ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落062

062 But what of the so-called fifth sense? If we deprive man of feeling, as we have done with sight, hearing, taste and smell, what is the immediate result? He lapses into unconsciousness, and will remain in that state until feeling is restored. While he is in this state, the organs of sense are still in the body and in perfect condition. The eyes, nose, palate and ears are uninjured, yet they do not see, smell, taste, or hear. And if feeling is complete]y withdrawn from the body, that person dies. Therefore, it is quite apparent that each of the four senses is dependent upon feeling for its existence.
062 しかし、いわゆる第5番目の感覚とは何でしょう? もし、人間から私達が視覚や聴覚、味覚や嗅覚について行ったように、フィーリングを取り除いたら、どのようなことが直ちに結果となって現れるでしょうか? その人は無意識の状態に陥り、フィーリングが回復されない限りはその状態に留まるだろうということです。その人はこの状態にある間、それら感覚器官は肉体内にあり、完全な状態にあります。両目は鼻、舌や両耳は損傷を受けていませんが、それらは見たり、匂いを嗅いだり、味わったり、聞いたりしないのです。そしてフィーリングが肉体から完全に取り去られるなら、その人物は死にます。ですから、この4つの感覚各々はその存続をフィーリングに依存していることは、まったく明らかなのです。


【解説】
 そもそもフィーリングとは私達にとってどのようなものと言うことが出来るでしょうか。他の4感と同様な表現をすれば、振動や圧力、熱や痛み、かゆみ等を感じる機能がとりあえずの作用と言えます。ここで注目したいのは、これらの受容器は他の4感のように特定の部位に存在するということはなく、全身にわたって広く分布していることです。つまり、肉体全域についてこの感覚は警戒するネットワークが出来ていることになります。また、「痛い」「熱い」等、身体の安全に関わる事態にはそれ相応の警告を出しますが、これらの反応自体にはほとんどの場合、好き嫌いの反応は起らないことも特徴として挙げられます。
 このようにフィーリングを全身にくまなく行き渡る神経のネットワークとすれば、私達はそのネットワークを通じて自分自身の各部位の状況を常時監視し、その部位とのコミュニケーションも出来るというものです。そういう意味から更に発展させれば、フィーリングが本来の精神感応という意味で離れた相手とそのネットワークが繋がる機能を併せ持つことも類推できます。またこのネットワークを通じて自分の意識を自由に移動させ、離れた地点の状況を観ることも可能であるように思えます。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落061

CHAPTER Ⅲ
Feeling - The Cardinal Sense
061 According to popular belief we possess five senses sight, hearing, taste, smell and feeling; each of which, we know, has the ability to act independently of the others. We can see objects without using the senses of hearing, taste or smell. We do not need hearing, sight or smell to decern sweet from sour. Our olfactory organs work admirably without the help of ears, eyes, or palate; and sounds can be received through the auditory canal exclusive of the other three senses. This all goes to prove that the four senses work independently of each other.
第3章
フィーリング - 基本的な感覚
061 一般に信じられていることに従えば、私達は5つの感覚、視覚、聴覚、味覚、嗅覚そしてフィーリングを持っていますが、それら感覚の一つ一つは私達が知っているように他の感覚とは独立して働く能力を有しています。私達は聴覚や味覚、嗅覚を用いずに対象物を見ることができます。すっぱいものの中から甘いものを識別するのに聴覚や視覚あるいは嗅覚を必要とはしません。私達の嗅覚器官は耳や目、舌の手助け無しに見事に作用しますし、音響は他の3つの感覚を排除したまま聴覚の内耳導管を通じて感受されることが出来ます。これら全ては4つの感覚は互いに独立して働いていることを示しています。

