ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落072

072 Man is a miniature universe; so let us analyze him in that light.
072 人間は小さな宇宙ですので、その観点から人間を分析して見ましょう。


【解説】
 「人は小宇宙である」と類似したことは古来から言い伝えられて来たように思います。アダムスキー氏も度々引用する「汝自身を知れ」の中にも同様な意味合いが含まれています。その意味する所は、各自の中には既にあらゆる物、全ての要素が含まれていること、また、それらが各自の肉体に留まらず、大宇宙と実は融合している存在であるということでしょう。
 人体には60兆個もの細胞があるとされています。それらがテレパシーによって互いに意思疎通し、全体としての調和を保ち、人体、或いは自然界というより大きな目的を果たす為、互いに奉仕している世界は一つの宇宙と言うことができます。
 また、植物等、自ら動くことがなく、割り当てられた場所で生きるものや犬や猫のように限られた地域で生涯を送るもの達も、皆、不自由な境遇を憂うことなく、毎日を喜びに満ちて過ごしている背景には、彼らは宇宙に繋がる意識を持ち、絶えず新鮮で楽しい印象類を感受できているからに外なりません。自己の肉体の微小な構成要素と大宇宙の両面から有意義な印象を受けている為に、他に必要とするものが無い状況であると思われます。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落071

071 These unfortunate individuals, rather than being envied, should be pitied. For the little sentinels who stand guard constantly throughout the body to flash warnings to the brain - nature's switchboard - of any unusual condition, are our staunch friends. Let us say we run a splinter in our hand. These sentinels, or nerves, immediately set up a clamor, informing the brain that a foreign substance is exerting pressure upon the surrounding tissue. We then relieve the pressure by removing the splinter and the wound will heal. But if the brain had not received this information because the nerves were not functioning properly, we would have been unaware of the splinter until the body, in trying to expel it, had caused the area to fester. But it is a physical condition; and lack of this nerve feeling has no more to do with a person's telepathic receptivity than the color of his eyes.
071 これら不遇な人達はうらやましがられるよりは、哀れまれるべきです。何故なら、どのような異常時であれ、自然界の交換機のように脳に警報を発するべく、体中を常に警備に立っているその小さな歩哨達は私達の信頼する友人達であるからです。私達が手に棘を刺したとしましょう。これらの歩哨達、神経はすぐさま大声を発し、脳に異物が周囲の細胞組織に圧力を加えていることを伝達します。私達は次にその棘を取り除き、その傷はやがて癒えます。しかし、脳が神経が適切に機能していなかった為にその情報を受け取らなかった場合には、私達は肉体がそれを追い出そうとしてその部分を化膿させようとするまでは、その棘に気付かなかったことでしょう。しかし、それは肉体の状態であり、この神経によるフィーリングの欠如は両目の色以上に各自のテレパシー感受力に関係するものではありません。


【解説】
 肉体の神経ネットワークを司る各神経細胞は私達にとって信頼できる存在であり、彼らのお蔭で肉体が守られています。しかし、それらいわゆる触感要素の有無自体は各自のテレパシー能力とは関係が無いと言っています。つまり、フィーリングと触感とは同義語と言ってはいても、テレパシーを司るフィーリングは、これら肉体の感覚とは基本的に異なるものだと言うことでしょう。ちなみに目の色とは虹彩の中のメラニン色素の量の違いで起るとされています。一般に青い目は褐色の目と比較して極端にメラニン色素が少ない為に形成されるとされていますが、目としての役割にはいささかも違いがありません。
 テレパシーにはついては、同乗記の中で金星から来た母船で以下の説明がアダムスキー氏に為されています。

 「しかし万人にはっきり伝えていただきたいことが一つあります。今までここで話してきたテレパシーによるコンタクトは、地球人の言っている”心霊”や”降霊術”的なものとは全然違うということです。テレパシーは一つの心から他の心への直接のメッセージなのです。いわゆる心霊現象については別な機会に説明しましょう。」
 「このメンタル・テレパシーを私たちは送信者と受信者という二点間の”意識が一体化した状態”と呼んでいます。これは私たちの各惑星では最も普通に用いられている伝達法で、特に金星ではそうです。私たちの惑星では個人から個人へ、惑星から宇宙船へ-それがどこにいようとも-、そして惑星から惑星へのメッセージを伝えることができます。前にも申しましたように-これは特にはっきり記憶していただきたいのですが-地球人の言う空間または”距離”は全然障害にはなりません」(「宇宙からの訪問者」、訳者 久保田八郎、ユニバース出版社、昭和56年発行、p.164-p.165)

