お知らせ

この所、忙しさが続いたせいか、風邪を引いてしまいました。
皆様には大変申し訳ありませんが、2~3日間、お休みさせて戴きます。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第6課-段落240

240 And you do not have to give up anything that you enjoy in life now, but replace the extremes that are indulged in with moderation. And permit your mind to see God manifesting in all forms of life and in every cell that makes up the form. For the life of any form and that of a cell is the life of God expressing in varying degrees through the many forms.
240 そして貴方は現在の生活で楽しんでいるどのようなものも諦める必要は無く、ただ欲しいままにしている極端さを適度さに置き換えるべきなのです。そして貴方の心をして、あらゆる生命の形あるものの中、そしてその形を作り上げている一つ一つの細胞の中に神の現れを見させることです。何故なら如何なる形あるものの命、細胞一つの命も皆、様々な形あるものを通じて多様に表現される神の生命であるからです。


【解説】
 大事なのは日常の諸事やこれまでの各自の楽しみを決して嫌悪すべきでなく、むしろ余裕をもって楽しむぐらいの姿勢が必要だということです。
 創造主の意志に委ねるということは、行動については印象に基づいて自我の意見には取り合わない反面、その行動の結果については、私達行為者にとって責任は無いことになります。つまり、結果は創造主から賜るべきもので、私達自身は創造主の意志(印象)に従うだけです。そうなれば、これまでのように二重、三重に保証を求め、神経をすり減らして来た事柄も、不必要になり、気が楽になることでしょう。
 本文では、これまで通り、各自の生活を送ってよいと言っています。人間の営みを通じて神の現れが表現されれば、神は喜ばれるということです。あらゆるものに宇宙創造主の意志と魂が現れているということについて、知覚し、それら全てを心から尊重し、慈しむ気持が大切なのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第6課-段落239

239 And it makes no difference how many books you read, or how many religions you embrace, or how many courses you may take and teachers you may have, not any of these will bring this reality to you unless you do as the prodigal son did. Die in the pride of the will and the ego and be reborn in humility and the WILL OF CONSCIOUSNESS.
239 そして貴方が如何に多くの本を読んだかとか、如何に多くの宗教を奉じたか、如何に多くの教科を受講し教師を得たかといった事柄は貴方がその放蕩息子がしたように行わない限り、そのどれひとつもこの現実を貴方にもたらすものではありません。自分の意志のプライドと自我を葬り、謙虚と意識の意志の中に生まれ変わることです。


【解説】
 この学習の道は息の長い道程です。自分自身を対象とする訳ですから、肉体の病気とは異なり、誰も治すことが出来ません。もちろん、他人の話し、先人の業績を学んでヒントを得ることは出来ますが、最終的には自身で対処すべき事柄なのです。しかし、これらの知識から有益なポイントを学ぶことは有用です。著者アダムスキー氏も含めて、これまで多くの優れた教師がその人生の歩みを通じて私達に道筋を示してくれています。
 しかし、本人の具体的な思考と行動によってでしか自身を変えることは出来ません。また、他人の体得した事柄も自分で確認、体験した上でなければ単に上辺だけの知識で終わってしまいます。自身が今までの生き方を心底振り返り、その不安定で身勝手な欠点を十分に自覚し、印象に従うこと、自分のプライドを捨てて創造主に意志を預けることが如何に大切かを悟ることが重要だと言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第6課-段落238

238 This is re-newing the mind and born again, as Jesus said. For one really dies as an ego pride will only to be born in the Will and the Glory of the Cosmos. Like the drop of water that finally becomes the ocean of water by uniting with it, no longer just a drop.
238 これはイエスが言った心の再生であり、生まれ変わりです。何故なら、人は実際には一つの自我のプライドとして死ぬと宇宙の意志と栄光の中に生まれ変わることになるからです。ひと粒の水の一滴が大洋と結びつくことによって遂には大洋になり、もはや一滴の水では無くなるのと同様です。


【解説】
 わかりやすく言えば、自我(エゴ)の自尊心やおごりを全て捨て去って、自らの意志を大宇宙の無言なる意志、即ち、創造主から放たれる印象に従うことで、本来の人の生き方が出来るということです。この場合、自分の意志を重んじないということは、我が身を創造主の意志の働き手、単なるパイプとして創造主に使って戴く覚悟が必要だということです。
 自分を通じた意識の流れや発現をさまたげることなく、成就することで、私を通して表わされた事柄に対して、創造主も喜ぶ、また、その道具である私自身も学ぶものが多いということでしょう。このような状態になることは、もはやかつての自我は消え、自身も広大な宇宙空間の一部になっているということです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第6課-段落237

