ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第2課-段落052

052 And oftimes the mind takes the stand of least resistance, a state of inertia, and does nothing. It tries to escape its responsibility instead of having the determination to learn by correction. It has been said that God helps those who help themselves. So the individual must do something in order to correct the undesired results and have the rewards hoped for.
052 そして、しばしば心は最小の抵抗、慣性状態をとり、何もしなくなります。心は修正によって学ぼうと決心する代わりにその責任を逃れようとします。しかし、神は自ら助ける者を助けると言われてきました。ですから、個人は不本意な結末を修正し、望んでいた報酬を得る為には何かを成さねばなりません。


【解説】
 よく経験することですが、問題が山積して解決方法が分からなくなると人間、眠気が襲うものです。これについては私自身、多くの「体験」があります。一般的にはくよくよせずに、一晩寝て考えようと肯定的に受取られています。それはそれで、当面の対処術としては賢明なのかも知れません。また、問題が整理されずにいる段階では、とかく問題が実際よりも大きく感じられます。その点では、一旦は心の中を空にして整理する時間を創る為に、睡眠や気分転換を図るのも良いかと思われます。
 しかし、ここでは、そのような現象の背景には心が課題に対して前進する代わりに、立ち止まって何もしなくなる(出来なくなる)傾向があると指摘しているのです。慣性の法則というのがありますが、何もしないのが一番労力を使わずに済む訳で、心はどうして良いか分からなくなると、そのまま、じっとして時間が解決してくれることを望みます。しかし残念ながら、そのままでは過ちは永久に修正されず、やがては問題を大きくしてしまうことに繋がるものです。
 実際には大きな問題にぶつかった時、私達の心は何もしなくなりますが、それはそれで仕方が無いことです。私の体験からすれば、その時は休息をとった方が良いと思われます。ポイントは、本文に指摘されているように、「責任逃れ」をしないことです。急ぐばかりが、解決につながるものでもありません。自身の責任において着実に問題に立ち向かって行く勇気と根気が必要なのです。絶えず謙虚さを失わず、他者から学ぶ率直さがあれば、問題解決のハードルも低くなるように思うからです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第2課-段落051

051 In time it must retract these opinions if it is to have a pleasant existence. All of the troubles in the world have been so created. And when they become too great, people decide to place them in The Hands of God, which is the All Inclusive Consciousness that created all things with a purpose. Each person will hope that this Great Intelligence will correct the situation. But when the correction is shown in many cases, it is not accepted for it is not understood by the mind which made the mistake in the first place.
051 もし快適な存在を得るのであれば、いずれはこれらの意見を引っ込めなければなりません。世の中のトラブルの全てはそのようにして造り上げられて来ました。そして、それらトラブルが大きくなりすぎると、人々はそれらを万物をひとつの目的で創造した全てを包括する神の御手に委ねることを決意します。各個人はこの偉大な知性が状況を修正してくれることを望むのです。しかし、多くの場合、修正法が示されても、その修正案は受け入れられません。最初に過ちを犯した心によって理解されないからです。


【解説】
 感覚の意見が人間を支配し、トラブルを引き起こしている以上、私達は日々の生活時間の中で、これら感覚による好き嫌いの意見に気付くことが大切です。現実の場面では、これらは複雑、巧妙に織り込まれているため、世の中の問題となるようなものについては、単純に人間の感覚に問題があると指摘することは出来ないかも知れません。
 しかし、人生において最大のトラブルである病気については、どうでしょうか。病気には様々な原因がありますが、痛みや苦しみに対してどのように自らが振る舞うか等、まさに病気に際してとる態度は本人の内面を反映するものとなります。出来うるなら、たとえ死を迎える事態であっても心落ち着いて、穏やかに最期を迎えたいものです。
 通常、人間の心は問題が大きくなり、到底自力では解決できないと知った時、全能なる神に全てを委ね、祈ります。それはそれで、正しい道なのですが、祈るだけでは不十分だとしています。神(因なる創造主)から授けられる解決策(メッセージ)を受信し、理解することが最低限必要なのです。この為には、日頃から創造主から降り注がれている印象に耳を傾け、同調できる姿勢を維持しておくべきなのです。騒がしく浮ついた心を落ち着かせ、印象に敏感になるよう感覚を鋭敏に保つことです。そうすれば、解決策はすぐにも示されることでしょう。
 自然界の他の生物達は皆、その種の能力を発揮しています。地震や噴火、嵐のような自然災害も事前に察知していたという事例も多く聞くところです。ひとりひとり、当面している状況や問題は異なりますが、是非、心を落ち着かせて因なる創造主から贈られるアドバイスに気付く努力を続けて戴きたいと考えます。ラジオやテレビと同様、多くの放送局を通じて折角の有益な放送がいつも流れている中、既存の4感覚だけに選局を限定していたのでは、もったいない限りです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第2課-段落050