 つまり、両者の意識がつながることによって距離に係わり無く相互の想念が伝わるという訳です。他惑星人はテレパシー能力に秀でているとされています。言葉を発することなく相手の心の状況を理解できること、また遠く離れた友人にメッセージを伝えることは極めて日常的に行われているとされています。私達地球人がそのようなレベルに達する為には、この意識を拡大させ、印象を受け止めるという私達の受信器の感度を高める必要があります。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落070

070 Not in the least. This is a purely physical condition caused by the malfunctioning of the nervous system; and has no more bearing upon the operation of the Life Force, or true feeling, than if the individual is born without a finger. The senses of sight, hearing, taste and smell, work normally in these people. The degree to which anyone registers pain is dependent upon the nervous system; the more sensitive the system, the more intense the pain felt.
070 全然そのようなことはありません。これは神経系統の機能不全によって引き起こされた純粋な肉体の状況であり、個人が指1本欠けて生まれたとしても生命力、即ち真実のフィーリングの作用には何ら問題が無いのと同様です。視覚や聴覚、味覚や嗅覚はこれらの人々の中で正常に働いています。人が痛みを表わす程度は神経系統に依存しています。その系統が高感度であればある程、その痛みは強烈に感じるのです。


【解説】
 仮に触感が無くなったとしても、四感の動作には影響を及ぼさないとしています。それは触感を司る身体の神経系統とは別に、各感覚器官に固有の神経系統が各々備わっていることを意味するものと考えられます。しかし、それでもフィーリングの要素がこれら諸感覚はもとより、意識の深層部分で働いていることが大事な所だと思っています。
 例えば、目を閉じて無音無味無臭の空間に端座する時、私達は周囲に自分の意識を広げ、宇宙からやって来る印象類をキャッチしようとしますが、その際に行っている動作は、丁度、カタツムリがその触角を様々な方向に傾けながら、必要な情勢判断を行い、自分の進行方向を定めることに似ています。私達は触覚(フィーリング)を使って自分の進む方向を絶えず探りながら、必要な情報を得ているように思います。即ち、生きて行く上でフィーリングが大切な訳で、早期に事態を予測することが出来れば(印象に従った生活を送れれば)、効率的な人生を送れることになります。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落069

069 The question may arise: How do you explain those rare individuals who are born without feeling? They suffer no bodily pain, even from severe injuries. Will this impair their telepathic ability?
069 疑問が生じるかも知れません。フィーリングを生まれながらにして持たない稀な人々についてはどのように説明するのかと。彼らは例えひどい怪我をしても肉体の痛みに煩わされません。このことは彼らのテレパシー能力を損なうことになるのではないでしょうか?


【解説】
 仮に触感(肉体の感覚)が無い場合は、テレパシー能力は損なわれるのかという問いかけです。結論は後続(070)に譲りますが、痛みを感じないことは一見、良いことのように思いがちですが、実は大変、危険なことです。例えば、歯科医で麻酔後は、しばらくは食物を摂ることを禁じられます。それは痛みの感覚が無いと、食べ物をそしゃくするという日常的な行為でも自らを傷つける危険性が高いからです。つまり、それほど、いわゆる触感は生活において大切な身体に対する警戒状態を受け持っている訳です。
 その意外に大きな役割を持つ触感ですから、それが無くなれば、当然テレパシーに通じるフィーリングも損なわれると考えるのが普通ですが、その実態はどうでしょうか。答えは次項に述べられています。

