ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落279

279 We know that animals do not talk our language, yet the one who trains them to do the things that they do must have full confidence in himself as well as the animal. The trainer knows that the animal will do what he commands and this is done through a feeling of his expression. In other words they feel each other. And what can be done by a trainer with an animal can be done by you with any form, providing you have the same feeling that the trainer has towards the animals. Once you develop this part of you, you can be sure that you are making the blend with cosmic consciousness, without limitations or divisions of any nature for you are dealing in the Cosmic Sea Of Life. Intelligently you are the master over the elements. This is your birthright for the Bible says that man was given dominion over all things including death, for then man is born into a new life. But you cannot have these things without practice, and practice means living them daily as much as you can.
279 私達は動物達が私達の言語を話さないことは知っていますが、それでも動物をすべきことをするように訓練する者はその動物にと同様に自分自身にも最大限の確信を持たねばなりません。訓練士は自分が命じる事柄をその動物が行うようになることを知っていますし、これは訓練士の表現する際の印象を通じて行われます。言い換えれば、彼らは互いに感じ合えるのです。そして動物に対する訓練士によって為され得ることは、貴方が訓練士が動物達に抱くのと同じ印象を持つならば、貴方は如何なる形在るものに対しても全く同じことができるのです。一度、貴方が貴方のこの部分を発達させれば、貴方は何らの制限や何らの仕切りも無く宇宙意識と融合し始めていることを確信できるでしょう。何故なら貴方は宇宙の生命の海の中を取扱っているからです。知性的に貴方は各元素に対する主人です。これは貴方の生まれながらの権利です。何故なら聖書は人は死をも含む全ての物事に対する支配権を与えられていると述べているからですし、そうなれば人は新しい人生に生まれることになります。しかし、貴方はこれらの事を練習無くしては得ることは出来ませんし、練習とは貴方が力の限りそれらを毎日の生活に活かすことを意味しています。


【解説】
 本文では動物の訓練士における心の在り方について述べています。訓練士自らが表明する声掛けや表情、態度等の表現を行う際の気持(印象)に、その対象動物が自分の意思を分って従ってくれると確信することが大切だと言っているのです。また、一方で注意したいのは、この「確信」は特段、大声を発する等、極端な行為をとるということではなく、静かな信頼関係とも言うべきものだと思います。相手の存在を尊重し、心からの話し掛けが必要だということでしょう。
 本項の良い例に盲導犬があります。目の不自由な方を危険から守り、日常生活を支え、人と犬が交流を深める様子はいつ見ても心打たれるものがあります。両者の間に音声による会話は無くても、十分、互いが信頼し切って生活を共にしているということです。
 同様に自然の中の数多くの動植物とこのような交流が出来るとすれば素晴らしい世界が広がることは間違いありません。サン・テグジュペリの「星の王子様」の中で王子は様々な動植物と会話をしています。また「大切なものは、目に見えない(キツネの言葉)」等、多くのことを教わっています。私達は自然の中の生き物から学ぶことは多いものと思っています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落278

278 Your acts should be, regardless of the type of form, as definite as when you are dealing with man. And no doubt should be present in your feeling or act. Feeling in the form of revelations should be definite for feeling is a conscious state of alertness.
278 その際の貴方の行動は、対象の形有るものの類型に関わらず、貴方が他の人間に対する時と同様に明確なものである必要があります。そして如何なる疑いも貴方の印象感覚や行動に在ってはいけません。印象感覚は意識的な警戒状態であるが故に啓示における印象感覚は明確なものでなければならないのです。


