ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落270

270 Jesus made the statement, ye have eyes yet see not, and also, the blind lead the blind. Yes, we do have eyes, as your home has windows. And the windows would say if they could speak, through me the forest is pictured. And if I became a mirror I would reflect the forest, but not its life.
270 イエスは、汝は目を持っているが見ていない、また盲人が盲人を導くようなものだと発言(訳注:マタイ15:14)しています。確かに、私達は皆さんの家に窓があるように目を持っています。そして、その窓がもし話すことができたとしたら、私を通してその森が見えるのだと言うことでしょう。そして、もし、私が鏡になったとすれば、私はその森を映すでしょうが、その生命までは映すことはありません。


【解説】
 私達の目の機能は、良く知られているように水晶体レンズで網膜上に投影された画像を感光体が受信し、その「信号」を脳でイメージに構築するといった原理になっています。もちろんその為、レンズが曇ったり、感光体の細胞が可能な眼圧その他で損傷すればその機能は損なわれます。
 しかし、私達が実際、見ている、言い換えれば勝手に見ていると思っているのは、実は脳の中で再構成された感覚器官がつくり出したイメージから勝手に思っているのかも知れません。
 実際には目は人体が外界の光を受けるために設けられた窓に過ぎません。また、その家の中に結ぶ像は単なる投影した2次元の像でしかなく、私達の感覚器官の巧妙なカラクリにより、あたかも実態を把握しているかの錯覚に陥っているということでしょう。言わばバーチャル(仮想)の世界であり、当然、窓からの情報は例えどのような優れた素材を用いても限られたものになることは良く分かります。
 一歩、その家(自我)の限界を知り、家の外に出て、かつて家の中から見ていた景色を再度眺める時、私達はより広大な空と大地の下、もっと生き生きした姿、生命の活動がそこにあることが分かります。また、ひとたび、窓からは決して見えない物事が現にあり、生命を支えていることを知れば、再び家の中に戻った後に窓から見る景色は随分、変わったものになるものと考えています。
 なお、本文の中で「盲人が盲人を導くようなもの」の意味することはこのような解説を提供する者にとっては、大変重い言葉と受け止めています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落269

269 THE EYES OF GOD, OR CONSCIOUSNESS
We have been taught in our religious faiths that God sees all acts, yet we know that the sense mind does not see the invisible cause back of every effect. This means that we see less than half of what is to be seen. But we as an effect of God have the potential of seeing what God sees. The reason that we do not see as He does is because we do not understand life.
269 神の目、即ち意識
 私達は宗教の教義の中で、神は全ての行為を見ておられると教えられて来ましたし、私達は感覚心はあらゆる結果の背後にある見えざる因を見ていないことを知っています。このことは、私達が見るべきものの半分も見ていないことを意味します。しかし、神のひとつの結果である私達は、神が見ていることを見る潜在力を有しています。私達が神が見ておられるように見ない理由は、私達が生命を理解していないからです。


【解説】
 実際、本文で言う「神の目」で見るということは、従来の私達の目で見るという概念とは異なるものかも知れません。見える物の背景にある要因に気付く、或いは感じるようになるというのが正直なところかと思います。本文では神はacts(行動)を見ていると言っています。つまり、私達が日々、刻々どのような生活振りを送っているかをじっと見ているということであり、私達は常に神から見られていると思うべきです。
 同様な意味を持つと思われるものに、チベット仏教の寺院の高楼に描かれている巨大な目の絵はこうした神が私達をいつも見守っていることを示すシンボルだとされています。
 また、一方では人間の額に目を描く事例もありますが、これも本文で言う従来の肉体の2つの目の他に、意識と一体化した結果、見えるようになる人間の能力を象徴するものです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落268

268 The marriage of the sense mind and consciousness has been referred to as The Lion and The Lamb lying down together. And when this takes place one is on the way to Eternity, and the Book of Remembrance will be opened unto you as promised in Revelations.
268 感覚心と意識の結婚は共に横たわるライオンと小羊の関係として引用されてきました。そしてこのことが起る時、人は永遠へと続く道の上にあり、ヨハネの黙示録に約束されているように記憶の書が貴方に明かされることでしょう。