 さて、今回はここで、少し余談に入ります。今から3年前、2006年の頃のお話です。私が父を連れて台湾へ観光旅行をした時のことです。滞在した花蓮市のホテルの部屋で朝、何気なくテレビを見たら尼寺の朝の修業風景が放映されていました。一人の尼僧が修業の尼僧達に綿々と講義をしており、尼僧達はその講話を一生懸命聞こうとしている状況が映し出されていました。画面では漢字の字幕が出ていた為、ある程度の意味を把握することができました。その後、番組はその団体が行っている様々な社会慈善事業を紹介しており、哲学宗教面における大陸との違いを思い知りました。
 また、台湾の花蓮空港では多くのチベット仏教僧を見かける等、ある意味、花蓮は仏教の聖地であるのかも知れません。実はその後、そのことについては、調べる余裕もなく、旅の行程が進み、最後の宿泊先である台北のホテルに着くことになりました。そのホテルの部屋の机には聖書の外に「静思語」と題する1册の本がありました。内容は仏教語録のようなもので、釈證厳(Master Cheng Yen)という尼僧が著者であり、中国語の語録に英語、日本語、スペイン語の訳語がついているものでした。その本の解説からその著者がテレビで見た花蓮で活動していた団体を主催していることが分かりました。当時の私としてはこの本を大変気に入った為、ホテルの支配人にその本を1册分けてもらい、日本に持ち帰りました。その後の調べで、その慈善団体(慈済Tzu Chi)は仏教をベースとして台湾国内はもとより広く、海外でも活動し、1991年には団体を主催する釈證厳さんはフィリピンのマグサイサイ賞を受賞していることが分かりました。様々な場所、様々な分野で人々を導く活動が行われているということです。
 ちなみに「静思語」の一節(典蔵版p.202-203)を参考までにご紹介しましょう。
 ”家庭不能只追求豊富的物質生活
  應著重心心霊溝通
  使親子、夫婦間和諧、圓満”
"Do not just seek
a rich material life for your family.
It is more important for parent and child,
and husband and wife to communicate and
nurture harmonious and close relationships."
「家庭生活において、ただ物質的な豊かさを
 追求するだけではならない。
 むしろ「心の通じ合い」に重きをおいて、
 親子、夫婦の仲が円満にいくよう心
 かけるべきである。」
 "No persigas solamente una vida
de riquezas materiales para tu familia.
Es ma's importante que haya comunicacio'n
entre padres e hijos,
asi como entre esposo y esposa
y que mantengan relaciones
armoniosas y cercanas."
 以上、長々と紹介しましたが、内容はテレパシーと無縁ではありません。原文にある「心霊溝通」の意味は単にコミュニケーションという意味の外に、テレパシーに重きを置くとも読み取れます。つまりは、物質的な豊かさを追求するだけではダメで、もっと互いの心が通じ合える、即ち互いに相手の心が分かるようなテレパシックな関係になることを求めているように私には思えるのです。そのようなテレパシーの効用として、互いに誤解が無く、人間関係も円滑になるということを意味していると解釈できます。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落068

068 Inasmuch as each of the four senses possesses this element of feeling, which is an intelligent force having the ability to react in a conscious state to expressions of itself, or in other words, the element that registers each contact of existing vibration, we must admit that telepathy is certainly not outside the normal operation of the recognized sense organs. For it is through the feeling channel, regardless of the avenue of reception, that thought becomes known.
068 この四つの感覚が意識的状態の中でそれ自身を表現する為に反応する能力、言い換えれば存在する振動との接触を毎回記録する要素を所持しているからには、私達はテレパシーは確かにこれまで認識されている感覚器官の通常の作用の外にあるものではないことを認めねばなりません。何故なら、感受の経路に係わらず、想念が知られるのはそのフィーリングのチャンネルを通じてであるからです。


【解説】
 私達の四感は基本的部分でフィーリングの要素が関与していることは、今まで述べられた通りです。本項では更に、テレパシー、即ち想念を感知する能力はこれらフィーリングを通じて行われることから、各四感の通常の認知作用の中に、テレパシーも含まれると言及しているのです。
 つまりは、目で対象物を見る時、その画像や網膜によって読み取られますが、合せてその視覚というチャンネルを通じて、視覚の中のフィーリングの要素部分では、想念や印象を同時に感知することが本来出来るという訳です。これは、後年執筆された「生命の科学」で言う「原因と結果を同時に見る」ことと同じ意味を持っているように思います。つまり、私達は目で結果を見るのですが、その視覚に関連するフィーリングの要素を活発化させ、発達させれば合せて「印象」も同時に感知することが出来ると言うことです。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落067