【解説】
 森羅万象あらゆる物に神性が宿り、それを敬い大切にして来たのは、他でもない太古の日本人でした。古い本ですが、「日本文化史序説」西田直二郎著、改造社 昭和7年の「第四講 古代文化の概観その一 神人融合」につぎの記載があります。
 「....『草木咸能言語(ソウモクコトゴトクヨクモノイヒ)』。また天地割判(ワカル)の代、草木言語(モノカタリ)せし時ありとしたのは、古代の日本人が、わが住む世界について考えたこころである。われらの祖先はその四周の山川草木のことごとくから、よく生ける声を聞いたのである。このこころのうちには自然の事象と人間の生命との区分がなお明らかについていない。而してこれはまた神と人との境がいまだに大きく分けられていない状態であった。かかるこころの裡には神はつねに人とともにある。日本古代文化を考えて国家の組織を精神展開の事実として観るとき国家は人の住む国ながら、神の成せる御国であった。....以下略」。また世界の中ではまだ、原始的な暮らしをしている人々の間に自然崇拝の宗教(アミニズム)も、その本源には本書と共通するものがあると言えるでしょう。
 しかし、ここで再び、これら古代の信仰に戻るべきと言っているのではありません。全く逆で、科学的な基礎に立った上で、現代の宇宙時代において各自のインスピレーションに対する感受力を拡大する必要があると本書は言っているのです。
 その場合、各自の内面を拡大するには、その本人がその体験を経ねばならず、他人が自分の体験を述べても本人にその気が無ければ前に進みようはないのです。本文では印象を感じるということは意識的な警戒状態だと言っています。その状況を維持し、心を常に解放、拡大し、心の感知範囲を広げていることが、意識との交流を促進することでしょう。
 また、相手が誰であり、植物でも動物であっても、こちらの気持は相手にも伝わっています。問題は相手からの印象を如何にキャッチするかですが、その秘訣を本文では全く他の人間に対するのと同じように扱うとしています。丁度、幼児が片言の言葉で身の回りのものに話し掛けるのと同様です。イエスが言った「幼子のようにならなければ」という意味も、こうしたポイントを教えていたのかも知れません。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落277

277 Once you have accomplished this, you are not only blending your sense mind with consciousness, but also cultivating a memory. And from here you keep on expanding and include all forms of life by recognizing the cosmic consciousness in each. And you will experience the other half of life which you have not known until this time. As every act is recorded in the cosmic library you will have access to it at any time you will have need for it, the same as the Creator has. This awakened part of you has always been and always will be. The mysteries of life will be replaced by knowledge of life.
277 いったん貴方がこれを達成すれば、貴方は貴方の感覚心を意識に融合させているのみならず、記憶をも育んでいることになるのです。そしてここからは貴方は広がり続け、各々に宇宙意識を認識することによって全ての生き物をも包括するようになります。そしてこれまで知らなかったもう半分の生活を体験することでしょう。あらゆる行為が宇宙の図書館に記録されており、貴方は創造主がなさるのと同様に、必要な時に何時でもそれを利用することができることでしょう。貴方のこの覚醒した部分はこれまでいつも、そしてこれからも常にそうあることでしょう。生命の神秘はこうして生命の知識に置き換えられるのです。


【解説】
 ここで大切なのは身の回りの動植物と心を通わせるという、ある意味誰にでも出来うる行為を通じて、私達は宇宙の記憶を培い、自身を成長させることが出来るということです。敢えて難解な宗教書の古典や哲学者の著作を読む必要はないと本文は示唆しているのです。つまり、自然、宇宙が私達一人ひとりの家庭教師なのです。
 また、身近な動植物に接することを通じて、これまで見落とされていた自身の半身、意識を育成することが出来ると言っています。ここでのポイントは観察する相手が花や虫、何であれ、その相手を私達自身と同じ立場の知性ある存在として接することだと私は思っています。相手と交流するためには、先ずは相手を認め、心を開くことが何によらず重要だからです。身の回りのもの全てが皆、等しく同じ創造主を父とする兄弟達であることを認識し、互いに印象を交換できるようになれば、もはや私達には何らそれ以上、必要となるものはないことでしょう。
 かつてアッシジの聖フランチェスコは小鳥と会話をしたという話は、聖人の逸話として伝えられていますが、実は聖フランチェスコも本書で言う自身の心を意識に融合させ、自身を宇宙い広げて行く過程であったのかも知れません。このことを考える時、私達は身近にかくも豊かな環境が整えられ、本来はこの上ない恵まれた存在であると思うのは私だけではないと思います。それまでの持ち物全てを捨て去って、文字通り無一物を貫いた聖人が見ていた世界は実は本書でいう宇宙意識の大変豊かな世界であったのかも知れません。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落276