237 In the prodigal son there was still one small part that accused itself of wrong doing which was symbolized by the son who had never left the household. For in every individual the original spark remains. That is the only hope for the straying one to be drawn back to his original place. So the small original spark reminded the prodigal son of his deeds. But this was soon overcome by Cosmic Consciousness for it knows no judgement or discrimination. But it takes a great determination to accomplish this victory and lose the self as an ego in the COSMIC SEA OF CONSCIOUSNESS.
237 放蕩息子の内部には家を出たことのない息子として象徴され、誤った行動を叱責した小さな部分が依然として存在します。各個人の中には原始のきらめきが残っているのです。道に迷った者にとってはそれが自分の起源に戻される為の唯一の希望でもあります。ですから小さな原始のきらめきがその放蕩息子に自分の行動を思い出させるのです。しかし、これは宇宙意識によって直ぐにも征服されてしまいます。何故なら宇宙意識は如何なる裁きも差別も知らないからです。しかし、意識の宇宙的大海の中でこの勝利を得て、エゴとしての自己を捨てることが出来る為には一大決心を必要としています。


【解説】
 各自の中にわずかに存在する無垢の灯火、これが自己の過ちを指摘します。この存在の故に反省、自戒の機会が与えられます。以前、どこかで、「神は滅ぼす者をまず狂わせる」という主旨の言葉を聞いたことがあります。自省のない有頂天になった人間は、実際にはその人のエゴが自分の支配力を誇示している危険な兆候と言えます。かつて多くの戦争が為政者のこうした宣伝活動によって促進されましたし、時代の寵児ともてはやされる者もいつの日かボロが出て正体が判明するものです。
 各自の中にいつも誤りを指摘する小さな声があることが、私達を意識の元に復帰させる原動力になっているということです。その意味では日常的にこの存在から素直に声を聞く態度が大切です。丁度、私達は自分勝手でやみくもに暴走する自動車のようなものです。運転するエゴは自分の車のフロントガラスが汚れて曇っているのをあたかも外の世界がそのような汚れたものであると勘違いして、恐怖のあまり不必要にエンジンを空回りさせて、どこかに車をぶつけて自動車(人体)をダメにしてしまうようなものです。この時、傍らにいて、小さな声で誤りを正し行くべき道を囁くのが本文で言う無垢の存在部分と思われます。
 しかし、自らの殻を破り、一度、車を道の傍らに止めて、窓を開け、外を眺めれば、狭い車の中で悩んでいたことや道に迷っていたことなど、吹き飛んでしまいます。車の外は青空が広がり、穏やかで調和に満ちた別世界が広がっており、今まで暗い世界と思っていたのは、自分の眼、ガラスが長年の無謀な運転で汚れていたのが原因であったのです。
 ひとたび、意識の存在に気付き、その中に融合することの素晴らしさを知れば、その者はもはや後戻りすることはなくなることでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第6課-段落236

236 Upon his arrival home his ego received a surprise. For his father had a banquet prepared for his wandering son and welcomed him with open arms as though nothing had ever happened. For when an ego conquers itself-there is no greater victory and rewards for the efforts are unlimited. And the individual is endowed with all of the needs of life, wanting for nothing.
236 彼が家に着いてみると、彼のエゴは驚きを受けました。何故なら、彼の父親は放浪していた自分の息子の為に祝宴を用意しており、まるで何事も無かったかのように彼を両腕に抱いたからです。それはエゴが自分自身を乗り越えた時、それにまさる勝利は無く、それに至る諸々の努力への報いは限り無いものだからです。そして、各自は生活の必需物の全てを授けられ、何も不足することは無くなります。

【解説】
 ここで本当に大事なのは、息子は父や家族の者達から、これまでの自分の諸行に対して叱責され非難されるのを覚悟の上で父の家に戻ったということです。息子は父の家に戻れば祝宴が待っているとは考えても見なかったところが重要です。私達は意識の意志に従う際に、単に「意識に従えば生活が楽になる」とか「苦痛が解消する」からという理由、言い換えれば損得や御利益が目的であるべきではありません。
 本当の意味で創造主の元に回帰するには、自らの欠点や問題を率直に認め、それを改める為に父(意識)の力を借りる決心が重要であり、父はそうしたわが子の改心を心から喜んでいるのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第6課-段落235

