ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落007

007 When one studies to become a doctor he does not study just a man's eyes or nose, but he studies every intricate part of the body. This includes every nerve, muscle, etc., and their purpose or function.
007 人が医者になるために学習している時、人の目や鼻のみを研究することはせず、肉体のあらゆる入り組んだ部分をも学びます。これにはあらゆる神経、筋肉等、及びそれらの目的や機能についても含まれます。

【解説】
 ここでは、人体の一部が何らかの症状が出て、病を自覚した時に対応を図る医者とはどのような事項を学ぶ必要があるかを述べています。通常は、目が痛ければ、眼科にかかります。しかし、医者は目についての知識だけあれば済むというものではありません。
 例えば、糖尿病。これは膵臓からでるインシュリンと血液中の糖の関係であることは一般の人でも今では知る知識です。その糖尿病が原因で目の網膜に異常をきたして、視力が低下する事例があります。この場合、目の視力回復には糖尿病を治療しなければその進行を止めることは出来ません。つまり、症状は目に出ているかも知れませんが、その奥にある病気の原因は糖尿病という全身の病から来ている訳です。
 このように、本来、人体のあらゆる臓器が相互に関連し、互いの影響を受けていることをまず、理解する必要があるということです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落006

006 As stated, we cannot see Him as a person for he embraces all, and manifested creation is the Effect from His Cause Intelligence.
006 先に述べたように、創造主が全てを包み込んでおり、創出された創造物が創造主の因なる知性から出た結果物であるが故に、私達は創造主を一人の人間のようには見ることは出来ません。

【解説】
 私達が最も信頼を寄せるべき存在、感謝すべき対象である創造主について、上記の記述は、創造主は「全てを包み込んでいる」と言っています。ちょっとした言葉ですが、その持つ意味合いは新鮮です。つまりは、貴方にとっても、私にとっても、その周囲は創造主によって包み込まれているという、何と暖かいいたわリであることか。
 しかし、包み込まれているが故に、私達本人には、その存在を特定の人物のようには見えないというのです。赤子がその母親に抱かれているようなものです。私達、創造物は創造主の結果物である為、自分と同じレベル(或いは次元)では生み主を自分と同様な像として見ることができないというのです。
 一方では、古来より神(創造主)の像を建立し、あがめるという偶像化が行われており、それなりに、各自の信仰の対象として機能して来ておりますが、実は、本来は、創造主を人間のように表わすことはできないということを述べているのです。実は、創造主は、離れた場所に像として建立するよりも、もっと私達自身の身近に居るということに気付くべきなのでしょう。自分の周囲に片時も離れず、いらっしゃるということなのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落005

005 As we cannot see the Creator the God of the Cosmos in person, we then must study Him through His creation. And this manifests in what we refer to as nature, for it is the embodiment of His Supreme Intelligence.
005 私達は創造主、宇宙の神を個人的人物として見ることはできない以上、私達は創造物を通じて創造主を研究する必要があります。そしてこの創造物は私達が自然と呼ぶものの中に現れているのです。何故なら自然こそが創造主の最高英知の体現であるからです。