276 We have used the flower for everyone loves beautiful flowers. And if the love for it is equal to the love that one has for himself and he acknowledges its intelligence as firmly as he would of another person, with the same feeling, the flower will respond. And this can be observed if it is asked to turn its face from one side to the other. For it will follow your instructions as it follows the Sun. But you must remember at all times that you are consciously talking to an intelligent form.
276 私達は花を誰もが美しい花を愛することから用いて来ました。そしてもし、花に対する愛情が自分自身への愛情と等しければ、そして花の知性を他の人物に抱く感じと同じくらい確信し認めるなら、その花は応答することでしょう。そしてこのことは、片側からもう一方へ花の向きを変えるように求められば、そのように観察されるでしょう。その花はそれが太陽に従うように貴方の指図に従うようになるからです。しかし、常に憶えておかなければならないのは、貴方は何時も一つの知性ある形に話し掛けているということです。


【解説】
 花や虫達と気持の交流が出来れば、この世は素晴らしい世界になることでしょう。私達はこの地球の上にあって、数多くの創造物に囲まれて暮らしています。中でも花や昆虫達は誰の周囲にも存在し、多くの方が普段から接していることでしょう。
 しかし、私達はこれらを単にその形状や色彩、香りで判断し、評価しているだけで、その花が持つ生命力という本来の知性には気付いていません。花瓶に入れられた花のつぼみが、既にその根から切り離されているにも拘わらず、成長を続け、やがて大輪の花を咲かせることに驚いた方もあるのではと思います。それほど、花は例えその茎で切り離されてもその本来の使命を果たそうと精一杯の努力を続けるのです。おそらく同様の趣旨かと思いますが、坂村真民が次の詩を残しています。「何が一番いいか 花が一番いい 花のどこがいいか 信じて咲くのがいい。」 その花の知性と交流する手法が本文では述べられているのです。
 植物との会話ということでは、米国の植物育種家、ルーサー・バーバンクも同様な実践をした方だと思われます。私もかつて米国Santa Rosa市にある記念館を訪ねたことがあります。詳しいことは憶えておりませんが、そこでルーサー・バーバンクがかつて使用していた作業用の机やメモの類いを見せてもらった際、記念館の係員がルーサー・バーバンクはあまり系統的な作業記録を残さなかったと言っていたことを記憶しています。彼が何千という植物の芽から的確に目的の品種を選んでいたことは今日まで多くの逸話が残っている通りです。これらの手法は彼のやり方が直感的であったとされて来ましたが、その背景には彼が自在に植物と会話をしていたからに他なりません。特段、記録をつけて、その系統が優れているか自分の心で考えなくても、的確な応えを植物自身から彼は得ていたということでしょう。身近にある植物や虫達を自分と同じ知性体であることを認めれば、それらと心を通じ合えると本文では言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落275

275 Do not become too absorbed with labels as they may confuse you. Do not expect the same kind of reaction as you have been accustomed to from the mental side. For when you become aware of the life of a flower you will also be aware of the intelligence that produced the effect. The flower will not speak to you in sounds you are accustomed to but it will react to you as intelligence speaking to intelligence. And all forms can be addressed in the same manner, for you will not be recognizing the form alone, but the intelligence manifesting through the form.
275 レッテルにはあまり没頭しないようにして下さい。それらは貴方を混乱させるかも知れないからです。また、感覚心からの反応に馴れて来たのと同じ種類の反応を期待してはいけません。何故なら貴方が一つの花の生命に気付く時、貴方はまた、その結果(訳注:花)を造り出した知性について気付くようになるからです。その花は貴方に貴方が馴れ親しんだ音で話し掛けることはないでしょうが、知性が知性に話し掛けるように貴方に反応することでしょう。そしてすべての形有るものはこれと同様なやり方で呼び掛けることができます。何故なら貴方は形のみを認識しているのではなく、その形を通して具現している知性を認識しているからです。