235 The story of the Prodigal Son in the Bible gives us a good insight as to what must take place. The mind of the prodigal son is a portrayal of all minds. For he, after deciding to return, had to humble himself and cast aside all of his pride, willing to face whatever might come. Knowing full well that some of the household would point fingers at him and remind him of his bad deeds. Yet he knew that their life was not his life. And they had not had the experiences he had gone through, even though they may have had similar ones. Knowing all of this he was still determined to conquer the will of his mind and return to the will of his real self - the consciousness - the Father of all forms.
235 聖書の中の放蕩息子の物語は私達に何が為されるかについて良い洞察力を与えています。放蕩息子の心はあらゆる心を表わす肖像画です。彼が家に戻ることを決心した後は、如何なる事態が来ようとも喜んでそれに直面し、自分を謙虚にし、自分のプライドをことごとく脇に捨てなければならないからです。家の中のある者は彼を指差して彼の悪事を彼に思い出させることも十分知ってのことです。しかし、それでも彼はその者達の人生は彼のとは異なっていたことは分っています。そしてその者達が彼と類似した人生であったとしても彼が通った体験はしなかったであろうこともです。これらの全てを知った上で、彼はそれでも自己の心の意志を克服し、彼の真の自己、意識、万物の父の意志に戻ることを決心したのです。


【解説】
 何事も物事が立ち行かなくて、それまでの行動を取り止め、撤退することは難しいものです。私達は致命的な問題を抱えていても何とかそれを顕在化させずにごまかして、継続する道を選びがちです。その方が、苦労が無く、まさに惰性の生き方が楽だからです。
 しかし、そのような生き方も長続きはせず、所詮、最後には長年のツケが溜まって手痛い後始末をすることになります。本文で述べられているように心による私達の生活(「放蕩息子の生活」)は、一見、自己を確立し自立する望ましい姿なのでしょうが、自我が意識に対して謙虚にならなければ立ち行かないことを十二分に体験し、これではダメだとなった初めて、かつての家に帰る(「意識からの印象に従う生き方をする」)決意がなされます。つまり、そこには、これまでの自分の行動の問題点を認め、これではダメだと自戒した上で、改めて創造主を受け入れることになります。
 そういう意味では、この場合に自我は、良くそこまで決心したと両親が喜ぶような存在である訳で、息子が戻って来たと両親(創造主)が歓びに湧く事情も理解されることでしょう。いずれも宗教にも「懺悔」という業があるように思っていますが、この反省こそ、創造主と対話し、創造主の元に戻るきっかけになるチャンスの一つでもある訳です。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第6課-段落234

234 The happiness which man feels within his heart and for which he searches can never be realized until he blends his will with the will of consciousness. Any more than the drop of water, remaining by itself can know the vastness of the ocean. When man realizes this he will know his true identity for the first time. And will no longer live in the shadow of his reality, influenced by every wind that blows. And there will be rejoicing in heaven when the prodigal man returns to the househoId. But this will take a profound determination on the part of each human, with an unshakable faith. For he will have to give up his egotistical pride and face whatever is presented to him.
234 人が自分の胸の中で感じ、探し求めている幸福は、自分の意志を意識の意志に融合させない限り、決して実感することはありません。孤独であり続けた水の一滴が大洋の広大さを知ることと大差はありません。人がこのことを悟ったなら、その者は初めて真実の主体性を知るでしょう。そして吹きすさぶもろものの風に影響され、自身の真実の姿の陰に生きることはしなくなります。そして放蕩息子が家に戻った時には天国では祝賀があることでしょう。しかし、これには個々の人間の側に不動な信頼感を持った上での心からの決心を必要とします。何故なら、如何なるものが現れているかに関わらず自己中心的な自分のプライドとメンツを諦めなければならないからです。


【解説】
 ここでは単純に意識に自我の心を委ねよと言っているのではありません。「意識の意志」に自己の意志を融合させよと言っています。逆に言えば、意識には意志があり、その意志の通りに行動せよと言うことです。各人各様に状況は異なり、その場その場で状態は変化するにも関わらず、創造主は常にあなたを見詰め、「こうして欲しい」、「こうありたい」という意志を持っているということです。
 これはひっそり生きる野辺の花、一つに対しても同様な意識の思いがあるということです。こう考えるだけで、創造主の懐の広さ、深さを感じることができます。著者は大海を前にした一滴の水をエゴに例えていますが、その大きさの差、を自覚すれば、自我を捨てて意識に融合することの素晴らしさがわかります。意識に戻ることは、独自の意志を主張して家を出た放蕩息子が再び、両親の元に戻る訳で、両親は暖かく向かい入れてくれる筈です。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第6課-段落233

