368 Other students will grasp one statement that does not coincide with their preconceived ideas, and shut their minds to the rest They will judge this idea according to their own knowledge of the subject, or compare it with some thought possessing a slight similarity. In so doing, they cut off the natural sequence being presented by the lecturer, and at the end of the session they generally find themselves decidedly confused over what has been said. Of course, they lay the blame at the door of the speaker-not to their own mental reactions.
368 他の生徒達は自分達が描いたアイデアと一致しない一つの発言を捉えて、その残りの話に心を閉ざすことでしょう。彼らはそのテーマに関する自分達の知識に従い、このアイデアに対し裁きを行うか、あるいはわずかな類似点を持ついくつかの想念と比較することでしょう。そうすることで、彼らは講師によって提起された自然な一貫性を切断し、授業時間の最後には、彼らは大抵、自分自身が明らかに語られたことに対して混乱していることに気付きます。もちろん、彼らは自分達自身の心の反応に対してではなく、講師のせいにするのです。


【解説】
 これについては、私自身学生の頃、度々経験しています。授業の中で先生が教える内容の中で少しでも自分の考えに合わない所があると、それ以降は授業内容に対してあれこれ反発し、結局は授業全体が身に付かないことになったものです。つまりは受け入れる側は例え、自分の考えと相容れない要素があったとしても、先ずは全体を受け入れ、心の中を通過させ、その上で、何がその要旨かを分析し、必要なエッセンスを学び取ることが必要だった訳です。
 一方では近代の学術分野では、とかく何事にも批判的な視点で物事を見ることが良いことだとされており、各分野には多くの批評家がいて、その対象に対する評価を下しています。しかし、本講座は各自の学習態度としては、もっと誠実で受容的な態度でなければ学び得ない精妙な分野があることを訴えているのです。
 単なる知識でなく、自らの心の有り様を変革する為には、心を増長させないこと、心を落ち着かせることが第一です。おの上で心を通過するようになる宇宙からの印象(想念)を静かに観察し、その印象の発信者が何を伝えているのかを学び取ることが求められているということです。