【解説】
 本文では心と意識の融合を両者の結婚と表現しています。また、「ライオンと小羊」の絵もカトリックではよく引用される例えです。なお、この場合、ライオンはイエスを、小羊は迷える者を意味しているとされています。
 とかく私達は心が意識に吸収され、「無」になるような状態を想像しがちですが、そうではなく、両者はその絵のように各々両立するということに注意が必要です。もちろん、心は広大な能力を持つ意識に寄り添うことでより深い知識を得ますが、同時に意識もその意向を人間の諸活動を通じて現実世界に反映させることができることに注目しなければなりません。意識が例えどのような素晴らしいアイデアを持ち、それを表明したとしても、そのメッセージを受け止め、内容を理解し、実現に向けて行動する人間が存在しなければ意識の望む世界は実現しないからです。
 互いに相手を尊重し、信頼することが結婚生活の基本ですが、それと同様に、まずは心が以後、それこそ永遠に連れ添うことになる意識に対して、これまで以上の信頼を寄せることが大切です。また一方が片方に全てを依存するのではなく、自ら相手の助けになる事柄を進んで手助けすることも望まれます。私達の心も意識から常に何かをもらおうとするのではなく、意識の為に何が出来るのかを考えることも必要です。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落267

267 To cultivate eternal memory and become the likeness of God or The Supreme Consciousness, one will have to live it and with it as he does with his life mate or partner. Not thinking of self alone but the other as well, thus blending the two to create a harmonious union. For this is what must be done to blend the sense mind with consciousness. And when it is done the individual will represent God as he was meant to do, in the first place. As a man and wife represent each other, and the memory of their first meeting and all acts from there on are quite permanent and they enjoy life together.
267 永遠の記憶を培い、そして神、即ち至上なる意識の似姿になる為には、人は生涯の友人やパートナーに対するようにそのことを生き、それと共に生きなければなりません。自分のことのみを考えるのではなく、もう一つの存在を考え、この2者を融合して調和的な融合体を造り上げることです。何故なら、これは感覚心を意識に融合させる為に成さねばならないことだからです。そしてこれが成された時には、各人ははじめに意図されたように、神を表現するようになるでしょう。男と妻が互いを表わすように、また彼らの最初の出会いとそれからの全ての行動の記憶が完全に永遠となり、二人が生活をいっしょに楽しむのです。


【解説】
 自分にとって大切な存在は絶えず自分の近くに置きたいものです。カトリックでは修道女を「神と結婚する」と表現し、以後の人生において常に神と生活を共にするという、本文と類似した表現をしています。
 結果の世界、古来から続く歪んだ社会の中で生きる私達は、たとえ本人が真の道に進もうと努力してもそれを妨げるような出来事も数多く起るのはある意味、仕方のないことです。その時、自分の内部に相談できる存在、意見を求められる存在を持っていることが大切だと考えます。
 その為にも、人生の航路の先に何が起ろうとも、絶大な信頼を置ける宇宙意識とのパイプを大切にし、その交流さえ確保していれば、他に何も必要なものはありません。ひとたび、この自分にとって大切な存在を自覚できれば、後は私達の心を常にその創造主と結果の世界に現れた諸々の創造物への関心を高めて、自分が一つの創造物として何を実現させたら良いのかと心を開くことだけで、答えはまもなくやって来ることでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落266

266 One should not be in a hurry to cultivate cosmic memory, for impatience will cause a misapplication of the law. Always remember that consciousness is eternal. Therefore it is not going anywhere, so it is not in a hurry, for in itself it is all inclusive. And by remembering this one will avoid many mistakes.
266 人は宇宙的記憶を培うのに急いではいけません。何故なら、短気は法則の誤用をもたらすからです。常に意識は永遠であることを思い出して下さい。ですから、それは何処に行ってしまうことはなく、急いではいません。何故なら、それ自身の中に全てが含まれているからです。そしてこのことを覚えていることによって、人は多くの過ちを避けることが出来ます。


【解説】
 時には人生を振り返って見るのも良いものです。本文で言う宇宙的記憶はとにかくとして、遠い昔に体験した何がしかの事柄の断片は各自、思い出されることでしょう。とりわけ、雨や風等、特異な自然現象、旅先で見た印象的な風景等、私達の自我が記憶を保持出来ないと言っても、そのいくつかは残っているものです。
 これらの物事を体験した当時から、何十年と経過し、もはやその時点に戻ることはありません。それは結果の世界、移り往く世界の出来事だからです。しかし、それを見つめる私達の本性は、その時から継続しているのです。つまり、極端に言えば、物質的な結果の世界はとにかくとして、内面性のみが、時間を超えて受け継がれるということでしょう。
 このように記憶というものが各自の人格を構成して行く訳ですが、本文ではそれを獲得しようと急いではいけないと言っています。記憶の深い、浅いは如何にその体験に感動したかによって決まるでしょうし、歩み始めさえすれば、文字通り時間は永遠に続く訳で、バランス良く少しずつ自分の理解力を拡げながら過ごせと言っているのです。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落265