233 Did not Jesus say, he who is trying to save his life shall lose it? Isn't this what the ego is afraid of by giving up its will to consciousness? This is also a lack of faith in the Creator whom we call God. For Jesus also said, he who gives up his life shall find life eternal. Meaning, he who gives the will of the ego unto the will of consciousness shall partake of life eternal. For consciousness is eternal and proceeds all forms. And without it there would be no forms, for an unconscious form is a dead form.
233 イエスは自分の命を救おうとする者はそれを失うとは言わなかったでしょうか?これはエゴがその意志を意識に差し出すことで恐れていることを指すのではないでしょうか?これはまた、私達が神と呼ぶ創造主に対する私達の信頼の不足でもあります。何故なら、イエスはまた、自分の命を捨てる者は永遠の生命を見い出すとも言いました。それはエゴの意志を意識の意志に譲り渡す者は永遠の生命を共にすることになるという意味です。何故なら、意識は永遠であり、万物を先んじているからです。そして意識無しには如何なる形有るものも存在しません。意識の無いものは死んでいるものだからです。


【解説】
 先ずは、「感じに従った」行動をとって見ることです。感じ(印象)を受けた段階では何ら結果の兆候もありませんが、心落ち着けてしばし、待てば結果が現れます。自分の得た印象が正しかったかはその結果から直ぐに分かります。また、多くの場合にはその「印象」すら感知しないまま、行動に移ることが必要になることも多いようです。
 何度となくこの種の体験を積み重ねると、次第にその印象を私に授けて戴いた目に見えない存在にも気付くようになるのではないかと思っています。
 いずれにしても、その印象の贈り主にまず、絶大な信頼を寄せることが必要で、自分の行動をこれらヒントに従って行こうとする気持が最も大切なのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第6課-段落232

232 This is no different than a mother who refuses to believe that her child can do anything wrong, and will not correct it. Eventually the child suffers with the parent because the parent failed to strengthen the weakness that was showing up in the child. This was caused by the mother's fear of recognizing the weakness in the child. And she added weakness to weakness instead of correcting it. Finally the mother had to face the truth, she could no longer avoid it and it was far more difficult than it would have been in the earlier stages.
232 これは自分の子供が何ら誤ったことをする筈がないと信じて、子供を正そうとしない母親と変わりありません。しかし、最後は子供がその両親に苦しむことになります。何故なら両親はその子供の中の弱さに対して強くすることに失敗したからです。これはその母親が子供の中にある弱さを認めることを恐れていることによってもたらされたのです。そして母親はその弱さを正す代わりに弱さの上に弱さを付け足して来ました。遂には母親はその真実に直面せざるを得ず、もはや避けることは出来ず、それは早期の段階に比べてはるかに困難なことになってしまったのです。


【解説】
 今までの心を中心にして来た生き方は本項で述べられているように、私達が何らの知識を持たず、ただわがままな態度をとる子供(「心」)を放任して来たことに似ているとしています。心の増長は決して良い結果を生み出しません。人間同士のトラブルから物欲が原因の悲惨な末路まで多くの不快な物事を引き起こします。その心を子供を適宜適切に教育する母親のように矯正することが必要だと言っています。私達は学習を続ける内に次第に今まで見過ごして来た心の悪事や無知、欺まんについてより鋭敏に気付くようになります。当初はあまりのていたらくにうんざりするものですが、反面、意識の印象の素晴らしさにも気付くことが多くなり、その違いが明確になるように思います。
 そういう意味ではどちらの道を選ぶべきかは次第に明確になって来ます。決して無理をして特別な修業が必要ないように思いますし、ただひたすら日常生活の中に意識から来る印象に鋭敏な状態を維持し、素直に印象に従うことが大切だと思っています。
 これら心の訓練は地球では教える機関もありません。本来であれば人生を通じて「学校」で学ぶべき内容ですが、地球にはそれを教える十分な教師も教室も無いのが現状ですし、当面は各自の自習が頼りです。
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