【解説】
 自然(nature)に体現されている創造主を知ることは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。
 自分の体験で言えば、早春、舗装道路の割れ目から紫色のスミレがそっと咲いていたかと思えば、しばらくするとスミレの花は姿を消して、新たな草が勢い良く伸びている。道路脇の草地には一斉に同じ小さな花をつけた草が繁る。2週間も付近を通らないとあたりの景色はすっかり変わっています。それほど、草花の変化は大きいのです。春に咲き誇っていたポピーは5月の末には実をつけた後、枯れて行きます。そしてあたりは、より逞しい夏草の時期を迎えるのです。
 これらの草花の移り変わりを見るにつけて、これらひとつひとつの草花に誰がどのように指令を出しているのか、不思議に思います。離れた場所であっても全てが調和して各々の生命を全うしている。実に不思議。
 それらの草木は、人間の都合によって刈取られることも多いのですが、それでも何事も無かったかのように、残った切り株から芽を出して来ます。この粘り強さは人間も真似したいものです。
 「創造物を通じて創造主を研究する」とはどういうことを意味するのでしょう。前述の続きで言えば、「自分自身を通じて創造主を研究する」ということになります。ある意味、それは研究材料が最も手近にあり、その反応も自ら良く分かり、一刻一刻の人体の生命活動を通じて、その創造主が元来、授けた意味や役割も含め、自分を理解できれば、最も効果的な研究ができる筈です。まして、最高英知の体現である人間としてダイヤモンドの原石磨きと同様に、自分自身を純粋にできれば、研究=実益、更には他者に対する貢献も大いに期待できるかも知れません。日常の観察から、自分自身を観察し、創造主を意識できるまで感性を高めることは、本人自身を高めことにも繋がることでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落004

004 We, as his highest creation are intrusted with that responsibility. The study should be no different than a careful observation of a famous painting would be when the artist is not known in person. For the more that it is studied, the better one understands the mind responsible for the painting.
004 最高位の創造物である私達は、その責任を任されています。その研究は画家を個人的に知らない場合に著名な絵画を注意深く観察するのと違いはありません。研究が進むにつれて、人はその絵画を描いた本人の心をより深く理解することになるのです。

【解説】
 日頃、私達の周囲には何気ない存在であれ、様々な創造物が取り巻いています。しかしながら私達は日々の「仕事」に追われていて、多くの場合、その存在に気付くことさえ無いのではないでしょうか。自分が歩いている足下にどのような草花が咲いているか、あるいは咲こうとしているのか、歩道の石の裏にひっそりと暮らしている虫達の営みを知ろうなどとは思わないのが普通です。
 それよりは、会社での言い訳や交渉相手への説得方法等、毎朝の通勤でさえ、足下の自然など、確かに目には入っているのですが、その認識力は無く、むしろ心はその日一日の仕事のことで頭は一杯なのかも知れません。或いは、自分が好きな音楽を聞きながらの場合には、上空が如何に素晴らしく晴れ渡っているのに、何一つ気付く事無く行き過ぎてしまうのが我々です。
 そのような無神経な者に創造主は創造物を委ねているというのです。本当にもったいない話しです。本人は知らないのですが、本人自身は元来、最高位の創造物であるというのも、驚きです。もっと、私達は、自らの価値を自覚しなければならなりません。そして、宇宙に存在する創造物に対する本来の責任についてもっと自覚する必要があることになります。
 そのためには、まず、自らも含めた「創造物」を良く観察・研究する必要があるというのです。丁度、絵を観賞するように。もちろん、大自然や他の存在物でも研究対象は良いのです。しかし、それよりいつも身近にあって、直接観察できる存在、もっとも身近な「創造物」を対象にした方が良いことは明らかです。それは、言う間でも無く、自分自身ということができるでしょう。この創造物は、毎日、鏡で見ることができますし、何処に居ようと、常に本人と一緒です。その日の心の動き、身体の働きと心の関係、等々、様々な生きた研究材料が、自分自身である訳です。自分自身を良く知ることが、もっとも早道であると言えるかも知れません。
 自分自身の内面や外観を関係づけて、冷静に、かつ繊細に学ぶことが重要なのでしょう。そうする過程において創造主を知り、感謝することが最も大切な「学習」であり、「研究」なのです。何の為に哲学を学び、宗教の門を叩くか、その究極の回答が、この創造物を通じて創造主の心を知り、私達が賜った贈り物である人間の責任というものを理解することなのです。