【解説】
 これまで人間が自然界を見て行って来たことは、各々の特徴を観察し、似たもの同士をグループにし、共通する特徴を集約しながら、個々に固有の名前をつけて来ました。いわゆる分類学です。このため、未だに何処そこで新種が見つかった等のニュースが流れます。これら分類の起源は、人に名前をつける権限を神が与えた太古に遡りますが、本文ではこのような既存の分類にとらわれず、現物、そのものを良く観よと言っているのです。
 また、自然界にある植物その他の対象物に対して、話し掛ける場合に従来の感覚表現の形式で相手から返事が来る訳ではないとも言っています。全ては対象と私との内部の知性同士の会話、印象の交換であることを示唆しています。あらゆる創造物に対して、自己の内部の知性から働きかけることによって、互いに意思疎通、即ち会話が出来ると言っているのです。各自の感覚心で表層の形を見ると同時に、内面ではこのような印象のやり取りを行うことが大切だということです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落274

274 And how is this done? It is no different than memorizing things while in school or elsewhere, and is done with repetition until you are sure that it is well impressed upon the sense mind. When this is done you will never forget. But this should be done in the Cosmic Allness, and can be done by seeing with Cosmic Sight or God's eyes.
274 そしてこれはどのようにして成されるのでしょうか?それは物事を学校かその他で覚えるのと何ら変わるものではなく、貴方が感覚心に十分印象づけたと確信するまで繰り返すことで果たされます。これが実行された後、貴方は決して忘れることはないでしょう。しかし、これは宇宙的調和の中で成されるべきであり、宇宙の目、神の目で見ることによって成され得るのです。


【解説】
 宇宙的記憶を育むにはどうすれば良いかについて本文は述べています。即ち、記憶に残すには学校での学習と同様、繰り返し憶えようと努力することだと明言しています。
 私達は何か特別な行を積めば、ある瞬間に特別な目覚めが起きて、瞬時に事が進むと思いがちですが、本文からわかるように現実はそうではないように思います。毎日の繰り返しがその人の人格や能力を作り上げて行くということです。また、この場合、自分でこのことを憶えておこうと決心し、心に刻みつける努力を何度も行い、確かに記憶したと心に確信するという一連の行為(努力)をして初めて、心に記憶される訳で、まずは自らこの体験を憶えておこうとすることが重要だと言っています。
 今頃(5月のはじめ)は丁度、木々の若葉が美しい季節となりましたが、今朝も通勤途中の歩道のケヤキの若葉が朝日に輝き、木々がまさに生きているという実感が湧きました。一見では身動きしない大木ですが、季節の節目にはその活発な行動力を見ることができます。これら木々が吸収する有害ガスや放出する酸素、その他の恵み、夏には木陰を作り、冬には陽光を与えるケヤキの街路樹から、生命の姿の美しさを感じない訳には行きません。こうした印象に残る日常の風景もきちんと自分の心に留め、当時どのような印象を受け、どのような心境になったかを記憶に留めることも、本文で言う訓練の一つです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落273

273 You may say here, but I am conscious. That is partially true for if you were not you would not be alive. But are you conscious of cosmic consciousness as the Creator whom we call God is ? For this conscious intelligence is aware not only of the cosmos but all the created effects. In other words its records consist of cause and effects. And if we are to fulfill the purpose of our creation we must cultivate the other half of our life which is cosmic consciousness. For this in turn brings life eternal with all of its records.
273 貴方は自分には意識があると言うかも知れません。それは部分的には真実です。何故なら意識が無ければ生きてはいないからです。しかし、私達が神と呼ぶ創造主が意識している程に宇宙意識を意識していますか?何故ならこの意識の知性は宇宙のみならず全ての創造された結果物を知覚しているからです。別の言葉で言えば、その諸記録は因と結果物を含んでいるのです。そしてもし私達が創造された目的を満たそうとするなら、宇宙意識である私達のもう一方の半身を育まねばなりません。こうすることがひいてはそのすべての記録を携えた永遠の生命をもたらすことになるのです。