【解説】
 ここでは日本語訳の問題として、本文中にある「feeling」について確認して置きましょう。元来、通常の人間の五感という意味からは、feelingの日本語訳としては「触覚」と訳すべきものです。確かに何物かと触れた場合や痛みやかゆみを感じる等は触覚の機能ということになります。
 しかし、本書においてはfeelingには「感じる」というような精神面に拡大した感覚の意味合いも多く含まれており、訳語として「触覚」とすべきかどうかは迷う所です。本書においては訳語によるイメージの誤解を最小限にする為、敢えて「フィーリング」とカタカナ表記にしてあります。なお、今後出て来る本文(065)にも触感とフィーリングの違いについても言及されているところです。
 さて、各自の中でこれら各々の感覚は他とは独立して反応していることは、互いの立場等の関連性を見ようとすることとは正反対であり、家庭の中にあっても各自が勝手に意見を主張し合う場合と似ています。家の主人である私達がどのようにしてこれらを調整して行くかは、まさに修身斉家治国平天下の最初の段階と言えるのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第2章-段落060

060 I realize this is throwing a bombshell in the face of age-old theory, yet the idea that physical man is a four-sense being can be logically demonstrated.
060 私にはこれが大昔からの理論目掛けて爆弾を投げ付けるものであることは分っていますが、肉体としての人間は4つの感覚による存在であるとする見解は論理的に証明され得るのです。

【解説】
 人間の心を構成する感覚は4つであり、残りの一つであるフィーリングは印象を伝達するテレパシーの機能を有しているとする主張はこれまでにない内容でした。私達は既に「生命の科学」他のアダムスキー氏の著作から、人間は4つの窓を持つ部屋の中にいる者のようだと教えられて来ました。その窓が各々勝手な判断をしたり、視野を狭めれば、部屋の中の人間は外界を正しく理解することは出来ません。
 しかし、実際には私達にはフィーリングという本来備わった能力が秘められており、そのフィーリングの感受性を高めれば自ずと部屋の壁は取り払われ外界との一体感が広がるものと思われます。
 重要な点は、この潜在能力を秘めた感覚が、既に私達一人一人に備わっていることであり、従来の4感を成長させながらも、生活のかじ取りをこのフィーリングに従ったものに転換することが必要だということです。そうする中で、やって来る印象に的確に従うことは、私達の中に本書で言う「警戒の状態」を作り上げることにもなり、宇宙意識に心を向けることにもなる訳です。次回から第3章に入ります。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第2章-段落059

059 In other words, feeling is the creative force within all forms. So the definition of telepathy as being a sixth sense, was entirely wrong. Man is not a five-sense being . . . but a four! The fifth sense, or feeling element, through which telepathy actually works, is not a sense; but an intelligent force giving all manifestation conscious alertness.
059 言い換えれば、フィーリングとは全ての形有るものの内側にある創造的な力なのです。ですから、第6感であるとするテレパシーの定義は完全に誤っていたのです。人は5感の存在ではありません。そうではなく、4感の存在です。第5の感覚、即ちテレパシーがそれを通じて実際に作用するフィーリングの要素は感覚の一つではなく、全ての創造物に意識的警戒状態をもたらす英知の力の一つなのです。

【解説】
 ここで大事なことはフィーリング(感じ)自体が創造する力を有していることだと思います。人間の視覚、聴覚、味覚、嗅覚という4感が現象(結果)から物事を捉えるのに対して、フィーリング(感じ)は現象を創り出している意識の世界に由来するからです。そのフィーリングという印象の受信は、それがそのまま創造主にも直結する経路でもあるのです。
 おそらく、フィーリングが伝達、発信される世界とは、空間の距離に関わり無く、一体化できるもので、このフィーリングを通じて人は万物と一体になれるものと思われますし、物事を創造、実現するパワーを得ることになります。それ程に重要なのがこれらの印象への感受力であり、私達は本書を通じて自分が学ぶべきテレパシーなるものの本質を十分理解しておく必要があります

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第2章-段落058

058 Pursuing this train of thought, I made a vital discovery. If one asks an expectant mother whether she can foretell when the little form within her is about to turn, she will answer, "No " She cannot direct the movement of the baby, and the knowledge it has turned comes to her as an alertness, or feeling, after the action has taken place. Therefore, it is the intelligent force which transmits the information to the mother through her sense we call feeling.
058 この一連の思考を追って行く中で私はきわめて重要な発見をしました。もし人が妊婦に彼女の体内の小さな胎児が何時向きを変えるか予告することが出来るかを聞いても、妊婦は「いいえ」と答えるだろうと言うことです。彼女は赤ちゃんの動きを指図することは出来ませんし、胎児が向きを変えたとする知見は一つの警戒、或いは感じとして、その行動が起ってから彼女にやって来るのです。従って母親に私達がフィーリングと呼ぶ彼女の感覚を通じて情報を伝えるのはその英知ある力と言うことになります。