067 Feeling and touch being practically synonymous, I will continue to use the word feeling to denote the so-called fifth sense.
067 フィーリングと触感は実際上、同義語であることから、私はその言葉(訳注:フィーリング)を、いわゆる第5感を象徴する為に用い続けることとします。

【解説】
 前述(066)のようにフィーリングと触感が各々対象物或いは対象となる情報と接触する際の各段階における反応過程を表現したものと言えることから、ここでは両者は同義語だと述べられています。
 ここで大切なことは視覚、聴覚、味覚、嗅覚の4感はその外界との接触にあたっては必ず初期の段階でtouch(触感)的な要素があるということで、その接触的な過程が無ければ何事も始まらないということです。そういう意味では、このフィーリングは各感覚の基礎的部分を支えていることになります。しかし、その一方で既存の4感を超える潜在力を持っており、テレパシー能力はこのフィーリングが機能することであると述べられて来ました。日常的に各自のフィーリングを活用しているか、活用したいと努力しているかが、何よりも重要な所です。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落066

066 We can only know motion through the law of comparison, which is actually the law of contact, or the relationship between one phase of expression and another. When we touch an object with our fingers, we receive an impression of that object because of the pressure created through the contact of a lesser with a greater vibration. Likewise, we receive visual impressions or auditory impressions through the contact of light or sound vibrations with the retina of the eye or the ear drum. We are made aware of atmospheric conditions and temperature changes through the contact of atmospheric cells with the cells of our body. All of this proves that touch is merely the nerve reaction to contact.
066 私達は比較の法則を通じてのみ運動を知覚することが出来ますが、それは実際にはある表現の姿と他との接触の法則、あるいは関連性であるのです。私達が指である対象物と触れる時、より低次な振動がより高次な振動と触れることによってもたらされる圧力が原因となってその対象物の印象を感受します。同様に私達は光あるいは音の振動との目の網膜や耳の鼓膜との接触を通じて視覚の印象や聴覚の印象を受け取るのです。私達は大気の細胞と私達の肉体の細胞との接触を通じて大気の状態や温度の変化を知るようになります。これらの事柄全てが触感は接触に対する単なる神経反応であることを物語っているのです。


【解説】
 私達が通常、生きて行く上で感知する周辺との係わりあいの中で、最初に身体に接する際の状況が、ここで説明されています。運動(動き)を感知するのは変化が認知されるからであることは「相対性理論」にも遡る内容を示唆するものですし、圧力をより高い振動を感知する為としているのは、分子運動論にも相通じる内容となっています。
 映像や音声が目や耳の各々の器官に接する際、最初に作用するのが、このような触感(touch)と呼ぶ神経反応であり、それらは本書で言うfeelingの極く最初の段階に位置するものであることが分かります。
 なお、原文中に大気のcellとあるのは、広大な大気層の中で人体に触れるのは極く小さな領域の空気であり、それらを人体における細胞に見立てた表現となっており、訳文としては、そのまま「細胞」と表現しています。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落065

065 It has been brought to my attention by many individuals that the fifth sense, as it is generally understood, is not the sense of feeling, but that of touch. This does not change the theory, as each of the four senses possesses this faculty of feeling, or element of conscious-contact, without which there would be no awareness. Touch is a bodily nerve reaction, while feeling is the cardinal Life Force. It is through the conscious-contact of this Life Force that sensation is produced.
065 多くの個人が、その第5感覚は一般に理解されているようにフィーリングの感覚ではなく、触感の感覚ではないかということを私に知らせて来ています。これはその理論を変えるものではありません。何故ならその4つの感覚もフィーリング、即ち意識的接触に関する要素の機能を有しており、それ無しには如何なる感知能力もないことになるだろうからです。触感は肉体の神経反応である一方、フィーリングは基本的なる生命力なのです。感動が作り出されるのはこの生命力の意識的接触を通してです。