050 Jesus said a double minded man is unsuitable in all of his ways. And it is double minded when one sense likes something and the other does not. So Jesus urged man to be single minded in all of his ways. In other words unite all four senses for the purpose of service and not judgment. And this can only be done by conscious guidance. For in consciousness there are no likes or dislikes, it understands the purpose for all manifestation but the mind does not. All manifestations are conceived in consciousness and born into the world of effects. Just as the mind was conceived in consciousness and born as an effect of that conception. This is why it is so easy for the mind to guide itself by effects. And not having the knowledge and the reason for all of the effects it passes judgment in either likes or dislikes.
050 イエスは2心ある者は全ての道において不向きだと言いました。そしてひとつの感覚がある物を好み、他の感覚が好まない時、2心となるのです。それゆえ、イエスは人に全ての道において心一つになるように求めたのです。言い換えれば、裁きではなく、奉仕の目的の為に4つの感覚を統合せよということです。そしてこれは意識の導きによってのみ為され得るのです。何故なら、意識の中では好きとか嫌いとかが無く、全ての創造物(注:manifestation)にとっての目的を理解していますが、心はそうではないからです。全ての創造物は意識の中ではらまれ、結果の世界に生まれて来ます。丁度、心が意識の中ではらまれ、その結果として生まれるのと同様です。これが心が自分を結果によって導くことをそのように容易になる理由です。そして心は結果物の全てについての知識や理由を知らないが故に、好き嫌いの判定を下しているのです。

【解説】
 私達はこの世に生まれ落ちて以来、成長の過程にあります。創造物は因なる世界を経て、結果の世界において肉体を得ます。このようにして誕生した私達は、生まれた当初、その創造の過程における神の御手のぬくもりや輝きを放っています。しかし、やがてその者を司る「心」がその者を支配するようになります。心が未熟であり、知識や深遠な理由を知らないが故に、私達の心はその感覚を通じて得る情報を頼りに日々の生活を送るようになります。通常、私達の心はその存在の源となる因なる世界を通じて私達創造物を導いている意識の存在に気付くことがない為、結果の世界、目に見えるもの、耳から聞こえることを頼りに、自らを周囲の危険から守り、どん欲なまでの食欲によって自らを生き長らえさせようとします。
 しかし、この時、心の構成員の中で意見(判断)が分かれることがあります。それを「2心」と表現しているのです。いわゆる「迷い」の源がここにあるということでしょう。迷いは不完全な行動をもたらし、多くの場合、好ましい結果はもたらしません。迷いや躊躇なく行動する為には「心一つ」にならなければなりません。これは集団においても同様です。渡り鳥の群れの動きを見ればその見事さが分ります。皆、一斉に同じ方向に一糸乱れず飛び、外敵をかわす様はまるで一羽の鳥のように振る舞います。これらは固体における「2心」どころか、全体が文字通り、「心一つ」に一体化していると言えるものです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第2課-段落049