265 Consciousness is the father and the mother of all form creation which conceives and gives birth to the various forms. And within it is the blue print or memory which is ever present that can be reviewed for conformation at any time when the need may arise. But the sense mind cannot do this alone, there must be the combination of the two. For as we know, the sense mind learns from effects and now it must understand the cause producing the effect. The effect is the fulfillment of a cause and the sense mind might not execute it exactly as the cause mind intended it to be, so through misinterpretation a mistake could take place. And this is where the Law Of Grace enters and through this law the sense mind has a chance to realize and correct its mistake. And corrected it must be before progress can be made. And it must be made in behalf of consciousness and not the sense mind. In this way the sense mind is made to do what the better self wants it to do. If this is not done a slight memory might remain but it will be distorted.
265 意識は受胎し様々な形有るものに誕生を授ける全ての形有るものの創造の父であり母です。そしてその中には必要が生じた時に何時でも一致するか吟味できるよう常に出して置かれる青写真もしくは記憶が入っています。しかし、感覚心はこれを一人では出来ません。二者の組合せが必要なのです。何故なら、ご存知のように感覚心は結果から学ぶ者ですが、今や、その結果をつくり出している因を理解しなければならないからです。結果は一つの因の成就です。感覚心は因の心が意図したようには実行しないかも知れません。そこに誤った解釈を通じて間違いが生じるのです。そしてそこに恩寵の法則が入り、この法則を通じて感覚心はその誤りに気付いて改める機会を得るのです。そして進化を遂げるにはその修正を終えていなければなりません。また、その修正は意識の為に行われなければならず、感覚心の為に成されるべきではありません。このようにして感覚心はより良い自己がそうしたいと思うことをするようにさせられます。これがなされなければ、わずかな記憶が残ったにしてもいずれは歪められて行くことでしょう。


【解説】
 ここで注目すべきポイントは、「修正は意識の為に行われなければならず、感覚心の為に成されるべきではありません」ということです。従来は、自分の過ちは自分自身の向上の為、正すことだと思って来ましたが、著者アダムスキーは「意識の為に」自分の過ちを修正せよと言っています。逆に言えば、それ程に自分の心を小さくして全てを意識の為に奉仕することを言っているのです。
 また、ここで「恩寵の法則」(the Law Of Grace)について触れられていますが、これに関連して、広く親しまれている賛美歌の一つ、Amazing graceが思い出されます。ご存知の方も多いかと思いますが、作詞者ジョン・ニュートンはイギリス人で18世紀に生きた人です。やがて当時盛んに行われていた奴隷貿易に携わるようになります。その後、彼が22才の時、自分が船長であった船が嵐に遭遇しました。転覆しそうになる船の中で彼は一心に神に祈りました。その後、船は奇跡的に危機を脱します。この体験の後、ジョン・ニュートンは船を降り、牧師になった後に生まれたのが、この賛美歌と言われています。

Amazing Grace! How sweet the sound 驚くべき恵みよ(なんと甘い響き)
That saved a wretch like me!     神は私のような罪深き者も救われた
I once was lost, but now I'm found,  私は見失われたが今見い出されたのだ
Was blind, but now I see.       私は何も見えていなかったが今は見える

なお、上記の訳語は下記を参照しました。
http://www.ffortune.net/calen/xmas/songs/amazinggrace.htm

 この歌詞には、自らの死を目前に自分がこれまで犯して来た誤りを悔いる中で、作者が神の恩寵の暖かさを痛感し改心した率直な感謝の気持が込められています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落264