【参考】
 上述の「画家の心を理解する」に関連した資料としては以下の書籍があります。
 * 田中 穣著「生きる 描く 愛する 42人の名画家物語」婦人之友社( 明治、大正、昭和の美術史にのこる42人の足跡。画家達の織りなす運命の物語と代表作を、一冊にまとめた保存版!画家の心の内と、名画の由来を後生に伝える語りべとして取り組み、7年にわたり『明日の友』に連載したシリーズ「心は億万長者」の集大成。)

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落003

003 And in dealing with the religious or spiritual side, one should not be disturbed regardless of his faith. For the Creator whom we call God, created everything that is known and yet to be known. And to know the Father of all creation, one must study His creation and its purpose.
003 また、宗教や精神的な側面を取扱う際には、人は自身の信条がどのようなものであっても妨害を受けるべきではありません。何故なら、私達が神と呼ぶ創造主は、知られている、そして今後知られることとなるあらゆる物を創造したということ。そして、全ての創造物の父を知るために、人は父の創造物とその目的を研究しなければならないからです。

【解説】
 自然界の創造物を探究することは人間にとっての義務でもあります。
 この世界の鉱物、草木、動物等、全てが、創造主が無償で創造したと言っているのです。
人間はとかく、これらの「資源」を利用し、利用価値の無いもの、あるいは邪魔になるものは”雑草”や”害虫”として排除して来ました。
 しかし、あらゆる創造物を知り、その目的を探究することが大事であると述べています。そこにはこれまで気付かなかった創り主の意図について知ることにも繋がる大事な一歩です。
 ここで、何故、アダムスキーは「宗教や精神的な側面を取扱うについては、人は自身の信仰にかかわり無く妨害を受けるべきではありません」と言っているのでしょうか。それは、この種の探究は、あくまで自分1人で行う探究の作業であり、傍から「こうすれば良い」「こうしてはダメだ」等、指図されるべき事柄で無いことを意味しています。それは個人の内面から湧き起る印象や感性にも関わるもので、いわゆる頭脳で学習するような内容で無いことを指しているからです。自分で発見し、感得することで、自らの理解力や感性を高めることができるからなのです。
 贈り主からのプレゼントを受け取る際に、受け手がその贈り物の価値を知り、贈り手の気持ちを理解することは最低限の礼儀であることは言うまでもありません。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落002

002 When we speak of life, we mean in every phase of life's expression. In plain -we are going to explore life.
002 私達が生命について語る時、私達は生命が表現するあらゆる側面を意味しています。簡潔に言えば、私達は生命を探究しようとしているのです。

【解説】
 ひとくちに「生命」(或いは「いのち」「生活」)と言っても、その意味するところは広いものです。木の芽が成長し、花がつぼみをふくらませてやがて大輪の花びらを広げるように、自然界にはどんな鈍感な人間でも気付くような生命の営みがあります。また、一方では音楽に心震わせる感性もあるでしょう。形にならないものも「いのち」の表現である訳で、生命とする対象分野は広いものです。
これらの様々な対象をひっくるめて、ここでは「生命」と言っており、それらを含めてあらゆる生命の側面について、その根源から論じています。言うなれば、「生命」とはそもそも何であるかについて踏まえた上で、生命そのものを探究しようとしていると言うのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第1課-段落001

001 This course on the science of life will get deeper as we proceed with the study.
001この生命の科学コースは学習を進めるにつれて次第に深遠なものになるでしょう。