049 The most predominant individual is sight. The next predominant one is hearing. Then taste and smell. You may say here, what about touch? The touch could be called a nerve impulse reaction which is not a sense, but it gives a sense reaction to the mind. As each sense acts independent of the others, oftimes one will disagree with the others. i.e. The sight may perceive a beautiful flower but the aroma is very unpleasant to the sense of smell and it rejects it. So the unity of mind is already divided. The same is true with the other senses, for one may like something and another dislike it. And while this is taking place, as it has for ages, pain and an unpleasant existence is the result.
049 その内、最も支配的な者は視覚です。次ぎに支配的なのは聴覚です。次に味覚と嗅覚になります。あなたはここで、触覚についてはどうしたのかと言うかも知れません。触覚は感覚ではなく、一つの神経パルスの反応と呼ばれるようなものですが、心には感覚のような反応を起こさせるのです。各々の感覚が他と独立して行動する為に、時として一つの感覚が他と意見を相違することが起ります。即ち、視覚は美しい花を認識するでしょうが、その臭いが嗅覚にとっては大変不快であれば、嗅覚はそれを拒絶します。ですから、心の一体性は既に分断されているのです。他の感覚についても同様です。何故なら、ある感覚が何かを好ましく思っても、もう一方がそれを嫌うかも知れないからです。そしてこのことが起っている間、その結果として何世代にわたって、苦痛と不快が存在して来たのです。

【解説】
 私達の「心」なるものは視覚、聴覚、味覚それに嗅覚の4名の人物に分けられるのだとしています。言い換えれば人間の持つこれら4つの感覚が私達の「心」を構成しているというのです。更にこれらは互いに独立しているとしています。丁度、前節(047)では心を感光板に例えられていましたが、それらがCCDの場合は3原色の受光器でありましたが、心はこれら4種の各々独立した感覚から構成されているとしています。もちろん、これらの独立性は受光器(感覚)としては大変重要な要素であり、正しい色調を出す為には各々の受持ち波長に特化した機能が必要となります。心における4つの感覚についても視覚は視覚として人間に必要な情報を、聴覚は聴覚としての役割を果して行くことが必要です。
 本文ではその各々がもともと独自の判断(裁き)を行って来た為、4つの感覚の間で意見が対立することがあり、それが心の混乱をもたらし、ひいては長年月の間、人間を苦しめて来た元凶であると指摘しています。
 実際には私達の日々の生活の中で心がこれらの4つの感覚から出来上がっていることすら、現代の私達は静かに自らの心を見るゆとりは無いかも知れません。それほどに心自体も高度化し、大きな流れの中に流され行く毎日を送っているのです。しかし、ここで最低限言えることは、「美しい」-「醜い」、「美味しい」-「まずい」という分かりやすい分類の背景には、私達の視覚や味覚の反応が現れているということです。現代はこれら感覚にとって好ましいものを商品として販売し、利益を上げる風潮がありますが、そうした表面的な感覚ばかりを大切にする(感覚が喜ぶものを追い求める)と、物事の本質を忘れる危険性があります。
 美味しいから食べる、美しいから自分のものにしたいとするような表層的な「感覚主義」は道を誤る原因となることに注意しなければなりません。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第2課-段落048

048 In order to better understand the action of the mind, let us consider it in four parts, like four different people.
048 心の活動をより良く理解する為には、それを4つのパーツ、丁度、4名の異なる人のように考えることにしましょう。

【解説】
 前節(047)で心を感光板に例えたのですが、その感光板は4種に分類でき、それらが4人の異なる人間のように意志を持っているとしています。この4種については、後の本文で説明がありますが、私達の心なるものが4つの要素から成り立っていることに着目しておきましょう。このことは「心」なるものが存在するのではなく、心はその中に4人の人間が居るように振る舞うことを示しています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第2課-段落047

047 Now we proceed to analyze the mind, which is made up of the senses. This sense mind is actually in the process of creation through its constant learning. It is like a sensitive plate which receives impressions from its observations of effects. And most of the time its conclusions are not in accord with natural law.
047 これからは、感覚から成り立っている心なるものを分析することにしましょう。この感覚の心は実際にはその絶えざる学習を通じて創造される過程にあります。それは結果の観察から印象を受ける感受性のある板のようなものです。そしてほとんどの場合、その出す結論は自然法則と調和していません。