【解説】
 この生命の科学の一連の講座において最も大切な概念としてこの「意識(consciousness)」が揚げられます。著者アダムスキー氏が伝えたかったこの「意識」という概念について、私達はもっと深く考える必要があるように思います。
 あるものの存在を常に心の中に実感し、絶えず気にとめる状態を「○○を意識する」と表現しますし、救急隊が急病で倒れた者に対して「意識があるか」を確認する時は”目覚めているか”、或いは身体全体を統率する一連の頭脳活動は確保されているかといった意味で日本語では用いられています。そう考えると、本文にあるように、「私には意識がある(I am conscious)」という意味も、これと同様に”感覚反応を受け取れる識別能力や知覚能力がある”という意味合いであり、日本語の場合と同様な語感があることが分かります。
 しかし、私達が日常的に持っている意識は、創造主の持つ意識とは比べようもなく小さなものに留まっており、その意識を宇宙の意識まで養成することこそ、究極の精進の目的であると言っているのです。但し、本文では”どうすれば”とか”どのようにして”とあまり解説はしていません。各自の自我の状況は、これまでの生涯の違いから各自異なる背景があり、一口にこうすればとは言えないのです。ただ、私の経験から言えば、日常生活を送る中で、自分の心を動きをチェックし、暴走しないようコントロールする中で、自分の意識する範囲、関心の分野を拡大し、そこから得られる印象を大切にする過程で、自然と印象への感受性が高まるように思います。また、ひとたび自然を大きく包み込んでいる存在に気付いた後は、そのより大きな存在の意志に自分を従わせることが大切なことはこれまでも述べて来た通りです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落272

272 Some may feel I use the word consciousness too often, yet it is this consciousness that is the real you. It is also back of all creation - the primal force - the most important part in a mental life. For the sense mind must remember its experiences if life is to continue, as consciousness is the recorder of all actions in life. If the sense mind does not associate itself with the consciousness its memory is short for it is not eternal. But as we have said before, it can become eternal by blending with consciousness.
272 中には私が意識という言葉をあまりに多く用いていると感じている人もあるかも知れませんが、真実の貴方はこの意識なのです。それはまた全ての創造の背後にあるもの、原動力であり、精神生活において最も重要な部分です。何故なら、感覚心は生命を継続するつもりならその体験を記憶して置かねばなりませんが、意識は生命の全ての行動の記録者なのです。もし、感覚心が意識と仲良くならなければ、その記憶は永続しない為、短いものとなるでしょう。しかし、私達がこれまで申し上げたように、心は意識と混じりあうことで永遠のものになり得るのです。



【解説】
 意識というものが捉えにくいことは良く分かります。また、通常、私達の生活ではもっぱら表層的な心が右往左往しており、私達自身や万物の奥に存在する意識に気が付かないこともあって、私達は容易には意識の存在に気が付かないのです。しかし、少なくても記憶ということについては長期に渡り保持されるのは心にではなく、この意識の中にあると本文で明言されていることに注意したいと思います。私達の価値は各自の人格、才能その他の特徴ですが、その価値の源はその人の記憶ということに行き着く筈です。どのようなことを大切に思って来たか、どのようなことに感動したか等々、丁度著名な画家も若い修業時代には多くの他の画家の作品を研究し、素描訓練も積み重ねたことでしょう。その上で初めて本人の画風を打ち出せるようになるものです。基本となるのは自らの技量の土台はこうした過去の記憶が意識の中に貯えられているからということになります。
 人生のあらゆる分野についても事は同様で、心が自己顕示欲を捨て、意識と仲良く生きられればその記憶の恩恵に浴することも出来ますし、無用な葛藤をせず、楽な生き方が出来るということでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落271

