209 The Triterians had no religion as it is accepted today - they were a race of scientists, for they worked not on supposition or myth but on facts. They had no gods but recognized the all-intelligent force and themselves as expressers of it. They did not make the mistake of allowing their mortal mind to judge the creator for they understood cause and effect. They gave no thought to any division between themselves and the cosmic consciousness; they acted with a freedom and assurance of results. Therefore life was peaceful and harmonious. They were not bound by gods or devils for their only state of awareness was that of interblended action. They recognized the necessity of duality in creation but they did not separate the force into good and evil.
209 トリテリア人達には、今日認められているような宗教はありませんでした。彼らは科学者の種族であったのです。何故なら、彼らは想像や神話に基づいて働くことはなく、事実に基づいて働いていました。彼らには神がありませんが、全英知を認識し、自分達をその表現者であると自覚していました。彼らは自分達の死すべき心に創造主を裁かせる誤りをさせませんでした。何故なら彼らは因と結果を理解していたからです。彼らは自分自身と宇宙意識の間に如何なる分け隔てをするような想念を持ちませんでした。彼らは自由に、また結果を確信して行動しました。それ故、生命は平穏で調和あるものでした。彼らは神や悪魔に束縛されはしませんでした。彼らの知覚の唯一の状態は融和混合した行動のそれであったからです。彼らは創造における二元性の必要性を認識していましたが、その力を善と悪とに分離することはしなかったのです。
【解説】
地球上での数少ない成功事例がトリテリアであった訳ですが、彼らの生き方は本文に書かれているように、宗教と言うよりはむしろ事実の観察を通じて因を知ろうとする科学的な心情であったようです。今日で言う宗教的な要素は無く、冷静な科学者の心境であった訳です。
これはその後、時代を経てアダムスキー氏が他惑星人の支援を受けてまとめた「生命の科学」にも通じる所があります。むしろ、様々な経緯を経て、地球人に必要な要素として、古来からの宗教的アプローチではなく、科学的アプローチが適していることが分かった為、同書が取りまとめられたものと思われます。トリテリアの成功事例を参考に編集された可能性もあると考えています。
本項での大事な所は、彼らは常に自らの心の中に裁きに通じる想念や因に離反する印象が発生することを極力、監視し警戒していたことです。また、自然界で行われている食う食われる等の事象に対して、自分の好みで判断することを厳に慎んだことにあります。ありのままの現象に対して、より広い観点からその必要性を理解しようとしていたことにあります。
209 トリテリア人達には、今日認められているような宗教はありませんでした。彼らは科学者の種族であったのです。何故なら、彼らは想像や神話に基づいて働くことはなく、事実に基づいて働いていました。彼らには神がありませんが、全英知を認識し、自分達をその表現者であると自覚していました。彼らは自分達の死すべき心に創造主を裁かせる誤りをさせませんでした。何故なら彼らは因と結果を理解していたからです。彼らは自分自身と宇宙意識の間に如何なる分け隔てをするような想念を持ちませんでした。彼らは自由に、また結果を確信して行動しました。それ故、生命は平穏で調和あるものでした。彼らは神や悪魔に束縛されはしませんでした。彼らの知覚の唯一の状態は融和混合した行動のそれであったからです。彼らは創造における二元性の必要性を認識していましたが、その力を善と悪とに分離することはしなかったのです。
【解説】
地球上での数少ない成功事例がトリテリアであった訳ですが、彼らの生き方は本文に書かれているように、宗教と言うよりはむしろ事実の観察を通じて因を知ろうとする科学的な心情であったようです。今日で言う宗教的な要素は無く、冷静な科学者の心境であった訳です。
これはその後、時代を経てアダムスキー氏が他惑星人の支援を受けてまとめた「生命の科学」にも通じる所があります。むしろ、様々な経緯を経て、地球人に必要な要素として、古来からの宗教的アプローチではなく、科学的アプローチが適していることが分かった為、同書が取りまとめられたものと思われます。トリテリアの成功事例を参考に編集された可能性もあると考えています。
本項での大事な所は、彼らは常に自らの心の中に裁きに通じる想念や因に離反する印象が発生することを極力、監視し警戒していたことです。また、自然界で行われている食う食われる等の事象に対して、自分の好みで判断することを厳に慎んだことにあります。ありのままの現象に対して、より広い観点からその必要性を理解しようとしていたことにあります。
「生活に役立つ法律の話、神はいるか?天罰は下るか?」弁護士 長谷川洋二著 (ザ・コスモロジーより)
私は、無神論者で無宗教で何の思想もない。が、弁護士を続け他の人生を眺めているうちに、神は存在し天罰は下ると確信した。神は法律で裁けない悪行を確実に裁き、天罰を落とすのだ。
これは恐い。なぜなら、法の罰は罰金とか懲役など受ける罰が事前に決まっているが、天罰はいろいろに形を変えるからだ。
今から22年ほど前、私は飲み屋でケンカし包丁で相手方を刺し殺した男の弁護をした。彼は私に、殺意はあったが、なかったことで弁護してほしいと依頼した。悩みつつも私は殺意を否定し殺人罪は成立しないと法廷で戦った。
なんと裁判所は私の主張を認め殺人罪ではなく障害致死罪で懲役6年だけの刑に処した。殺すつもりで殺したのに殺人罪にはならなかったのだ。弁護士としては勝利したが、人として後味の悪い勝利だった。
かくして、かれは6年も経たないうちに出所した。が、恐るべし、7ヶ月後、肺がんでゴミのように死んだ。私にもその頃、不幸があった。天罰が落ちたと思った。
また、ある組織に数十億の不正融資の問題があった。関与した3人は数年はその金で贅沢三昧をしていたが、やがて1人は失明し、1人は喉頭がんで声を失い、1人は社会的地位を失った。彼らの行為は法的には裁かれなかったが神が裁いた。
妻が妊娠中に彼女を作り、その彼女にも妊娠させた男がいた。彼は妻には出産を、彼女には中絶を強いた。彼女は不倫関係故に彼には何の請求をもできなかった。請求すれば彼の妻から逆請求されるからだ。まもなく、彼は、プレス機で両手をつぶされ、生まれた赤ちゃんを両手で抱けなくなった。
こんな事例がいくつもある。悪事をしたものが法律で裁かれるのは、その者にとって安心できる裁かれ方だ。なぜなら、裁かれ方が法律で決められているからである。
しかし、神は違う。天罰はいろいろな形で悪人を苦しめ、時には命を奪う。神は万能なのだ。
「天網恢恢、疎にして漏らさず」とは、神はどんな悪事も見逃さない網を張っているという格言だが、私はこの言葉を信ずる。金で買えないものは無いと断言した傲慢な経営者は実刑判決を受けたが彼は法律の裁きを受けただけでも想定の範囲の処罰で助かったというべきである。仮に法律の裁きを免れたなら、彼の身に天罰が落ちたであろう。
最後に、神がいるということは逆にいうと、真面目にコツコツ誠実に思いやりを持って生きている人には幸運が保障されるということだ。神はそれぞれの生き方に応じて、天罰と天恵を選択して与えてくれるのである。
愛、幸福、微笑み、自然、心の安らぎ、これら生きていく上で一番大切なものはすべて金で買えないのだ!
神が誠実で優しい貴方にそっと与えてくれるのだ。
悪人には天罰を下すようにね!