【解説】
 分析すべき第一は、自分の「心」であると言っています。刻々の「気分」は自らの「心」の反映です。この「心」なるものは、人を精神を通じてその行動に至るまで支配しています。ここでは、心を印象を感受する感光板、今日的に言えばデジカメのCCDに例えています。この感光板の出来、不出来は同じ対象を撮影したとしても、仕上がった写真に大きな差を与えます。その繊細さ(感度)等の性能が高まれば、例えかすかな光でも明瞭な画像を記録に残すことができることは我々の知るところです。
 また、印象が心に達した時(写真の場合で言えば、光が感光面に到達した時)、感光板自体がその画像を好き嫌いによって判断し、場合によっては拒否したりすることが起っているとしています。それが証拠に、同じ対象を見てもその受ける印象は個個人によって大きく異なるのが普通です。同じ道端の花を見ても、詩人はその風にそよぐ小さな花びらからも春の喜びを感じるでしょうが、多くの人は気にも留めないで行き過ぎるかも知れません。印象に敏感になることは、そのまま大自然・創造主からの印象(メッセージ)に気付くことができることに繋がります。
 このように外部の観察から印象を得る入口である各自の心を本来の道に沿って進歩させられるよう、日々教育する必要があると言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第2課-段落046

046 In lesson number one we left you with the idea of driving a car in full conscious awareness of all of its parts.
046 第1課ではすべての部品を完全に意識しながら自動車を運転しているという概念で話しを終えました。

【解説】
 前課(第1課)のまとめとして、自動車の運転の例えが述べられて来ました。この場合、運転者(主人公)が自動車のもたらす恩恵を享受するレベルに達するには、自分が操縦する自動車(人体)の各部の機能や相互関係を学んだ上で、各部の状況を把握しながら、ペダルやハンドルの操作に対応した自動車(人体)の動きを体得して行くことになります。
 外見上、自動車はボディーやハンドル、ペダルしか見えませんが、自動車を動かしているのはエンジンであり、その動力を伝える駆動軸です。それら通常、目に見えない部品の働きを意識して運転する状況が第1課の「因に気付くこと」の実践例として示されたのです。
 しかし、因に気付いただけでは、まだ問題の完全な解決にはなりません。次なるステップとして私達(運転者)自身の心の実態について分析を進めるというのが、第2課の目的です。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課逐次解説を終えて

 当シリーズは直接、一同に会しての学習会というものが出来ていない今日、「生命の科学」を日々の生活で実践しようとする学習者に少しでもお役に立てればと思い、書き留めて来た私のメモを掲載しています。
 アダムスキーが残した「生命の科学」には他惑星の文明から地球の民に贈られた貴重な教えが随所に織り込まれていると聞いています。その一句一句を自分のものとし、日々の生活に活用する為には、その内容を率直にしかも真摯に受け入れ応用することが必要です。その為にも、各々の内容をどのように受け止めるべきかを考える際の参考用に、各段落を読んで受けた私の感想(印象)をそのまま掲載しました。内容的にもダブっているものもあり、至らない部分も多いかと思いますが、これも現在の私の時間的制約と認識レベルによるものとご容赦下さい。
 なお、目下、本シリーズに対する皆様のご意見を募集中です。ご質問やご意見について各コメント欄に記入するか、メールでお寄せ下さい(宛先はganetjpn@cream.plala.or.jp)。その際には原則として氏名と連絡先メールアドレスの明記をお願い致します。
 いずれ、本シリーズを出版する際には、これら皆様のご意見についても紹介させていただくつもりです。
 次回は第2課に進みます。準備が出来次第、本ブログに再び掲載を始めますので、ご期待下さい。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落045