【解説】
 繰り返しになりますが、通常、私達は第5感を「触覚」と呼んで来ました。これは本文でも言われているように単なる肉体の神経反応である「触感」をそう呼んでいるに過ぎません。その奥にあるフィーリング機能こそが、この第5感の本来の姿であり、このフィーリングの作用により意識的接触が起こることによって"sensation"(「感動」)と称するような「反応」が起る訳です。このsensationなるものについて、どのような内容であるかの説明はありませんが、フィーリングがそもそも感知するということは、このsensationと表現されているような心への働きかけだとイメージできます。
 大事なことは、これらsensationが心によって認識されることであり、フィーリングを拡大させるということは、心が自分のフィーリング能力の潜在性を信じることから始まるように思います。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落064

064 It is through this so-called fifth sense that telepathy works; so if we continue to cling to the idea of feeling as a bodily sense, the definition of telepathy is incorrect, and science has been sidetracked. The act of thought-transference, clairvoyance, premonition, or whatever term you choose to use for invisible perception, is a perfectly normal function of the feeling element expressing through the brain, with the cooperation of the mind.
064 テレパシーが働くのは、このいわゆる第5感を通じてです。ですから、私達がフィーリングの概念を一つの肉体内の感覚であるとする概念に固執し続けるなら、テレパシーの定義は間違ったものになり、科学は横道にそらされていることになります。想念の転移、透視、予感あるいは目に見えない知覚に対して貴方がどのような名前を選ぶにしても、それが心の協力の元、脳を通じて表現されるフィーリングの要素による全くの通常の機能なのです。

【解説】
 ここではフィーリング(第5感)がテレパシー作用を司っていることを明確に述べています。中でもフィーリングが従来、私達が決めつけていた肉体上の触覚に留まるようなものでなく、更に広く印象類を感受し、距離にかかわりなく移動する知覚チャンネルというような機能を果たすものであるという点が重要です。
 また、詳しくは解説されておりませんが、このフィーリングの感受も私達自身の心の協力が必要であり、脳を通じて表現されることもポイントになるでしょう。つまりは、その感覚を発達させる為には、私達自身の心が第5感であるフィーリングの持つ潜在力を認め、それに協力する姿勢が重要となる訳です。

ジョージ・アダムスキー「テレパシー」第1部第3章-段落063

063 Let us now deprive man of one of his four senses, such as sight. Does this affect the life force in the body? Not at all! We can go further and deprive him of two, three, or even all four; yet he will still be a conscious, living being. Though the actual organs of sense are not functioning, he is conscious of knowing joy or sorrow, peace or pain, and he is able to receive mental impressions and visualize them perfectly.
063 では人からその4つの感覚の内の一つ、例えば視覚を取り去って見ましょう。これは肉体内にある生命力に影響を与えるでしょうか? 全く有りません。次に進んでその者から二つ、三つそして四つ全部を取り去ることも出来ますが、それでもその者は意識ある生きた存在であり続けることでしょう。実際の諸感覚器官は機能していないにも拘わらず、その者は喜びや平安、或いは苦痛を知る意識を有していますし、心的印象を感受し、それらを完全に映像化することが出来ます。


【解説】
 私達は日常的には、外界との対応にもっぱら視覚、聴覚、味覚、そして嗅覚の四感を使っていますが、それらが仮に無くなっても私達自身の生命体は引き続き生きて行くことが出来ます。確かに失明したら、或いは中途失聴者になったら、その後の生活が大変不便なものになることは間違いありません。しかし、呼吸をはじめ、食物の消化吸収及び排泄等、身体維持に関する重要な部分は、元々これら感覚や自我の意志とは離れた所で行われているのです。各細胞は真っ暗な場所で、音にはよらずに相互に意志疎通を行っているのです。
 こう考えると、これら4つの感覚は人間の表層を取扱っているに過ぎないことが分かりますし、私達はこれら表層の感覚を観察して、誤った反応、勝手な意見をチェックする必要があります。表層の結果に一喜一憂するのではなく、物事の本質、深層にこそ関心を向けなければなりません。そこに第5の基本的感覚であるフィーリングの役割が現れて来るものと思われます。
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