【解説】
 この講座(「生命の科学コース」)はある種の通信教育として、開発されたものと聞いています。アダムスキー氏の哲学3部作の内、最晩年のものです。関係者の間では最も重要視された講座であり、全12課にわたる課程を経て地球人に必要な基本的知識が身に付くように工夫されたものとされています。
 1963年6月付の同名のアダムスキー氏の論説「生命の科学」(「死と空間を超えて」:昭和43年11月発行、久保田八郎訳、P.87-88)に以下の記述があります。
「(略)私は目下、”生命の科学研究講座”を設ける準備をしています。それはこれまでに教えられてきた如何なる精神科学とも異なるでしょう。それは万物のすべての分野とそれを支配している諸法則を包括することになります。宇宙人が現在の進化の状態に達したのはこの生命の科学によるのです。
 人間がこれまでに研究してきた神話は事実によって置き換えられ完全に排除されるでしょう。しかしこのためにだれも自分の信念を捨てたり変えたりする必要はありません。それはちょうどエンジニア−になろうとして勉強している人が自分の信念を捨てる必要がないのと同じです。
 私のいう生命の科学の研究は多数の人にとって容易ではないでしょう。それには生命の哲学が含まれていて、しかもあらゆる信念は哲学に基づいているからです。この研究を行おうとする人はすべて或る一つの事柄を理解する必要がありますので、ここでそれを明らかにしておきたいと思います。すなわち、この研究から何かを得ようとするならば各人はオープン・マインド(注:寛容の精神)とハッキリした論理的な考え方を持たねばならないということです。自己の既成知識を持ち込んで心中に混乱を生じさせてはいけませn。われわれは研究者にたいして他の人々の教師になってもらいたいからです。
(中略)
 以上はイエスの言った言葉『幼児のようにならなければ天の国へ入ることはできない』の意味です。天の国というのは生命の真実の知識のことです。これが”生命の科学研究講座”を設けた理由です。それは研究者を向上させて教師とし、他人を助けるのを可能ならしめることにあります。
 オランダの女王は私にむかって次のように言ったことがあります。『あなたの平易な言葉と表現の仕方のために、素人でもあなたの言っている事柄の真実性を感じることができます。長いあいだ人間を混乱させてきて、しかも人間を不安な生活に縛りつけていた神話的な言葉を用いないで、あなたは人間に生命の真実さをもたらしています』。人間は一人の主人をだまさないで二人の主人に仕えることはできません。人間がだましている相手は通常自分自身です。”生命の科学研究講座”については、最後的な計画ができ次第に詳細をお知らせします。」
 また、アダムスキー氏の論説「新しい地平線の彼方へ」(「死と空間を超えて」:昭和43年11月日本GAP発行、久保田八郎訳、P.134-135、及び「空飛ぶ円盤とアダムスキー」:1975年7月有信堂高文社発行、久保田八郎訳、p.202)に以下の記述があります。

「1964年に始まった”生命の科学”は今回第12課をもって完結し、ブラザ−ズも私もその成果に満足しています。講座を研究してその知識を応用した人の大部分は自己の能力を著しく拡大しています。実際、多数の読者が奇跡的な物事を行っています。このことは今後もずっとこの講座が大きな価値を持つことを示しています。宇宙の原理の研究と応用に終りはありません。これについて大いなる努力を払ってくださったブラザーズに感謝してよいでしょう。これは私達の精神生活ばかりでなく行おうとするあらゆる物事にあてはまります。この講座の研究だけでもよき未来を建設するのに役立つでしょう。
 これまで講演会でたびたび申しましたように、私たちに直接関係があるのは円盤の目撃ではなく、生活改善のためにブラザーズがもたらした知識です。目撃などというものはみな大同小異です。この知識なくしてはよき世界を期待することはできません。よき世界の建設こそ私達の義務です。政府が私達にかわってこれを行うことはできませんし、また惑星人に関する情報それ自体がこれをやりはしません。情報と知識は実行されない限り価値はないからです。(後略)」

 アダムスキー氏存命中に、どのような形式でこの講座が運用されていたか、今となれば知る由もありませんが、通常は1課毎に印刷テキストが送付され、何らかのテスト或いは感想文の返送を経て、学習者と教師(アダムスキー氏)がやり取りをする中で、講座を進ませるような仕組みであったと思われます。
しかしながら、現在、このような仕組みが取れなくなっており、各自が自習する中で、本書のようなノートを通じて、各々の理解力を伸ばすことが必要なのです。その意味で、お役に立てれば幸いです。
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