【解説】
 自分の身体の中で起っている変化について、心は容易には知覚出来ません。実際には人体を維持するため、大規模かつ活発な諸活動が日夜続けられていることに対し、私達の心はあまりにも鈍感だということです。ましてガン細胞の増殖等、身体の存続にとって由々しい事態になった時、身体は一斉にそれへの対抗措置を図るものと思われます。本来なら、最も近い自身の体内から発せられる自身の生命にかかわる情報に対して私達はもっと鋭敏になっておく必要があります。
 実は各細胞は宇宙英知の指導を受けて行動するほかに体内の維持の為、必要な情報をやり取りしているものと思われますが、その際には互いに印象という言語を用いているものと思われます。そうなれば身体には約60兆もの細胞から様々な情報が飛び交っていることにより、大変にぎやかな状況ということになります。それら活発な生命活動の中にあって、身体の主人(あるじ)である心だけが結果の世界の音響が聞こえず、目に見える変化が未だ現れていないという理由だけで独り宇宙の活動から乖離した心境に留まっているのです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第2章-段落057

057 My earthly parents had merely served as a channel for the birth of my physical form. But this Force in Cosmic Intelligence had formulated the plan and directed the building of my body. So it is with all expectant parents. The mother's body furnishes the necessary materials for this Master Builder, yet at no time does she control the miracle of creation taking place within her.
057 私の地上の両親は単に私の肉体の誕生の為の経路を務めたに過ぎませんでした。この宇宙的英知の中の力がそのプランを組み立て、私の肉体を作り上げることを指揮したのです。それはこれから両親となる全ての者についても同様です。母親の肉体はこの棟梁の為に必要な材料を供給しますが、彼女が自身の中で起っている創造の奇跡を統制することは決してありません。


【解説】
 もちろん、ここでは父母への孝養、家族への愛情を否定しているものではありません。アダムスキー氏自身も清貧なカトリック教徒の家に生まれたと伝えられています。そのアダムスキー氏が宇宙兄妹達と交流する中で得た、人間の本質的な視点として各個人の生きる目的を突き詰めた結果、得た結論が、各自と宇宙英知との関係が最重要であり、両親は各自の誕生の経路というその大きな任務を果たしたに過ぎないと言うことなのです。
 また、妊娠中の女性の体内で起る胎児の成長のドラマは母体の協力があってのことですが、肝心の母親の心はそれについて知識は皆無だと指摘しています。体内で起っている大きな変化、次世代を産み出す重要な役割を果たそうとしているにもかかわらず、心は理解力の無い為に知覚するものが少ないということです。他方、肉体は必要なことを全て知っていることになりますが、それこそが各細胞や器官が宇宙英知から絶えず指導を受けていることに他なりません。
 自然界の動植物を見れば、皆同様に次世代をこの世界に残すべく、ある意味、必死で各々の生涯を送っています。産卵の為に故郷の川に還って来る鮭、子育ての為、遠く南半球から渡って来る渡り鳥、果ては草むらで鳴くコオロギや狩りをするハチ等、皆各々が次世代の生長にとって必要な環境や食料の確保に生涯を捧げています。
 こう考える時、冒頭の父母は生まれて来る為の経路に過ぎないといる本来の意味は、父母にとっては創造主のお働きになる場所を提供し、子供の誕生に奉仕するという意味が含まれていることが分かります。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第2章-段落056

056 The task confronting me now was the shedding of this false conception, and a recognition of the existence of the underlying Cosmic Cause. So I sought a better understanding of my mind and my body; how they operate and their purpose for being. This line of investigation led me to the realization that it was Cosmic Intelligence coupled with a force, that was the creator of my being.
056 今や私に立ち向かう任務は内在する宇宙的因の存在に対する誤った観念と認識を取り去ることでした。そこで私は自分の心と身体についてのより良い理解、即ち、どのようにしてそれらが働くかやそれらの存在目的について探し求めました。この探究の筋道は私を私の存在の創造主は力を伴った宇宙的英知であるとの実感に導いたのです。