045 Just reading this lesson will be of very little value but daily and momentary practice will bring results. When you have questions pertaining to any of the lessons you should write them down. And if you do not find the answer in the forth coming lessons after receiving three, you may send them to me.
045 ただ、この教科を読むだけでは何らの価値にもなりませんが、日々のそして一瞬の実践が結果をもたらすことでしょう。この教科のどの部分についてであれ、疑問がある時は、それらを書きとめて下さい。そしてもし、3課を受取った後もあなたが次ぎに来る教科までに回答を見つけられなければ、それらの疑問を私に送って戴いても構いません。


【解説】
 第1課を終えるに当って、アダムスキーは学習者にこの教科をただ読むだけでは効果がないこと、日々刻々の実践こそが重要であると説いています。問題は私達の心というある意味、掴み所の無い対象を取扱う以上、知識として蓄積したとしても、実際の私達の精神活動を訓練するには、その活動を捉えた上で試行錯誤を繰り返しながら進める必要があるということです。
 本書で度々自動車の運転の例えが出て来ました。もちろん、自動車の運転に先立って自動車の仕組みやハンドル、アクセルやブレーキの操作方法、更には交通ルール等の事前学習が必要です。しかし、それだけでは運転できるようにはなれません。実際に自動車を動かして様々な実践体験を積んで初めて自在に自動車をコントロールできるようになり、また自動車がもたらす本来の便益を享受することができるようになります。
 同様に、私達は私達自身の心や意識の作用についてここで一通りの基礎知識を学んだからには、今度は実際の生活の場、自らの精神活動の実践の場において、少しずつ操縦の訓練を続け、技量を高めることが必要だということです。
 また、アダムスキーはこの講座を単なるテキストの配布ではなく、通信教育の形で運営しようとしていました。元来は教師(先導者)が学習者の疑問に答える丁寧なシステムを目指していたことがこの一節からよくわかります。それほどにこの「生命の科学」には、私達地球人の進歩に必要な教科が詰まっているということです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落044

044 So the first thing a student of life should do is to cultivate the ever present awareness of Cause and Effect. Where not only the mind will see the form as it has in the past, but also it will permit the consciousness to reveal the invisible supporter of the form. It will be like driving a car with full awareness of all of its working parts which produces the power, that the sight does not see.
044 ですから、生命の探究者は原因と結果に関する常時の警戒感を養うことを最初にしなければなりません。心がこれまでそうであったように形を見る他に、意識が形有るものの目に見えない後ろだてを明かすことを容認させることです。それは自動車を視覚では見えないその動力をつくり出す作動部品の全てを完全に意識しながら運転することに似ています。


【解説】
 ここ(第1課)でのポイントは、私達学習者が最初に取組むべきことは、因なるものと結果なるものに対する同時的でかつ、不断の気付き(警戒)であると言っています。そのような心の状態を養う("cultivate",耕す)ことによって、これまで通り心が姿形を見ると同時に、意識はその形を支えている内実を印象によって心に伝えます。その結果、私達は因なるものと結果なるものを同時に認識することが出来ると言うのです。
 一つのものを見てもそれを支える目に見えない存在に気付くことは、物事の本質を見抜くことであり、身の回りの出来事や事物が実は、壮大な宇宙意識の作用で成り立っている現実に気付くことでもあります。
 長い時代を通じて、私達は何度となく文明を破滅させて来ており、現在の文明も多くの戦いや苦難の積み重ねが続いています。しかし、大自然、大宇宙を見るとそこには生命のstruggle(戦い)はあるにせよ、細部にわたり調和した姿があります。その違いは意識なる各々の存在の拠り所を不断に認識し、自らの価値をその意識に向けているかどうかにかかっていると言えるかも知れません。
 確かに滅びに至る道は数多いと言わざるを得ません。物欲に走ることばかりが誤った脇道とは限りません。私達の認識力、知覚力には限界がある以上、心の探究、創造主へ求道の道程にあっても、自身の心の発達段階を越えて余りに先を急ぐと、神秘主義や教条主義に陥り、道を外すことにもなりかねません。そこで地に足をつけて身の回りの自然観察、事物の背景分析を通じて、結果と原因を一体として観察することが大切になります。こうすれば、事物に対する理解力も少しずつ深まり、着実な学習を続けられることになります。
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