101 And the ego must learn how to apply the impressions that come from the guidance of the THY WILL which is the conscious will, instead of the will of the mind. If a harmonious life is to be enjoyed, the will of the mind must submit its will to the will of consciousness, then the THY WILL is done. The difference between the two is - the conscious or THY WILL does not force itself. It is kind and mellow in its expression, while the ego will is aggressive, domineering and self-centered. Conscious will knows no fear - the ego will fears all through life and makes many mistakes.
101 そしてエゴは心の意志に代わって意識の意志である「汝の意志」の導きから来る印象をどのようにして応用するかを学ばねばなりません。もし、調和ある生活を謳歌するなら、心の意志は意識の意志にその意志を委ねなければなりませんし、そうすれば汝の意志が行われるでしょう。これら2つの違いは意識あるいは汝の意志はそれ自身を強制しないことにあります。その表現はやさしく、豊潤ですが、一方、エゴの意志は攻撃的で横暴、自己中心的です。意識は恐怖を知りませんが、エゴはその生涯を通じて恐れており、多くの過ちをおかすのです。
【解説】
心にやって来る印象に対して何を選択するかが問題です。印象の中には創造主に源泉を置くもののほかに、他の者の心も含めて心自体に由来する印象もある中で、心がどちらを選択するかが重要となります。
通常、印象の内、心に由来するものは、憎しみや悲しみ、或いは戦闘的といった極端なものが多いようです。それらに身を委ねることは大変危険ですし、印象を取り入れ行動に移した結果、更にその感情を増加させ、心身の調和を崩すことになります。
一方で、温和で冷静、包容力のある印象に従えば、心身は調和し、本来の進歩の歩みを続けられることになります。
このように各自がどのような印象(想念)を取り入れるかはその後の人生の歩みに影響する重大な分かれ道なのですが、一般にはそれらの事項を教える者は少ないようです。一口に自己責任ということは簡単なのですが、それでは大半の衆生は救われません。正しい人生の向き合い方は、日々刻々の心の観察を通じて、良質の想念・印象に関心を寄せ、それらを応用できるよう、スタンバイすることだと考えております。
101 そしてエゴは心の意志に代わって意識の意志である「汝の意志」の導きから来る印象をどのようにして応用するかを学ばねばなりません。もし、調和ある生活を謳歌するなら、心の意志は意識の意志にその意志を委ねなければなりませんし、そうすれば汝の意志が行われるでしょう。これら2つの違いは意識あるいは汝の意志はそれ自身を強制しないことにあります。その表現はやさしく、豊潤ですが、一方、エゴの意志は攻撃的で横暴、自己中心的です。意識は恐怖を知りませんが、エゴはその生涯を通じて恐れており、多くの過ちをおかすのです。
【解説】
心にやって来る印象に対して何を選択するかが問題です。印象の中には創造主に源泉を置くもののほかに、他の者の心も含めて心自体に由来する印象もある中で、心がどちらを選択するかが重要となります。
通常、印象の内、心に由来するものは、憎しみや悲しみ、或いは戦闘的といった極端なものが多いようです。それらに身を委ねることは大変危険ですし、印象を取り入れ行動に移した結果、更にその感情を増加させ、心身の調和を崩すことになります。
一方で、温和で冷静、包容力のある印象に従えば、心身は調和し、本来の進歩の歩みを続けられることになります。
このように各自がどのような印象(想念)を取り入れるかはその後の人生の歩みに影響する重大な分かれ道なのですが、一般にはそれらの事項を教える者は少ないようです。一口に自己責任ということは簡単なのですが、それでは大半の衆生は救われません。正しい人生の向き合い方は、日々刻々の心の観察を通じて、良質の想念・印象に関心を寄せ、それらを応用できるよう、スタンバイすることだと考えております。
「神の探求Ⅱ」
模範としての主と共にあれば、仕返しをしてやりたいと言う気持ちは私達の内になくなります。私達が憤ると、その度に、後で私達を躓かせることになる抑制の利かない衝動を溜め込むことになります。それ故、足を引っ張られり邪魔されたことに対する怒りや、短気な言動を誘発してしまいそうな事柄を主の道に一致させるという、より完全な理解を実現させるための踏み石として使いましょう。
それがどれほど大変なことであったとしても、他の人々を助けるために、私達自身を差し出し、私達の愛と忍耐と思いやりを捧げるとき、私達は主の道を学んでいるのです。そのような私達を主が支えてくださることでしょう。主の生き方の美しさを私達の人生の手引きとするなら、私達の人生に誘惑として立ち現れる様々な事柄や私達を不安にさせる様々な事柄も、私達の重荷を共に担ってくださると約束された主に、すっかりあずけることができるはずです。