【解説】
 大変もったいない話ではありますが、誤解や勘違いによって一生を棒に振るようなこともあり得るのです。私達は心に支配されて生活していますので、その心がかたくなになってしまうと、その思い込んだ世界から容易に抜け出ることが出来ません。これに対し、本来の各自は各々何らかの目的を委ねられてこの世に生まれて来ました。その目的を十分に果たせれば良いのですが、未だ果たせないでいる場合は、再度、この生まれた原点に立ち返って課題を整理することをお勧めします。
 私達が毎日生きていることについては、無数の体内の細胞や器官が昼夜を分たず働き続け、身体を維持する活発な活動が続けられています。その努力に対して、その身体を預かる人間が果たすべき仕事を為すことは当たり前ということでしょう。しかし、このような自らの本源に立ち返って人生を見詰め直すことは習慣の中に埋もれていては容易ではありません。外界への関心に振り回されている心を落ち着かせる必要があるからです。
 毎日の心掛けがその人の人生を作り上げて行くことは間違いありません。私見ですが、人間の老化は急激に進行するように思います。つまり、人体のこのような維持活動の働きが、身体に加わるストレス等のマイナス影響に対していくら抵抗して体内を維持して行こうとしても、やがて細胞達も力つきて行き、最後はどうしようもなくなって生命活動が急速に終焉を迎えるように思います。そういう意味では心が身体の支配者となっている訳ですが、限られた一生の間に、その心のあり方を本来の姿に戻すことは、各自にとって大きな課題でもあります。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第2章-段落055

055 I knew that scientifically the human body was a marvel of construction beyond the duplication of man. Just one small function of the body, which scientists do not fully understand, is the working of the "chemical laboratories" within us which daily extract and distribute the essence of the foods we eat. This alone is proof that the natural actions of the body obey the laws of Cosmic Intelligence. It must then follow that the reasoning mind has become so immersed in the material world of effect, it has temporarily lost sight of its origin. Man did indeed "hide his light under a bushel."

055 私は科学的に人体は人間というものの複製以上の驚異の建造物だということを知っています。人体のわずか些細な機能であり、科学者達が完全には理解していないこととして、私達の中にあって私達が食べる食物のエッセンスを毎日抽出し、分配している「化学試験室」があります。この一つをとっても人体の自然な行動は宇宙英知の法則に従っている証拠になります。そのことはまた、論じがちな心が結果の物質的な世界に余りにも夢中になっている為、心は一時的にその元の由来についての視野を失っていることに繋がっているに違いありません。人はまさしく「ともした明かりを升の下に置いてしまった」のです。


【解説】
 身体の諸活動は明らかに宇宙の法則に従って、日々刻々の身体維持に必要な働きを行っています。一方では、私達の心はそのことを理解できず、見失っているという状況が続いています。
 本文ではその心をreasoning mindと表現しています。この場合reasoningとは辞書に「論議しがち」「推理しがち」等の訳語があるように、ここでは「目の前の様々な現象(結果)の一つ一つに目を奪われ、振り回されて、背後にある肝心な法則の理解には到達できない論議好きな状態」を指すものと考えます。
 もちろん、自分の身体は誰のものでもなく、各自の責任において維持されなければなりません。そしてその身体は誰の為に維持されているかを考えれば、私達は大変恵まれた環境に生まれていることが分かります。その創造主からの恵みを心(自我)はまずは感謝し、できれば返礼することが望まれます。他者に対する奉仕がそれです。
 結果の世界である外部や外面よりは内部、内面への関心こそ私達には必要だということでしょう。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第2章-段落054

054 My analysis continued. Since my human form had been brought into being by this Cosmic Intelligence, I, along with other forms of nature, must have inherited its laws and benefits, as well as its intelligence. Then why did I not have ready access to these birthrights?
054 私の分析は続きました。私の人間としての身体は宇宙英知によってもたらされたものであるからには、私も他の自然界の形有るもの達と同様、その知性と共にその諸法則や恩恵を受け継いでいる筈です。それでは何故、私はこれらの生来の権利を直ぐに入手出来なかったのでしょうか?


