからです。しかし、ひとつの過ちは他の過ちによって包み隠されてはなりません。直ちに直されねばならないのです。
【解説】
心は知ったかぶりをしたがるものです。しかし、こと印象に関する限り、厳に慎まなければならないことを本項では、特に戒めています。自分だけが知っていることを他の者に喋って自らが他よりも物知りだと自慢したいというレベルが私達の心な訳です。
しかし、大切な知識を含むその印象は大事に取り扱われるべきで、それが最適に活用される状況が整った上で応用されるべきことは言うまでもありません。同じアイデアは武器の製造や相手を支配する道具にも利用され得ることにも注意しなければなりません。
感受した印象をそのまま口にするのではなく、適切な時期に心がそれを十分理解出来る状況になった時に応用されるべきな訳です。
いずれにしても、私達は失敗を繰り返しながら、前進する訳で、例え失敗したからと言って、その原因を分析し、次に活かせられれば、その失敗は役立つ経験の一つにすることが出来ます。印象感受についても同じこと。私達は感受ばかりでなく、その後の活用方法についても学ばなければなりません。
『聖ドミニコ』
聖ドミニコは、1170年、スペインのカスチラの裕福な貴族の家に生まれた。両親共にきわめて信仰深く、ことに、母のヨハンナは聖徳のほまれ高く、福者として公式に崇敬されている。伝えによれば、母は胎内のドミニコが全世界を照らす「たいまつ」をくわえた白黒のまだら犬の形で生まれるのを夢みたという。また代母はドミニコの洗礼のとき、そのひたいに光輝ある星がついているのを幻に見たという。
これらのしるしは、ドミニコ及びその修道会の将来を暗示するものとみなされている。というのも、異端の暗黒におおわれた地方に神の真理の「たいまつ」を高くかかげ、その会員と共に白黒の修道服をまとったドミニカネス(主の番犬)として、教会の権利や信仰の遺産を注意深く守ったからである。
ドミニコは幼少のころから、けいけんな両親のことばや行いに見ならって信仰生活に心を引かれ、7歳の時母のおじにあたる司祭のもとに預けられで教育を受けた。神童といわれた彼は14歳で早くもヴァレンシア大学に入学を許され、十年間、開校以来の優秀な成績で種々の過程を修めた。そのあいだに、ただ勉強だけでなく、信心にも力をつくし、飢饉のときなどは自分の手で注釈を加えた貴重な本まで売り払って飢えに苦しむ人を救ったという。24歳で司祭になると、スペインのオスマ司教座代聖堂付き参事会の一員に加えられ、司教の顧問役として聖アウグスチヌスの戒律にもとづき共同生活を行った。まもなくその豊かな学識と 誠実な人柄が高く買われて、参事会会長に任命され、忙しい務めのかたわらたえず「人々の救霊を得るに役立つ真の愛をわれに与えたまえ」と祈っていた。