264 While we have used two individuals in close association with each other, this can take place where many are represented by one when using the same pattern. This shows that the consciousness whom we call God, is the all inclusive. And as two people are able to become as one through association and even resemble each other, just so, an individual can become one with, and resemble God, when he thinks in terms of God instead of the ego. Yet he retains his individuality, the difference is that his sense mind has blended with conscious consciousness that we call God. The sense mind is able to perform its normal duty as it did in the past but it is aware of the consciousness that gives it power and intelligence to act wisely in the world of effects. The mind will then feel as Jesus felt when He said, I of Myself do nothing, but the Father that worketh through Me does all of the work. This is cosmic consciousness.
264 私達は互いに親密な二人を例にしていましたが、このことは多人数が同じパターンを使用する場合についても一人に代表されるところに起り得ます。これは私達が神と呼ぶ意識は全てを包含することを意味しています。そして二人の人間が交際を通じて一体となり、互いに似て来るまでになるように、丁度そのように各自も自我への代わりに神について考えていれば神と一体になり、神に似て来るのです。しかしそれでもなお、自分の個性を保持しており、違いは自分の感覚心が私達が神と呼ぶ意識的な意識と融合しているということです。感覚心はこれまで同様、通常の任務を実行できますが、その者に結果の世界で賢く行動する為のパワーと知性を与える意識について気付いています。心はその後イエスがこう言った時のように感じることでしょう。私自身は何も成していない、父が私を通じて全ての仕事を成したもうのだ。これが意識的な意識です。


【解説】
 二人の人間の場合も、人と創造主との関係の場合も同じです。私達がこれまでして来たような自己への関心を創造主に向け直すことで、私達は創造主に似て来るということです。その究極が私達が創造主の意向を100%実現でき、イエスのように言えるまでになることです。ウェイン・ダイヤーも講演の中で私達はあまりにも自己に関心を集中しすぎていると述べており、賢者が指摘する真理は何時の時代も同じです。普段、どのような対象を気にかけているのかが重要だと言っているのです。
 しかし、これを大変難儀なこと、厳しい修業を経ることによることでしか到底実現しないと思うべきではありません。その証拠に、自然界にある人間を除く生き物は全てこの心境に達しているように見えますし、毎日毎日を必要な任務を全うし、例えどんな困難な結果世界の環境にあっても楽しげに自分の仕事を全うしている自然の生き物達は、本文で言うその者を通じた創造主が働く状況を作り出しているからです。四国巡礼で多くの人達が「同行二人」という言葉を記したものを身につけるとされていますが、「いつも弘法大師と一緒」というこの言葉も本文と近い内容を指す意味を持っていると考えています。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落263

263 A good example of this can be found in two people who decide to join together for life. Each is an individual with habits in his or her way of life, yet after years of life together they not only take on each others habits but they start to look alike. All because they have become aware of one another as though they were one. Even pets, such as dogs and cats etc., oftimes take on the personality of the master. So we can see that a constant reminder or association becomes an automatic manifestation of the other, where effort is no longer required for the form operates on memory pattern. The most important thing to realize is that the pattern remodeled the personality of the form in likeness of itself. It could be said that the original person is no more as he was, but another has taken his place. For one has absorbed the other and the two become as one.
263 この良い例は生活を共にしようと決意した二人に見ることが出来ます。二人は各々自分の生活の習慣を持った人物でしたが、何年も生活を共にした後は、彼らは互いの習慣を身につけるばかりでなく、似始めるのです。彼らが互いを一体のものとして意識していたからに他なりません。犬や猫等のペットでさえ、しばしば飼い主の個性を身につけます。ですから、私達は、絶えざる思い出や交際はやがて(訳注:自分自身へ)自動的に他者を現出させることになるのです。形有るものは記憶パターンによって働くため、もはや努力は必要とされないのです。私達が認識すべき最も重要なことはパターンが自身の似姿に沿って人格を再形成させたということです。それは、元々の人間はもはやかつての者でなく、他の者がその位置をとって代わったと言うことも出来るでしょう。一方が他を吸収して両者が一体となったからです。


【解説】
 私達の心がこれからの人生を意識と共に生きようとする時、どのようなことが起るかを示したのが本文です。
 即ち、夫婦の例えのように、相手を信頼し、生活を共にすれば次第にその性格も似て来ると言っています。つまり、私達が心の中で絶えず意識を信頼し、またコミュニケーションとも言うべき会話(印象の伝達と感受)が出来るようになれば、私達は創造主の似姿になれると言っているのです。
 また、一方で、このような心の変貌は各自の人格をも変えることをも指摘しています。悪い例で言えば「マインドコントロール」による人間の隷属化手法となりますが、良い方向に応用できれば人間本来の道に向けて各自の一大変革をもたらすことになります。日常的にどのような心境で刻々の時間を過ごすのか、何に自分を同調させているのかが問われていることに私達は早い段階で気付かなければなりません。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落262