271 The sense of sight is reflecting the effects, but not the life of the effects. It is like the window or mirror. But to have a reflection there must be a cause. So in a way we are half dead, or living only half a life. And Jesus said, let the dead bury the dead. Meaning that the pallbearers bearing the corpse are as dead the corpse. The form within the coffin lies unconscious of life and the ones carrying it are equally unconscious of life in full, or cosmic life. For the corpse lived a mental life as the ones who bear it do and once the consciousness withdraws, the mental is silenced. For it never knew itself as the real part which is the consciousness.
271 視覚は結果物を反映していますが、その結果物の持つ生命は反映していません。それは窓や鏡のようなものです。しかし、映像を得るには因がなくてはなりません。ですからある意味、私達は半分死んでいる、或いは生命の内、半分しか生きていないと言えます。また、イエスはこう言いました。死者をして死者を葬らせよと。死体を担いでいる者も死体と同様に死んでいるという意味です。棺の中の肉体は生命の意識は無くなり横たわっていますし、それを運んでいる者達も等しく満ちた生命、宇宙の生命について意識していません。何故なら、その死体はそれを担ぐ者達同様に心による生活を送って来ましたので、ひとたびその意識が退くと、その心は沈黙させられます。何故なら、心は意識である真実の部分に関する自分自身について知らないで来てしまったからです。


【解説】
 目で見ているものがその対象の全てであるとすること、言い換えれば目で確認できればそのものを評価できるとするのは誤っていることを先ず、明らかにしなければなりません。なにしろ、私が見ていると思っているのは単なる自分のレンズを通して映った投影像であり、それは外面的な結果物でしかないからです。この点に対し、イエスはその人生は半分死んでいると称したのです。つまり、私達は目や耳等の感覚器官を窓として、そこから得られる情報で全てを判断し、裁いて来ているのです。そこには、形あるものの内部やその背後に息づく生命の本当の力は反映される筈もなく、ただ自分の見た、聞いた等の感覚器官の性能に依存した人生を送っている姿があります。
 そこでイエスは死者を担いでいる者達も、実は死者も同然だと言ったのです。自分の中の意識を対象のそれと一体化し、形有るものの内部に宿る生命力と同調しない限り、本来の人生を送っているとは言えないと言っています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落270

270 Jesus made the statement, ye have eyes yet see not, and also, the blind lead the blind. Yes, we do have eyes, as your home has windows. And the windows would say if they could speak, through me the forest is pictured. And if I became a mirror I would reflect the forest, but not its life.
270 イエスは、汝は目を持っているが見ていない、また盲人が盲人を導くようなものだと発言(訳注:マタイ15:14)しています。確かに、私達は皆さんの家に窓があるように目を持っています。そして、その窓がもし話すことができたとしたら、私を通してその森が見えるのだと言うことでしょう。そして、もし、私が鏡になったとすれば、私はその森を映すでしょうが、その生命までは映すことはありません。


【解説】
 私達の目の機能は、良く知られているように水晶体レンズで網膜上に投影された画像を感光体が受信し、その「信号」を脳でイメージに構築するといった原理になっています。もちろんその為、レンズが曇ったり、感光体の細胞が可能な眼圧その他で損傷すればその機能は損なわれます。
 しかし、私達が実際、見ている、言い換えれば勝手に見ていると思っているのは、実は脳の中で再構成された感覚器官がつくり出したイメージから勝手に思っているのかも知れません。
 実際には目は人体が外界の光を受けるために設けられた窓に過ぎません。また、その家の中に結ぶ像は単なる投影した2次元の像でしかなく、私達の感覚器官の巧妙なカラクリにより、あたかも実態を把握しているかの錯覚に陥っているということでしょう。言わばバーチャル(仮想)の世界であり、当然、窓からの情報は例えどのような優れた素材を用いても限られたものになることは良く分かります。
 一歩、その家(自我)の限界を知り、家の外に出て、かつて家の中から見ていた景色を再度眺める時、私達はより広大な空と大地の下、もっと生き生きした姿、生命の活動がそこにあることが分かります。また、ひとたび、窓からは決して見えない物事が現にあり、生命を支えていることを知れば、再び家の中に戻った後に窓から見る景色は随分、変わったものになるものと考えています。
 なお、本文の中で「盲人が盲人を導くようなもの」の意味することはこのような解説を提供する者にとっては、大変重い言葉と受け止めています。
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