【解説】
 全て必要なものが与えられているにもかかわらず、私達は未だ十分な恩恵を享受してはいません。その結果、本来備わっている自らの幸せに気付こうとしないまま、何処か遠くに理想郷を求めてさまよい歩く方を選びがちです。家を飛び出した放蕩息子の例です。しかし、多くの場合、外部に理想を求めても結局はその本人の問題に帰着する例も多いものと思われます。つまり、同じ光景、同じ環境を経験してもその受け止め方は人によって異なるからです。かつて、どれ程多くの人がイエスに直接会ったことでしょう。本来であれば、12使徒達以外にも多くの従者が出るべきですが、実際にイエスが生きていた当時、その人物の価値に気付いた人は少なかったものと思われます。(これはアダムスキー氏についても言えることで、晩年、身近に居て氏を支えていた人物は限られた人々であり、最後まで氏はひとりで自分の任務を果たしていました。)
 問題は、与えられた恩恵に気付かないことにありますが、気付く為にはどのような手法があるか、つくづく考えていたところ、ウェイン・ダイヤー(Wayne Dyer)は、著書"The Power of Intention"の中で以下の説明をしていることに気付きました。"The way to establish a relation with Spirit and access the power of this creating principle is to continuously contemplate yourself as being surrounded by the conditions you wish to produce." (聖霊との関係を確保し、この創造的原理の力を入手する方法は、貴方自身を貴方が作り出したいと望む状況に既に囲まれているように絶えず思うことです。)
 前項(053)で述べられていたbecoming better acquainted with himself(自分自身を熟知するようになること)と類似した気持の持ち方だと考えています。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第2章-段落053

053 This revelation made it apparent that all was contained within man, and the answer lay in his becoming better acquainted with himself. I recalled the well-known adage, "Man know thyself, and all things shall be revealed unto you." Until then I, too, had parroted this profound truth, unaware of the immensity of its depths. But now I realized that Nature held the key to the Cosmic universal language; silent, yet everywhere present; and it was here in the manifested world that I could find the understanding for which I searched.
053 この啓示は全てが人間の内側に含まれていること、そして答えは自分自身を熟知するようになることにあることを明らかにしました。私は良く知られている格言、「汝自身を知れば全ては明らかにされるだろう」を思い出しました。その時までは私もまた、この深みのある真理をオウム返しに繰り返すだけで、その深遠さに気付かなかったのです。しかし、今や私は自然が大宇宙普遍の言語の鍵を持っていることが分かりました。無言でかつ何処にでも存在します。そして、私が探し求めて来た理解を見出せたのはこの創造された世界の中のこの場所であったのです。


【解説】
 「自然の中に真理が、自分の中に宇宙がある」ということです。前項(052)で述べられているように対象物を観察する際、それを全体との関連で把握しようとする姿勢が重要です。いわゆる木を見て森を見ずではなく、宇宙にまで続く全体との関連において、その意義を理解するということです。こうした相関性、相対性の理解が私達には不足しているということです。
 また、私達自身の中に全ての答えがあるということは、各自がもはや何処か外部に目標を追い求める必要は無いことを意味します。自らの中に自我が見出せていない多くの宝物(才能や知識)も埋もれているということでもあり、本項にあるようにbecoming better acquainted with himself(自分自身を熟知するようになること)で、より深い真理が体得できるということです。自分を良く知るには、湧き起る自らの想念を観察することから、生命の源である各細胞との会話を試みる等、様々な応用が考えられます。
 自分の中に真理を見い出す事例は数多くありますが、自分の中に全てがあると言っても、自我(エゴ)を増長させるのでは意義が正反対になってしまいます。「おのれが尊いのではない。おのれをおのれたらしめるものが、おのれのなかにあるから尊いのである。だからこのおのれたらしめるものを見い出さなくてはならぬ。自覚しなくてはならぬ。そのことなくして人は人としてのねうちがあるとは言えない。花を花たらしめるもの、光を光たらしめるもの、香りを香りたらしめるもの、その存在をはっきり知ることが大切である。」とは坂村真民の言葉です。(「坂村真民一日一言 -人生の詩、一念の言葉-」 致知出版社 平成18年12月)
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