262 This particular phase of life is a major part to be learned and it should not be very hard when the sense mind begins to live with the consciousness instead of acting on its own as it has been doing. And results will be outstanding when the two live as one. This may seem to be a repetition of what has been said before, but repetition becomes a memory.
262 特にこの段階の生活は学習する上での主要な部分であり、感覚の心がこれまでして来たように自分自身が確保しているものを前提として行動する代わりに、意識と共に生き始める時には、過度に行うべきではありません。そしてその両者(訳注:意識と心)が一体となって生活する時、効果は傑出したものになるでしょう。このことはこれまで述べられたことの繰り返しのように見えるかも知れませんが、繰り返すことが記憶になるのです。


【解説】
 心がかつてのように自分自身の凝り固まった意見や自らが築いてきた拠り所と称する結果を頼みとせず、自身の奥に居る静かで暖かい意識とともに人生を生きて行くことが、学び本来の姿だと言っています。言い替えれば、これまで述べられて来たことのエッセンスがこの言葉に集約されているということです。
 私達はこれまで何の目的でこの講座を学んで来たのかについて、各自もう一度振り返る必要もあるように思います。自分の心を本来の位置に戻す為、矯正する為にこれまで学んで来た訳ですから、本項に記載された内容は極めて重要です。少しずつの実践を通して心をより低く、柔軟なものにし、意識のアドバイスを進んで受け入れること、心の中で考え出すのではなく、意識からの指導の声に従うことが最も的確であり、私達創造物のあるべき姿なのです。その結果として身体が健康になったり、事業が進展したりするということです。本末転倒というように、結果である御利益を求めるのは正反対の態度であると言うべきです。
 また、一時に過大に努力しても良い結果は得られない、即ち少しずつ、休まぬ取組が必要だと言えるでしょう。

ジョージ・アダムスキー「生命の科学」第7課-段落261

261 In order to obtain a cosmic concept of life all that is necessary is an expansion of the mental conscious awareness. And in this way you become more alert to your actions in both fields. It could be compared to being in a plane or on a high building, for then you become aware of things below as well as above you. You are using the same sense mind, only your field of awareness has expanded. When you are able to do this regardless of where you may be there is no limit to how far you can go in connecting with conscious memories that could reveal many past experiences. And in this way find your true self and live in the sea of eternity.
261 生命の宇宙的概念を得る為に必要となるもの全ては心による意識的な知覚の拡大です。そしてこの方法によって貴方は両者(訳注:因と結果)の分野における貴方の行動についてより多く気付くようになります。それは平原や高い建物の上に居る場合と対比することができます。何故ならその時、貴方は貴方の上空でのものと同時に眼下の物事をも気付くようになるからです。貴方は只、貴方の知覚範囲が広がっただけで、同じ感覚心を用いているのです。貴方がこのことをどこに居るかに関わらず出来るようになれば、多くの過去の体験を呼び起こすことができる意識的記憶に接続する為、如何に遠くに貴方が行こうとも制限はなくなります。そしてこのようにして、貴方の真の自己を見つけて、永遠の海の中で生きて欲しいのです。


【解説】
 「目に見えない意識に融合せよ」とか「意識の指導に従うことです」といくら言葉で唱えても、それを実現する為にどのようにすべきかを示さなければ、効果は上がりません。ここでは具体的にどのように心掛ければ宇宙的な生命感が得られるかを述べています。本文では比較的簡潔に私達の心の知覚範囲を広げることだと言っていますが、私はこのことは大変重要な意味を示唆していると思っています。
 つまり、心の知覚できる範囲とはレーダーと相似させて考えて良いと思います。自分の心がレーダーが周囲を探知すべく、パラボラが回転している状況が本文の「alert」(警戒)の持つ語感です。そしてそのレーダー画面に見える範囲が本人の心の知覚範囲です。感度が鈍く性能が劣るレーダーはごく近くの大きなものしか把握できませんが、性能を高めて行けば、より遠くの、即ち未だ実現していないが現実化に向けて進行中の物事等のより繊細な存在に気づけるのと同様です。優れたレーダーがあれば暗闇の中でも不安もなく人生航路を進むことが出来る訳です。
 このように心の知覚範囲を拡大することは各自の心の持ち様で少しずつであっても実行できると思います。日常歩いている時も、机に向かっている時も自分の心を文字通り広げ、印象に対する感受性を高めようとすることは、十分個人の努力でできる範囲だと言えるでしょう。
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